房総半島のほぼ中央、延々と山並みがつづく中にある久留里城。緑深い山の上の本丸には二層の小ぶりな模擬天守が目に入る。二ノ丸に君津市立の資料館が建ち、周囲の峰は桜や紅葉の名所として市民の散策コースとなっている。ここは、戦国時代に房総を席巻した里見氏にとっての象徴的な城であると同時に、宿敵である北条の大軍が何度も押し寄せてきた古戦場でもある。千葉県内でも最大級の城郭であり、すこし周辺を歩けばその要害堅固さを実感できる場所でもある。
なぜ、私がここで久留里城を採り上げたか。それは、まったく個人的なことである。私は、久留里城に惚れてしまったのだ。青空に映える、品のいい小ぶりな天守や、緑に包まれた峰々の空気、その影で牙をむく荒々しい戦国期山城の遺構たち。眼下を見れば、黒々と横たわる小櫃川の蛇行痕跡(そこは北条との激しい戦いが繰り広げられた古戦場でもあるのだが)、これらの全てに惹かれてしまった。もちろん、私が里見氏を贔屓にしていることも無関係ではない。というより、久留里城との出会いが私に里見氏の世界を教えてくれたようなものだった。
私がはじめて久留里城を訪ねたのは四年ほど前の冬だった。まだ駆け出しの暇つぶし的なお城ファンに過ぎなかった私は、ある日のテレビ番組で朝霧に沈む久留里城の姿が映し出されたのを見て、美しいと思った。地図を開いてみると、自宅からはさほど遠くはない。折をみて訪ねてみよう、と思った。
|
積雪の久留里城天守。たまたま降った大雪が、思わぬ美しさを演出してくれた。 |
私が久留里城に向かうその日の早朝、関東に大雪が降った。積雪は10cm以上にも達した。道路はいたるところで通行止めである。私は別に、無理に出かけるつもりもなかったのだが、幸いなことに越後に実家がある私は、車には冬季はいつでも冬用タイヤを装着していたし、多くの一般ドライバーは冬用タイヤを持っておらず、その結果、道路がガラ空きになったのである。もちろん、どこかで通行止めを食らうかもしれないが、それでも行って見る価値はあると思った。私は思い切って出かけてみた。高速道路は通行できない。国道357号、国道16号をゆっくり走って通称「久留里街道」へ入る。70kmほどの道のりを約二時間かけて、ようやく久留里へと到着した。
広い駐車場に車を停め、坂道を登ってみた。幸い、森の中の積雪はそれほどでもなく、尾根筋の遺構が雪の陰影に映えていた。そして、山頂の天守を見上げたときに、美しいと思った。天守は観光用の模擬天守ではあるが、望楼型二層の漆黒の天守が青空と、積雪の白さに輝くさまは、この日に来て良かった、そう思わせるものがあった。こうして久留里城はいっぺんで私のお気に入りの城となった。
その後、何度も繰り返し、久留里城を訪れている。山は季節や天候、時刻によって常にその容姿を変える。美しい久留里の山々と城の姿は、どんな場面においても違った美しさで私を魅了する。だから、いつ、何度行っても飽きないのである。そしてこの久留里城を追いかけるうちに、ありし日のつわもの共の生き様を語る、多くの遺構とともに、さまざまなエピソードや伝承、軍記物などに触れることとなった。
そんなわけで、はなはだ個人的な動機で恐縮ではあるが、久留里城の真の姿に、少しでも迫ってみよう。
【久留里城の立地】
久留里城周辺はかつて望陀郡畔蒜荘、あるいは甘木荘とよばれた地である。千葉県内では大きい部類の河川に入る小櫃川流域に開けた土地である。小櫃川の中流域から上流域にかけては山並の幅が狭まり、谷状の地形を作っている。この小櫃谷をさらに上流に進めば、上総・安房間の交通の要衝である亀山郷に行きつく。小櫃谷の両岸は標高200m前後の低い、しかし険しく複雑な地形の山々に囲まれている。久留里城は小櫃谷の入り口附近の、こうした複雑で険しい峰一帯に築かれている。
一見、辺鄙な場所であるようにも見えるが、小櫃川中下流域の低地帯と房総山地の接点であることと同時に、交通の要衝である点が重視されたものであろう。北は真里谷経由で木更津・姉ヶ崎方面、西は小糸経由で富津・上総湊・佐貫方面、東は大多喜・夷隅・勝浦方面、南は亀山経由での鴨川方面や長狭街道・平久里街道などの安房主要街道にも繋がるなど、現在でも房総中部の交通ハブとして機能している。また、もともと房総半島は温暖な上、比較的雨量が多く水が豊富なことや小櫃川等の主要河川が大きく河岸段丘を形成していることから、水量が多い割に河川氾濫による水害の危険が少ないなどの農業生産に適した土地柄であったことも関係しているだろう。
久留里城が位置する通称「城山」は標高145mほど、直下の集落からの比高はおよそ100mほどである。比高も標高もそれほど高くない割に要害堅固であるのは、その地形による。このあたりの山並は遥か七十万年の昔には海底であった。地質はそのころに堆積した泥岩地質だという。そして、七万年前には海面が後退して陸地化が進み、約一万年前には小櫃川による浸食作用などで断崖絶壁の地形や、流域にいまなお多数見られる河岸段丘台地を形成していったという。久留里城周辺に限らず、房総山地は痩せ尾根と急崖、深い渓谷や谷津が複雑に入り組んだ地形が延々と続いている。久留里城もこうした地形の上に築かれている。城下には小櫃川の旧河道(江戸期に直線河道に改められた)が大きく蛇行し、天然の外堀を為している。久留里城を訪れる際は模擬天守の美しさや堀切などの城郭遺構ばかりでなく、ぜひこうした断崖絶壁や複雑極まりない地形も観察してほしいところである。実際、里見氏時代におおよそ完成されたと考えられる現在の久留里城は、痩せ尾根の上に狭い削平地を設け、尾根は要所要所を堀切で断ち切っている。その尾根の両側はもともとの崖に加え、執拗なまでに削り立てて、岩盤むき出しの垂直削崖が延々と続いている。この尾根を削りたてた垂直削崖はなまじの石垣や土塁などよりもよほど堅固で、真正面からの取り付きはほとんど不可能である。こうした里見氏得意の築城手法も、こうした複雑かつ険阻な地形があって初めて成立したものであろう。
もうひとつ、久留里城の地形上の特徴としては、独立丘でも平地に突出した尾根でもないところが挙げられるだろう。江戸時代に成立した軍学書の類では、城は独立丘に築くのがよいとされ、実際、尾根続きに攻められる危険のない独立丘には中世・近世問わず多くの城郭が構えられている。しかし、独立丘の城郭には大軍に完全包囲されやすいという致命的な欠点もある。
久留里城が置かれた「城山」は南北に細長い峰を中心に据えて築かれている。この附近では独立丘の城郭が築きにくい地形条件にあることは事実だが、久留里城の場合、たびたびの北条の久留里城包囲戦に際して、こうした長峰に築城したことで得た利益は大きかった筈である。峰は一万や二万の兵ではとても完全包囲はできない。しかも、複雑に入り組んだ支尾根のそれぞれが間道の役割を果たすため、糧道の確保にも難儀しない。しかもこれらの支尾根のほとんどは敵が押し寄せてくる西側ではなく、東側の谷津に面して伸びているのである。実際、北条軍との攻防では、幾度も城下まで敵兵が押し寄せていながら、久留里城は一度も陥落していない。多分に結果論的な部分もあろうが、こうした地形上のアドバンテージが里見軍の危難を救った、とは考えられないだろうか。
|
|
房総半島の中央部に位置する久留里城。小櫃川中流域の、低地と山地の境目に位置し、街道も四方に伸びている。まさに房総の要地である。ちなみに海岸線は、地震による隆起や埋立地の影響を考慮して、2mほど海面を上げている。(クリックすると拡大します) |
久留里城および伝・古久留里城(「上の城」)の平面図。広大な城域は南北1800m、東西700mにも及ぶ。小ぶりな天守に目が行きがちだが、少し足元を見れば深い谷、断崖絶壁の垂直切岸、荒々しい堀切などに気づくだろう。(クリックすると拡大します)
※作図に当たっては現地踏査の他、千葉城郭研究会の松本勝氏が踏査・作図した「久留里城跡概念図」を参考にした。 |
【築城伝説】
久留里城の創建前後については、『総州久留里軍記(以下、久留里軍記と略す)』)にその伝説が記されている。「久留里軍記」はこの地方にまつわる伝説・史談をまとめたもので、大友皇子がこの地に逃れ自害したという「壬申の乱」伝説や久留里城築城伝説、里見氏と北条氏の激しい攻防などを描いた軍記物である。江戸時代中期ごろの成立と考えれれ、こうした軍記物にありがちな事実誤認や誇張も少なくないので100%信用するわけにはいかない。しかし、こうした伝説もまた歴史の一部なのである。決してないがしろにしていいものではない。それに、何より面白いのである。
それによれば、「浦田の城」をはじめて取り立てたのは平将門の三男、東少輔頼胤(種)であったという。将門はある日、面賀池というところに出向いたところ、河岸に輝くばかりの女臈をみた。「こは不思議なる女性かな。此の世の人とは思われず」と、傍らの一木を見れば、美しく瑠璃色に輝く衣が枝にかかっていた。「実に音に聞く天女の身に纏ふ天の羽衣とやらんは是ならん」と手にとった。将門がその女性に声をかけると、女性はりんりんたる声で「我は是天女なり、君の御手に持ち給ふは則ち我が羽衣、たまゝ下界に天下り、人間に見付けられしことの浅ましさよ、早く返させ給へ」と将門に哀願した。ところがその女性、紅顔に雪のような肌、いっぺんで惚れてしまった。「成程、易き事ながら、かゝるいみじき御衣、夢だに見しことも候はず。餘り名殘の惜しく候。暫しの内、我が家に御入り給へかし」と、無理やり連れ帰った。将門もまた、随分大人気ないというか、強引なものである。犯罪まがいといってもいい。
女もまた是非も無く将門の館で月日を送るうち、ついには将門の妻となって「比翼の鳥、連理の枝と契らせて楽しみ給へば」十年のうちに三人の子を為した。長男千葉之介、次男相馬、三男がこののち久留里城を創建する東少輔であるという。
ある日、女は将門に頼み入った。「此の下界に住む事久し。君の御情深ければ、今ははや、故郷も事も打忘れぬ。たゞ、昔の羽衣なつかしく候程に、一目見せさせ給へや」。将門は「今ははや子供も一人ならざれば、別の仔細も有るまじ」とて、羽衣を取り出したところ、女は羽衣を手にとってつくづく眺め回し、「我既に此の衣を君に取られし故、是非なくして君の情けに預かりしぞや。拾年は人間界の一昔、あらなつかしき古郷や」と言い残し、忽ち天へと帰っていった。ポカンと呆れる将門、やがて暫し別れを悲しんで咽び泣いたという。将門の行為は現代でいえば恐喝や拉致監禁にも相当しようものであるが、十年ののちにこうした報復に遭うとは思ってもみなかっただろう。女の方もなかなかしたたかではある。
|
浦田の細田妙見(久留里神社)。将門&東頼胤伝説と結びつけるのはいささか無理があろうが、妙見社があるということは千葉氏の支配が及んでいたことも想像される。ちなみに本殿の紋は九曜だった。 |
さて、将門は後妻を迎えて、さらに三男をもうけた。これが四男武石、五男野尻、六男松崎であるという。ある日、天に帰った女は自らの三人の子を懐かしんで、月に星の供わった石に三通の文を結びつけ、天より降らせた。実はこの天女は七曜星(北斗七星)のなかの劍星であった。将門はかの天女を妙見大菩薩と祭ったという。そして将門は下総・上総の六ヶ所に妙見宮を建立した。久留里城下の浦田細田の妙見もそのひとつである。
ある時、三男東頼胤は浦田細田の妙見に参詣し、城郭のことを祈ったところ、「浦田の峰に城郭を構へて、名を久留里といふべし」とて妙見大菩薩の夢のお告げがあったという。頼胤は早速人数を遣わして久留里の城を築城した。そのときに三日に一度ずつ雨が降ることから「雨城」という呼び名がついた。もっとも、実際にはこの地の地名「甘木荘」の「アマギ」の当て字であるという説が有力である。
その後、将門は朝敵として俵藤太藤原秀郷に討たれ、頼胤も降参して、望陀郡を賜ってこの城に居住した。その子、久留里左衛門唯胤のときに千葉氏と争い、久留里左衛門は討たれてしまったという。
長々記してはみたが、この話に信憑性が全く無いことは明白であろう。前半はありがちな天女伝説であるし、その子たちが云々、妙見大菩薩が云々というのは将門のことではなく、千葉氏のことである。ちなみに東少輔頼胤は将門の三男などではなく、千葉介常胤の六男であり、そもそも時代も異なる上に東氏が所領としたのはその姓からもわかるように下総東庄である。この話には多分に、千葉氏がその出自を妙見菩薩と将門に求めようとする意図が見られる。従って、東頼胤が久留里城を築いた云々というのは全くのつくり話であろう。
ただし、久留里城下に妙見があるのは事実である。下総・上総で妙見が祀られる城といえば、ほぼ例外なく千葉氏の一族の関係する城である。久留里城を築城したかどうかはともかく、ある一時期、この地方にも千葉氏の一族が勢力を持っていたのかもしれない。
【真里谷武田氏の時代】
さて、歴史の上である程度信憑性を持って語られる久留里城の創建となると、時代は下って室町中期、十五世紀後半のことである。「享徳の大乱」に呼応して、武田信長が真里谷・庁南の二城を築いて上総中部に進出したのは康正二(1456)年のことであった。この上総武田氏はまたたく間に上総中央部を横領しその勢力を広げていくのであるが、久留里城もその頃、一族によって支城として取り立てられたものであるとされる。前述の「久留里軍記」では、真里谷三河守信重の子、遠江守信房が初代城主だという。また別の系図では、真里谷信興の子、和泉守武定の名も見える。上総武田氏の系図自体が不明な点も多く、どれも信憑性に関しては決め手となるものがない。ここでは十五世紀の中庸以降に「真里谷武田氏の一族」が築いた、という解釈だけで十分であろう。
ところで、現在我々が久留里城と呼ぶ城の峰続き、現在の城山隧道の北側に、もうひとつの久留里城がある。これは「上の城(うえんじょう)」と呼ばれるもので、里見氏が今知られる久留里城を築く前に、真里谷武田氏の一族と云われる勝(すぐろ)氏が居住していたものだ、という。一応、その呼び方が妥当かどうかはともかく、ここではこれを「古久留里城」とよぶことにしよう。勝氏の系図も前述の真里谷武定の系統であるとか、和泉守武重の系統であるとか、諸説あるが判然としない。通常、武士が姓を名乗る際にはその所領を名乗る場合が多いのであるが、この久留里周辺には勝という地名はない。一説に、武田氏の一族ではなく、武蔵村山党の一族で武蔵勝呂の出自である、または望陀郡勝村(現袖ヶ浦市)の在地土豪だとする説もある。だとすれば、婚姻などで一族化した在地土豪の流れと見ることも可能かもしれない。この勝氏が、武田氏支配時代の最後の城主となるのである。そして、新しく城主に収まったのが安房の主となった里見義堯であった。里見義堯は「古久留里城」を入手したのち、この城が手狭であることを理由に、南側の浦田の山にあらたに城を築いたという。それが今知られる久留里城の前身であるという。
それでは、この「古久留里城」は果たしてどんな城であったのか。遺構面や地形から観察してみたい。
古久留里城のある山は標高130mほど、高さは久留里城の本丸とさほど変わらない。西側は急斜面となり、小櫃川旧河道にむかって落ち込んでいる。ここは、近世に現在の久留里街道の前身となる「横手道」(現在の国道410号)が開かれたり、小櫃川の河回しなどが行われているため、若干の地形改変等はあるであろう。しかし、西側の小櫃川を外堀とし、急斜面に守られていただろうことは想像がつく。新・久留里城とは城山隧道の貫通する尾根一本で繋がっており、半独立丘といってもいい。
古久留里城に上ってみると、山の上は案外広く、西は小櫃川に面した急斜面ながら、東側は緩やかに傾斜している。この緩傾斜を削平して曲輪を設け、居住空間を確保できそうなものであるが、そうした形跡はあまりない。この傾斜は緩い曲線を描く谷戸になっており、この古久留里城では谷戸を空堀として縄張りに取り込んでいる。曲輪らしい曲輪は後世に「茶臼曲輪」と呼ばれる15×20mほどのものと、南側山腹に幾段にも削平された平地くらいである。こうした縄張りは比較的古い時代の旧態を留めているともいえる。そして前述の谷戸の取り込みこそが、この城の縄張りの決め手となるであろう。この手法は、真里谷城における手法に類似している。削り残しの尾根を土塁に見立てて利用するやり方は新・久留里城とも共通するものがあるが、新・久留里城のものほど荒々しく削りたてられてはいない。要するに自然地形をかなり残しているのである。
里見氏の城郭は尾根を徹底的に削り落とし、尾根の根元を大規模に掘り切って鋭角的で攻撃的な縄張りを見せる。これに対し、真里谷氏系の城郭では尾根よりも谷戸に注目して選地しているように見え、結果的に自然地形の曲線的な形状を色濃く残している。同じような山でも、「谷戸」重視の真里谷氏系城郭と「尾根」重視の里見氏系城郭の違いが読み取れるように思うが、如何であろうか。
さて、里見義堯が新たに築いたという久留里城であるが、では古久留里城の何が気に入らなかったのであろうか。いったい戦乱の最中にある戦国武将が「手狭」などという理由だけで、多くの工数と費用を必要とする新城をつくるものであろうか。確証は無いが、これも真里谷氏と里見氏の城郭に対するコンセプトの違いではないだろうか。里見氏は半独立丘の形態を持つ「上の城」よりも、痩せ尾根が複雑に入り組む、「城山」の地形の方をより相応しい場所として取り入れることにしたのではないだろうか。そう考えると、里見氏の城郭防衛に関するコンセプトまで見えてくるような気がする。考えすぎだろうか。
|
|
前述の平面図から、「上の城」を拡大した。尾根の鞍部である城山隧道附近を境に、微妙に異なる様式の城郭が連なる。もちろん里見氏時代も久留里城の一部として機能していたことであろう。 |
「上の城」主郭南側の大規模な堀切。緩やかではあるが折れを伴っている。この城の堀切は自然の谷を少しだけ加工したものが殆どだ。ちなみに山上の尾根の上の主要な曲輪はほぼこの主郭だけと言ってもいい。 |
【里見氏の久留里進出】
里見氏が久留里城に進出したのはいつだったか。このようなごく基本的なことさえはっきりと分からないところが、里見氏や上総武田氏にまつわる歴史の謎めいたところだ。『里見軍記』『里見代々記』では文明三(1471)年に里見義実が久留里城を攻め落としたとあり、また『関八州古戦録』においては明応六(1497)年、里見義豊が上総に攻め入り、「真勝谷の城」を囲んだ、とある。城主の勝真勝は暫く防ぎ闘ったが敵わず降参し、小沢谷に蟄居したとする。これらのうち、『里見軍記』『代々記』などは里見氏のPR軍記であり、少なくとも義実の時期に久留里まで進出したというのは全く信用できない。そもそも、義実(実在したとして)の時代というのは古河公方・足利成氏と上杉氏らが激しく対立していた「享徳の大乱」の延長上の戦乱の最中であり、ともに古河公方陣営に属する武田氏と里見氏が城の獲り合いをするということ自体が考えられない。『関八州古戦録』にいたっては里見義豊が明応六(1497)年に云々、というのは時代も甚だしく違いすぎる。よって信用に値しない。しかし、この勝真勝なる人物が、里見氏の久留里進駐時期を計る上でヒントをもたらしてくれる。
勝将監真勝については、小沢谷宝泉院の記録に
「勝将監開基に御座候、但其の時之御除地に御座候 文亀三年癸亥年七月建立」
とある。「久留里城誌」ではこれを明応六(1497)年の開城の六年後に真勝が宝泉院を開基したことを受けて「まさに勝・里見両氏の平和的事態処理をうなずける次第である」と記しているが、これはどうか。この解釈は、明応六(1497)年の里見氏の久留里進駐が前提となった解釈である。普通に解釈すれば、文亀三(1503)年には勝真勝がこの地方の領主であり、大檀那として宝泉院を建立したのは、領主としての通常の寄進行動と捉える方が自然であるような気がする。また、久留里城の南、「上の城」の麓の安住にある真勝寺は、その名の通り勝真勝の開基であり、寺伝では天文九(1540)年九月に創建されたという。この間、天文七(1538)年には「第一次国府台合戦」があり、小弓公方軍に属した里見氏は戦闘らしい戦闘もせぬまま安房に退去、小弓公方足利義明は戦死し、北条軍は上総中島まで兵を進めたものの深追いはしなかったという。このあたりの事情を前述の「久留里城誌」では、「明応六(1497)年に里見氏に城を明け渡して小沢谷で隠居した真勝が第一次国府台合戦の結果を受けて久留里城主に復帰、真勝寺を寄進した」という解釈を採っている。がしかし、常識的に考えて、明応六(1497)年に隠遁した城主が四十年以上後に城主として復帰する、ということは考えにくい。従って、明応六(1497)年の里見氏進出については限りなく疑問といわざるを得ない。
現在では、少なくとも天文年間には里見氏の久留里進出があったであろうことは推測されている。ただ、天文の末期ではなかろう。もっと早い時期に里見氏の進出があったと考えている。
そのきっかけになったのは、真里谷武田氏の内紛ではなかろうか。内紛についての詳細は省略するが、真里谷武田氏では武田信保入道恕鑑の死後、庶子長男の信隆と嫡子の信応が家督を巡って対立、内乱状態となり、小田原北条氏、小弓公方らの介入を招いている。この過程で里見義堯は当初、北条氏綱らとともに信隆を支持していた。しかし、天文六(1537)年五月十八日、里見義堯は突如心変わりして小弓公方の推す信応派に寝返った。『快元僧都記』には
「房州味方之處、心替而成敵、百首城以大弓様御威光三ヶ国之兵可責之由」
とある。この変心の動機はよくわからない。が、このことで信隆派は決定的に不利となり、和議交渉の結果、六月十一日に信隆は鶴岡八幡宮に物詣に赴くという体裁で上総を退去する事態となった。
この和議によって、北条氏綱が修復造営中であった鶴岡八幡宮へ、房総諸将からの材木の供出が行われることとなった。この一連の過程で、注目すべき文書がある。これは天文六(1537)年六月六日付、峰上城主・真里谷心盛斎(真里谷大学入道全方)から足利義明の重臣であった逸見山城入道祥仙に宛てられたもので、用材の搬出の模様を伝えるものであるが、この中に
「久留里之様躰、如何様落着申候哉」
として久留里での様子についての報告を求めている。このとき、久留里に何らかの異変があったことを示すものではないだろうか。一方の里見義堯は足利義明からの八幡宮の材木提供の申し出に対し、
「敵地之間神慮也共、材木不可進之由」
|
勝真勝が建立したという真勝寺。寺伝では天文九(1540)年の建立であるという。ちなみにこの山門は「上の城」の城門だという。正直言って、そんなに旧くは見えないが・・・。 |
として断固として断っている。これらから推測するに、里見氏は武田氏内紛後の処置に何らかの不満を持っていたらしいことが伺える。第一の可能性として、この天文六(1537)年の時期に、内紛によって武田氏の勢力が弱まったこととその戦後処理への不満から、里見義堯が久留里城方面で軍事行動を起こしていた可能性を挙げておきたい。ただし、前述の真勝寺の寺伝を信じれば、天文九(1540)年の真勝寺建立はどう捉えるべきであろう。いったん久留里城に入った里見氏が「第一次」の敗北によって安房に退いたため、一時的に城主に返り咲いたものであろうか、あるいは小沢谷に隠居の身でも、その捨扶持の禄(千石だという)からでも十分に寺の建立くらいはできたものであろうか。
もうひとつの可能性として、第二次・第三次の武田氏内紛の時期を挙げておきたい。これは『笹子落草子』『中尾落草子』という軍記物で語られるもので、天文十二(1543)年に笹子城・中尾城をめぐって勃発した内紛劇を綴ったものである。もちろん、歴史的な信憑性には疑問も多く全面的に信用するわけにはいかない。しかし、ここで語られる内紛劇では、北条氏康や里見義堯の介入により、真里谷武田氏のかつての栄華が見る影も無く落ちぶれていくさまを描いている。事実、一時は上総を席巻し下総国境を窺うほどの勢力を見せた真里谷武田氏は、天文年間の内紛と周辺勢力の介入により瞬く間に衰退し、ほとんど歴史の表舞台から姿を消してしまうのである。この時期には、里見義堯の最大の同盟勢力である正木時茂・時忠兄弟の小田喜(大多喜)・勝浦への進出も進んでいる。二つの軍記の詳細が史実を忠実に反映しているとはいえないが、前述の内乱ののち、家中がまとまらずに分裂し、里見氏や北条氏の介入を招いた、という事態は考えられなくもない。その過程で、笹子城や中尾城だけでなく、真里谷武田氏の属城はつぎつぎと落とされ、あるいは開城を余儀なくされたことでもあろう。久留里城の接収もそうした一環かもしれない。正木氏の東上総進出の時期を考えても、この時期に里見氏がはるか南の安房にいたとは思えないのである。従って、第二の可能性として、天文十二(1543)年ころの武田氏の内紛時期を挙げておきたい。
【天文の久留里城攻防戦】
天文年間末期ともなると、房総の一台勢力に発展した里見氏と、関八州の制覇を狙う北条氏は、江戸湾を挟んで果てしなく攻防を繰り広げることとなる。そんな中で、天文二十三(1554)年には北条氏が上総中央部奥深くまで侵出し、とうとう里見氏の本拠である久留里城下まで迫った。この経緯は『総州久留里軍記』や『関八州古戦録』に詳しい。尤も、この天文年間の久留里城攻防戦については、確たる史料は存在しない。が、この頃里見氏は上総・安房の西岸部で勃発した「房州逆乱」などにより、急速に江戸湾の制海権と沿岸部の支配権を失いつつあった。そんな中、北条軍が里見氏のとどめを刺すべく、久留里まで兵を進めるという事態は考えられなくも無い。
この攻防戦は『久留里軍記』に迫真の戦闘の模様が描かれている。これをもとに話を進めてみよう。
「大将安房守義高公、小田原北條より大軍を以て押し寄せ來る由聞き召され、先づ城郭の要害巖しくして、大手方には、大門郭の松葉が峰より本丸下まで表櫓五十三ヶ所、搦手郭にも櫓九ヶ所立て並べ・・・」
ここでいう義高とは義堯のことである。義堯が安房守という受領名を名乗ったかどうかは疑問もあるが、一応『延命寺源氏系図』にも「刑部大輔」という官途とともに併記されている。義堯は「北条来る」の報に、大手筋には櫓五十三ヶ所、搦手にも櫓九ヶ所を建てたという。そんなに沢山の櫓を作れるものかどうかも疑問だが、ここでいう櫓とは、井楼櫓のようなものだけでなく、楯板を並べ廻らせただけの簡素なものも指すのだろう。それにしても五十三ヶ所は多すぎる。誇張だろう。「大門郭」の大門とは、「大手門」のことかと思ったが、久留里城博物館の学芸員に伺ったところ、いわゆる大手門の場所とは違うそうだ。字名で見ると、「大門」という字は近世大手門の先、200mほどの場所である。ここには妙長寺というお寺がある。とすると、「大門」とは妙長寺の山門または惣門を示しているのであろう。「大門郭」という郭があったかどうかはなんともいえない。おそらく、湿田に囲まれた微高地である妙長寺附近に臨時の鹿砦やら逆茂木やらを並べかけたものを「大門郭」と称しているのではあるまいか。
『久留里軍記』によれば、こうして城に立て籠もった連中には
「由那の城主山本左馬丞、鳴戸の城主忍足美作守、東金の城主酒井靭負、養老市原の城主芦野丹波守、一宮の城主須田将監、萬喜の城主土岐小弼、須才の城主本木與茂九郎、小田喜の城主正木久太郎」
らをはじめとした三千騎あまりという。対する寄せ手は北条左衛門(左衛門大夫綱成)、大道寺を両大将に、和田・三浦・笠井・中原・波多野・早川・田中ら都合二万二千が「迎へ郷」に陣取ったという。先鋒は玉縄北条氏だったようだ。
天文二十三(1554)年四月十一日に戦は始まった。
「先づ、小田原方には田中美作守と云ふ武士、強弓の名人にて、眞先に進み出て請戸川を渡り、大門口へ押し寄せたり」
この請戸川とは小櫃川のことである。小糸川とまちがえたものであろうか。もっとも、小櫃川には「浮戸川」という別名もあるそうだから、それを指しているのかもしれない。
「城の方には小田喜の城主正木久太郎手勢三百にて十一日の午の時より酉の刻まで、西風・東風三度まで繰り合ひしが、田中の勢に攻め立てられ、正木も獅子の曲輪まで追ひ込まれたり」
緒戦は小田原勢優勢だったようだ。獅子曲輪とは、久留里城二ノ丸から西へ延びる尾根の中腹にある腰曲輪である。田中美作は日暮れに至り、意気揚々と退き揚げた。この軍功で相模大住郡にて百貫目の所領を賜り、その高名は関八州に轟いたという。
里見方もやられっぱなしではない。正木久太郎、風木丹波守、近藤右衛門らは大手先から川を渡って敵陣に乗り込んだ。
「田中美作守、強弓の達者なれば、塚の上に登り、河を隔てゝ貳丁餘り控へたりしが、田中が放つ矢に大鐘太郎と云ふ者のつたる馬の平首發止と射通し、餘る矢は宗政縫之助の膝口へ箆深に立つ。又、城方には近藤右衞門是を見て、田中手の者伊豆國の侍仁良山五郎左衞門が眉間を打ち碎き、餘る矢田中美作守踏みたる鐙の鼻の先に中りて、鐙二つに碎けたり」
東西強弓合戦というところであろうか。馬の首を射抜いてさらに将兵を傷つけるというのもすごいが、敵の眉間を打ち抜いた勢いで馬の鐙にあたって、それを真っ二つに砕いてしまうというのもすごい。当時の弓の名人とはこんな超人めいた技能を持っていたのであろうか。驚いた田中美作守は兵を退いたが、風木丹波はこれを遁がさじと馬上五十、雑兵四百で追討ちをかけ、田中の兵七百と斬り結んだ。この戦闘で田中勢は二百、風木勢も百の兵を失ったという。しかし、里見軍は北条軍を押し返し、大門口へと引き返した。第一幕の大門口合戦は引き分け、というところであろう。
つづいて北条勢は搦手に磯部孫三郎ら馬上三百、雑兵二千を繰り出した。大軍である。城方では、本木與茂九郎・須田将監・天羽藤左衛門ら八百がこれに当り、獅子曲輪から小櫃川までの間を七度に渡って闘った。北条方は笠井左京助が馬上三十、雑兵二百を割いて本木の郎党八十に当った。
「此の本木與茂九郎は生年拾六歳、武勇人に勝れ、稀なる剛の者にて、城内随一なるが、敵を射立てて防ぎければ、敵方叶わずして小田原まで引きにけり。元来此處は沼田なれば、敵進みかねて戰ひけるを、差し詰め、引き詰め射る程に、雑兵五百餘人討たれてけり。」
十六歳の若武者が久留里城の危難を救ったのである。それにしても、ここで小田原まで退く云々というのは少々話が飛躍しすぎている感もある。
「是を見て左京之助が仲間孫八郎と云ふ者、馬の口を差し上げ、難なく深田を乗り越え、請戸川まで引きにけり。此の時、與茂九郎「遁さじ」と追ひ掛け、河中にて追ひ詰めたり。左京之助は年三十歳、與茂九郎拾六歳、互に太刀を合せ、火花を散らして戰ひけるが、左京之助太刀を鍔元より打落され、叶わじとや思ひけん、押並んでむんづと組み、互いに河中へどうと落つ。敵も味方も疲れければ、起きつ転びつ組み合ひし處へ、與茂九郎が侍近藤二郎と云ふ者馳せ來り、左京之助が首打取り、義高公の御前へ差し上げたり」
河中の一騎打ち、まさに軍記物の面目躍如たるところである。この若武者の武勇は義堯に高く評価され、市原郡の内島野村、青柳村、五井村、朝名木村の四ヶ村を恩賞として賜ったという。こうして久留里城は危難を免れた。
|
二ノ丸直下の薬師曲輪から見た城下。小櫃川曲流部の台地(「陣場」「幕ノ台」)が北条軍の陣地であったと伝えられ、「大門郭」や「獅子曲輪」直下では激戦が繰り広げられたという。ただし、位置関係を考えればやや不自然ではある。のちに北条軍は「向かへ郷」に陣城を構えるが、天文の攻防戦においても向郷から大門口の方にまっすぐ押し寄せてきたのであろう。 |
|
今度は逆に北条軍の目から見た久留里城。目の前には「上の城」(古久留里城)が立ちはだかる。この「陣場」は小櫃川が三方を囲む半独立台地である。小櫃川は江戸中期の川回しによって直線河道に改められ、現在は深い空堀のような旧河道が台地の裾に横たわっている。 |
【弘治の久留里城攻防戦】
しかし小田原も黙ってはいない。翌弘治元(1555)年三月十一日、第二次久留里城攻防戦がはじまった。北条軍は葛原に控えていたが、里見方の正木久太郎を大将に、風木丹波守、近藤右衛門、和泉馬之丞、常住伊賀守ら三百が渡河してこの陣を襲った。
|
正源寺加勢観音は里見義堯の守護仏である。久留里城の危難に際し、夢枕に現れた正源寺の観音仏は、「加勢すべし」と告げたという。義堯は冬木丹波、正木大膳に二体の観音仏を与え、戦場に挑ませた。いくさは観音仏の加勢により、見事に北条軍を退けたという。 |
「寄手の方より六尺餘りの大男、藤沢播磨守と名乗り出て、四方八面に切つて廻る。力は強し、太刀は切物、此の播磨守が太刀先に向ふ者壹人も助かる者なし」
天文二十三(1554)年の田中美作守の強弓や、第一次国府台合戦で小弓公方を射落とした横井神助など、北条には武勇に長けた人材が豊富であるようだ。しかし里見も負けてはいない。風木丹波守は長刀の名人である。半時あまりも藤沢播磨守と渡り合った末、播磨守の太刀を鍔元から打ち折った。仕方なく播磨守は組打ちを挑んだ。
「播磨守は聞ゆる大力なり。丹波が鎧の上帯取つて左手の方へ引き寄せ、えいや聲にて大地を踏みければ、芝の中へ片足脛まで踏み込んだり。身を開いて投げんとする所を、丹波守早業の人なれば、鎧通しを片手に探り、播磨が高股切り落す。片足ばかりになりにければ、目も闇み、心も消え、がばつと臥す所を、丹波守侍原久保彦四郎と申す者壹人來り、播磨守が首切り落す」
大力の播磨守の左四ツを軽業で交わした風木丹波の鮮やかな逆転勝ちである。それにしても、天文二十三(1554)年の本木與茂九郎の河中の一騎打ちを思わせるシーンである。
藤沢播磨守を失った北条軍は潰走をはじめ、里見軍は「逃さじ」と七里も追いかけた。その帰陣の際、粟坪村の地頭、恩田備後が小豆混じりの飯を炊き、千人余の将兵に残らず分け与えた。曰く
「某小身なれば、力叶はず。此の川水にて舌をしめし、息をつぎ給へ」
と諸人にすすめ、城へ返したという。これもどこかで聞いたような話ではあるが、これを聞いた義堯は恩田備後を召しだし、「此の度の才覚神妙なり」とて、望陀郡田川村を賜ったという。義堯にしてみれば、将兵に飯をふるまったことよりも、血気にはやる将兵を落ち着かせ、深追いさせることなく城に帰したことの功績を評価したのかもしれない。なお藤沢播磨守を討ち取った風木丹波守もまた久保村・八幡村・郡本村の三ヶ村を与えられたという。
|
上空800mから撮影した天文・弘治の激戦地。小櫃川を挟んで一進一退が繰り広げられたが、結局北条軍は久留里城を陥とすには至らなかった。(クリックすると拡大します) |
こうして北条軍はまたしても大敗を喫してしまったが、こんどは策を以って久留里城を切り崩そうとした。一宮城主、須田将監とその息子久太郎に内通を誘った。城下の大作という地にある入定寺に、須田将監と謀って五十数人の兵を潜ませた。しかし、須田将監の下人にこれを義堯に報ずる者があった。義堯はただちに須田親子を絡め取り、一類四十数名残らず、本丸で斬られた。その後、山本左馬丞が八百を率いて入定寺を包囲、一人残らず討ち取った。哀れなるは入定寺の住職、
「耳に藤を通して、敵の前後を引き廻し、其の上、請戸川にて首を切る。此の時、入定寺并に末寺二拾四ヶ寺皆潰れけり」
不貞の輩として、入定寺の住職が処刑され、その末寺のことごとくも潰されてしまった。怒った北条軍は磯部の地蔵院を大将に、北条彌八郎ら三千あまりで大門口に攻め入った。城方は忍足美作守、本木與茂九郎ら百五十がこれにあたった。八月二十一日のことである。日暮れまで闘い、北条彌八郎らの手勢は叶谷口から獅子坂まで押し寄せた。獅子坂とは、獅子曲輪のある二ノ丸西尾根の坂であろう。
「城方には本木與茂九郎生年拾七歳、浅黄縅の鎧に白星の冑を着て、手勢三百餘人を召し、彌八郎が七百と戰ふこと二度ばかり、與茂九郎が手にて拾四五人切り倒し、彌八郎と引つ組んで、獅子坂より六七間顛び落ち、遂に北條彌八郎が首を取る」
またまた大活躍の若武者、本木與茂九郎。二ノ丸直下まで押し寄せた敵を押し返したその高名は轟いた。義堯からは、畔蒜荘兼田郷に四ヶ村を賜ったという。
連戦連敗にいきり立つ北条勢は九月二日、三千の兵を繰り出して渡河、大門口へ押し寄せたが、今度は正木久太郎、忍足美作守、酒井靭負らがよく防ぎ、北条は八百の将兵を失う大敗を喫した。
北条はさらに、本田美作守を大将に一千余を大門口に投入する。城方は大賀紀伊守が四方に控え、逆茂木を並べて待ち構えていた。北条は逆茂木を踏み越えて攻め入った。
「山上に酒井靭負、細度郭には近藤右衛門、弓衆三百にて下り來り、矢先を揃へて射落としけり。されども敵少しも臆せず。持楯をかぶり、細土郭を破つて門口まで攻め入りけり」
もはや損害を省みない我攻めである。北条にはこういうヤケクソまがいの作戦は珍しい。
「其の時、(正木)久太郎采配取つて下地をなし、爰を先途と防ぎけり。小田原勢堪りかねて引き返す處に、近藤右衛門が細戸郭の谷間に隠し置きたる五百人、一度にどつと切つて出て、大門郭を取り巻いて鬨の聲を揚げにけり。小田原勢前後の敵に包み込まれ、逃るべき様なく、何卒して細戸郭を打破り、請戸川へ出でんとす。近藤右衛門が手剛くして破ること叶わず。其の時、正木久太郎勝に乗じ太鼓を打つて押し懸けたり。峰の櫓には矢先を揃へて射る程に、二時ばかりの内に、小田原勢皆々悉く討たれけり。大将本田美作守僅に命を助かりて、拾四五人にて本陣へ切り抜けたり」
まさに、いいようにあしらわれてしまった。ここで出てくる「細戸郭」という曲輪があったかどうかはよくわからない。谷間に兵を隠して云々ということは平場ではなく山の陰であろう。「大門郭」などと同じく、鹿砦や逆茂木で囲っただけの臨時の陣地であろうと想像する。場所は、この記述から見て後世搦手と称される南側の丘陵地帯、「延長寺谷」附近であろう。それにしても、この伏兵作戦はよく似た作戦を後年、三船台合戦でも用いている。里見氏の得意な戦法だったのだろうか。
以上、『久留里軍記』をもとに久留里城攻防戦を考えてみた。冒頭に記したようにこれらの合戦が史実かどうかは確証が無く、ましてや個々の戦闘においては確かめようもない。しかし、当時の久留里城をめぐる情景や、城攻めの緊迫感、合戦の駆け引きが目に見えるようではないだろうか。軍記物も、案外いろいろなイメージを与えてくれるものである。
テキストラベル付 |
着色總州久留里軍記繪圖
この画は、「総州久留里軍記」で語られる久留里城の合戦、永禄二十三年のものをイメージして描いたものである。もちろん当時の城郭の様子などはわかる筈もないから、ほとんど想像の産物である。
久留里城本丸には天守などは無い。現在、模擬天守が建っている場所の発掘調査で、里見氏時代の掘立建築痕が出土しているそうであるから、城主の詰の館や籠城に最低限必要な食料の蔵などはあっただろう。ここでは板葺きの城主館と、いくつかの掘立小屋、藁葺きの蔵などを描いてみた。一応城主の館は掘立式建物ではあまり見栄えがよくないので、勝手に殿社風の礎石建物としてしまった。また、本丸のみは木塀で囲ってみた。
二ノ丸以下にも各種の建物を配置してみたが、どの曲輪もさして広くはないのでどの程度の施設があったのかは想像しにくい。また、城主の平時の居館は、現在駐車場となっている谷戸に置いてみた。谷戸の周囲は山からの沢水・湧水で湿地が広がっていただろうと想像した。
林立する櫓は「表櫓五十三ヶ所、搦手郭にも櫓九ヶ所立て並べ」という記載に沿って想像したものであるが、どう考えても五十三ヶ所は多すぎるので、要所要所に適当に配置してみた。井楼櫓だけでなく、懸崖上に半分せり出したような懸け造りの矢打ち場みたいなものや矢倉門なども適当に配置してみた。
小櫃川に面した段丘上には、山麓直下に多少の根古屋集落を置き、民家集落は久留里神社・妙長寺附近を想定した。久留里軍記でいうところの「大門口」「大門郭」にあたるところをここと考えた。近世平城となる「御屋敷」地区はこの当時は田んぼだったことにした。西尾根直下の平場は「獅子坂口」である。 川に沿って伸びている街道を閉塞するべく、逆茂木などを並べてみた。
小櫃川曲流部の対岸の半島状台地、通称「陣ヶ台」は北条との激戦地と伝わる。ここを北条軍の本陣と考えてみた。北条軍は台地の奥に本陣を構え、鶴翼八段の構え、先鋒は渡河を開始するべく、大門郭方面に兵を移動している。久留里神社附近で先鋒が渡河しようとしているところを里見軍が川べりで迎撃している、という想定である。
(クリックすると拡大します) |
【永禄の攻防戦と謙信越山】
永禄三(1560)年、北条氏康は再び三たび、久留里城を包囲した。北条氏康は五月九日、白河結城晴綱に宛てて、「上総向久留取立新地、普請悉出來之間、近日可納人數候」として、久留里城に対して向い城を取立て、近日中に兵員を駐屯させる旨を報じている。また、同月二十八日には「普請悉出來、人數三日以前納候」と、着々と攻囲網を築いていった。この「向久留里」の城とは、どこのことかよくわからないが、久留里向郷あたりの河岸段丘上にでも築かれたものであろう。八月上旬、いよいよ氏康は久留里城への本格的攻撃を開始した。これに対して里見義堯は、小田喜の正木時茂を遣いに、越後の長尾景虎(上杉輝虎、のちの謙信)に援軍を要請した。いよいよ関東管領・上杉謙信の越山作戦がはじまるのである。越山の目的はもちろん久留里城救援だけではないが、この事態が謙信の腰を上げさせるきっかけにはなったであろう。謙信は八月二十九日、北条氏康に上州平井城を追われて自らの下で庇護していた前関東管領・上杉憲政を伴って春日山城を進発し、三国峠を越えて上州の諸城を落とし、厩橋城に陣取った。この事態に際し、氏康は久留里城の囲みを解いて、九月下旬には武蔵河越城、十月には武蔵松山城に入り、上杉軍の襲来に備えた。久留里城はまたしても危難を救われた。時茂は十月二日付け、謙信の馬廻衆宛ての書状で「時茂年来之願望此時候」と喜びを顕している。謙信のこのときの越山では、厩橋城で越年したのちに関東諸将をあわせ十万とも云われる大軍で長駆小田原城まで押し寄せ、城外を焼き払うなど肉迫したが、結局小田原城は落とせずに兵を退き、鎌倉鶴岡八幡宮で関東管領の就任式典を執り行ったのちに越後に帰っている。しかし、この謙信の直接行動によって、北条はより大きな敵である上杉勢と毎年のように戦うことになった。上杉の同盟軍たる里見氏もこれで守勢から攻勢に回り、小田原参陣は勿論、下総方面などにも積極的に兵を進め、原氏の牙城である臼井城を奪うなど、再び盛り返している。北条氏はこの大敵にあたるために甲斐の武田信玄との共同作戦で武蔵松山城を攻略するなど、主戦場は主に武蔵中部から上野へと移った。そのためか、久留里城はこののち、直接包囲されることはなかった。
【国府台の敗戦】
|
第二次国府台合戦後、永禄七〜八年頃の勢力図。佐貫城は永禄初頭には北条の配下にあり、国府台合戦の後、池和田・秋元両城は北条に陥され、勝浦正木氏、万喜土岐氏も離反、四面楚歌の里見氏は一時久留里城すら失う。この頃館山城はまだ無く、どこで勢力を挽回したのであろうか。安房まで退いたとは思えない。やはり、千本城こそがその場所に相応しい気がするのだが・・・。(クリックすると拡大します) |
永禄七(1564)年一月七日、下総国府台において、里見義弘・太田資正ら八千と、北条氏康・氏政の二万が激突した。結果、里見軍は大敗を喫し、久留里をも棄てて安房まで兵を退いた。追撃する北条勢は里見氏の属城であった池和田城、秋元城を落とし、とうとう久留里城まで占領されてしまった。この時期、里見氏は長年の同盟者であった勝浦正木時忠や萬喜土岐氏らにも寝返りされ、ふたたび危難の淵にあった。この危難がひとまず解消されるには、永禄十(1567)年の三船台合戦まで待たねばならない。
ともあれ、里見氏のシンボルたる久留里城まで明け渡さざるを得なかったほどに里見氏は追い詰められていたのである。北条氏康は常陸の小田小太郎に久留里城の在番を命じている。しかし、実際に小田小太郎が久留里城に赴任したかどうかはわからない。現在残る遺構を見る限り、久留里城には北条の手が入ったようには思えない。もろもろの周辺事態を併せて考えても、北条の久留里占領は、一時的なものだったのではないだろうか。一方の里見氏も、一時は安房まで退いたかもしれないが、小櫃川や養老川沿いにふたたび北進したであろう。久留里城から南にわずか5kmしか離れていない場所に、一支城としては似つかわしくないほどの壮大な城、千本城がある。おそらく里見氏は千本城を足がかりに、ふたたび小櫃川沿いの領土を取り返していったのではないだろうか。
【天正の内乱】
天正六(1578)年五月、里見義弘が歿した。里見義弘の死後、里見氏の家中では天文の内乱に続く、二度目の相続争いが勃発した。義弘には晩年まで実子がなく、養子とされる義頼に家督を譲るつもりであったが、晩年近くに室の古河公方足利晴氏の女に嫡子・梅王丸が生まれたという。個人的には、義頼の養子説には疑問を感じるが、それはまた別の機会の話としよう。
兎にも角にも、家督相続がすっきりしないまま義弘が没したことにより、里見領国は上総を基盤とする梅王丸派と安房を基盤とする義頼派に分かれ、義頼をはじめ安房衆は義弘の葬儀にひとりも参列しないほどの険悪な状況に陥った。
こうした危うい均衡が突如崩れたのが天正八(1580)年四月のことである。義頼は西上総および小櫃谷に兵を進め、瞬く間に千本城の東平安芸守父子、造海城の正木淡路守らを降伏させ、佐貫城に在城していた梅王丸を捕えて強引に出家させ、岡本城脇の聖山に幽閉してしまった。この電光石火の軍事行動に際し、久留里城もまた降伏開城している。このとき久留里城にいたのは城番の山本右京進であった。山本右京進はおそらく、山本由那城主かその一族であろう。在番の山本氏では、この城を支えることは出来なかった。いかに要害堅固を誇ろうとも、城主がいない城など脆いものである。おそらく戦闘らしい戦闘もほとんどなかったであろう。
その後、義頼は東上総の小田喜正木氏をも滅ぼし、安房一国・上総の半国を直轄領とした。里見氏領国の一円支配が完成したのである。安房中心の勢力基盤を持つ義頼には久留里城の相対的な地位は低下したであろう。その後も在番衆のみが置かれた。山本氏をはじめ、天正九(1581)年ごろには法木右京亮、波多野左京亮らが在番した。秀吉の小田原討伐に際して作成された天正十八(1590)年の「関八州諸城覚書」(毛利家文書)によれば、久留里城には山本越前守が在城していたという。
【近世初頭の久留里城】
天正十八(1590)年七月十五日、小田原城の開城、北条氏の滅亡とともに関東の中世は終わった。関東には関八州の太守として徳川家康が入封した。このとき、里見氏は豊臣軍に属していたにも拘らず、豊臣政権の言いがかりとしか言いようの無い「関東惣無事令違反」なる罪により上総を収公されてしまった。上総の主になったのは、江戸城に入城した家康である。久留里城もまた、家康に明け渡されることとなった。家康に任じられて久留里城主となったのは、大須賀忠政である。大須賀忠政の養父・康高は、遠江横須賀城主として、高天神城の攻防で大将格に任じられた人物である。大須賀氏の祖先は千葉介常胤の四男・胤信である。その庶流が甲斐に渡り、後に家康に仕えた。大須賀氏は数百年の時を経て、ふたたび房総の地に還ってきたことになる。しかし、忠政の実父は康高ではない。康高には実子が無く、家康の命で榊原康政の子を養子としたのである。
大須賀忠政は「上の城」の山麓に「横手道」を拓き、小櫃川右岸に新しい市街を建設した。「横手道」は現在の久留里街道、国道410号である。新しい市街地とは、現在の久留里市場である。大須賀忠政は二十七歳の若さで没したが、その治世は現代まで繋がる近世久留里の礎をつくったといってもいいだろう。
|
現在の久留里市場の街並み。数百メートルに渡って商店街が並ぶ。いわゆる「短冊」状の町割を持つ、典型的な近世城下町である。現在も交通の要衝として車の量も多い。 |
大須賀忠政の死後、嫡子の国丸(五郎左衛門)が三歳で家を嗣いだ。しかし、忠政の実家である榊原家では、榊原康勝が没した後、子がなかったので家康の命で大須賀五郎左衛門が榊原家を嗣ぐこととなった。大須賀五郎左衛門は榊原式部大輔忠次となり、遠州横須賀城に六万石で任じられ、大須賀家は絶えてしまった。
慶長六(1601)年、土屋忠直が望陀・市原二万石の領主として入城した。土屋氏は武田信玄に仕えた甲州の武士の家系である。土屋昌次はあの長篠・設楽ヶ原の合戦において戦死、その弟、昌恒は武田家滅亡の「天目山合戦」において、主君勝頼を守って崖の蔓を片手で掴みながら、もう片方の手で追撃する滝川一益軍を次々と斬って棄てたという「土屋惣蔵千人斬り」で有名な人物である。昌恒は勝頼に殉じて天目山で果てた。そういう武勇の家系なのである。この昌恒の遺児が惣蔵忠直である。惣蔵は武田氏の滅亡後、家康に仕え、家康の三男、のちの二代将軍秀忠の小姓となった。秀忠元服の際に、「忠」の一字を拝受して忠直と名乗ったのである。忠直は関ヶ原の役に際し、秀忠に従って東山道を行軍していたが、別命によって急遽西上し、家康の軍に合流して戦功があった。このとき秀忠は上田城で狡猾な真田真幸の前にキリキリ舞いを演じており、関ヶ原には遅参している。忠直は運がよかったというべきだろう。
戦乱の去った江戸期における最初の城主となった忠直は城下町の整備を進め、千光山円覚寺を建立するなど、近世大名らしい平和政策を遂行した。慶長十七(1612)年三月、忠直は三十五歳の若さで死去、二代利直の治世となった。利直もまた実直な性格で、荒地を耕させて新田一千石を開拓し、領内に自生するクロモジの木を使って藩士たちの手内職に楊枝づくりを推奨した。これが工芸品として名高い久留里の「雨城楊枝」である。学問も推奨し、新井正済を召し出して国士として優遇した。この正済の子が名高い新井白石である。白石は十代の後半を久留里藩士としてこの地で過ごした。利直は幕府内においても三代将軍家光の代に大坂城番、駿府城番などの要職を歴任した。この忠直、利直はまず名君だったといってもいいだろう。
|
久留里城二ノ丸に建つ新井白石の像。白石は久留里藩士の子として生まれ、青年時代をここで過ごした。しかし、どんなに有能な人材がいても、上がお馬鹿では話にならない、ということか・・・。 |
|
豆腐屋の娘、お都留が葬られたという正源寺は、里見義堯の母の菩提寺でもある。お都留の墓は恨みを持つ人々に粉々にされてしまったという。人の恨みとは恐ろしい・・・。 |
問題は三代頼直である。利直が延宝三(1675)年、六十九歳で死去したため家督を嗣いだが、この家督相続の時点ですでにひと悶着あったらしい。頼直は癇癪持ちで酒好き、おまけに好色であった。ばか殿様の資質を十分に持っているといっていい。それ故、家老の月丘半左衛門ら、藩の心ある者はみな、賢明な射程の数直を推し、頼直の廃嫡を願った。しかし、お家騒動が勃発すれば公儀の介入を招き、改易の憂き目を見ることは明らかである。数直派は自重せざるを得なかった。頼直が家督を嗣ぐと同時に月丘半左衛門は隠居、冷遇されたり頼直を見限ったりで退転する者は三十四名もあったという。その中には新井白石の父、正済も含まれていた。
こうして、煙たい家老や反対派を一掃した頼直は、持ち前の阿呆ぶりが開花しはじめた。豆腐屋十右衛門の下女、お都留にのぼせ上がり、果てはこの女を城内の屋敷に入れる、というのである。家老の青木安太夫は仰天した。女好きや酒好きは目をつぶるとしても、豆腐屋の下女を城内に入れるとは前代未聞である。安太夫が頼直に諫言すると、さすがに頼直もやりにくかったのだろう、城内にお都留を呼ぶかわりに、城下の侍屋敷に住まわせて、頼直がそこに通うようになった。やがてお都留も次第に贅沢に我侭になり、ときには賄賂さえも受け取るようになった。しかし、都留の主人であった豆腐屋十右衛門はへつらう気もなく、一向に都留の機嫌を取ろうとしない。都留は怒って、頼直に讒言した「十右衛門は人づかいが荒く、一日五箱の豆腐を占いと飯も食わせてもらえなかった」と。怒った頼直は早速十右衛門を召し取り、その首を刎ねてしまった。青木安太夫は心を痛め、ふたたび頼直に諫言するが、いらぬお節介とばかり、安太夫に切腹を命じてしまった。安太夫は忠心からか、暗愚な頼直に絶望してか、あるいは阿呆な主君へのあてつけか、とにかく切腹して果てた。その後、頼直の枕頭に安太夫の亡霊がたびたび顕れたという。頼直は枕刀で安太夫の幻に斬り付ける毎夜を過ごす内、とうとう発狂してしまった。延宝七(1679)年八月、頼忠は老中・大久保加賀守忠朝の屋敷において、「乱行の振る舞い、不届きにつき」家禄没収、謹慎の身となった。武田家臣以来の勇武と善政を誇った土屋氏も、一代の「馬鹿との」のために改易となってしまった。ちなみに頼直の弟、数直は常陸土浦領を分知され、十代九万五千石の大名として幕末まで栄えている。久留里藩士にとってはハズレ籤を引いてしまったようなものだ。ただ、個人的には「名将」「名君」も嫌いではないが、「馬鹿との様」も嫌いではない。
改易によって宿下がりとなった都留であるが、豆腐屋十右衛門の子、十兵衛に椎木坂というところで斬られたという。都留は久留里城下の正源寺に葬られたが、生前の怨恨がすさまじく、都留の墓は人々が寄ってたかって打ち付けたためやがて粉々となり、跡形もなくなってしまったという。
土屋氏改易後、久留里領は老中酒井雅楽頭忠清の加増地となり、代官所が置かれたため、長年の栄華を誇った久留里城も廃城となってしまった。おそらく、破城処置がとられたものであろう。名城・久留里城は永遠に姿を消した。筈であったが、なんと六十年後に復活するのである。
【近世久留里城の再建】
寛保二(1742)年七月、上野沼田城主であった黒田直純は、老中・松平左近将監らの肝煎りで、八大将軍吉宗より久留里領三万石を拝領した。黒田氏は武蔵丹党の系統の武士で、本姓は中山である。北条氏照の重臣で八王子城の攻防で討ち死にした中山勘解由家範などが有名である。黒田直純は幕府から五千両の工事費を拝領、久留里城を再建した。とはいっても、酒井代官領時代に久留里城は廃城となっており、勿論前述のように破城処置も取られていたであろうから、城としての体裁を整えぬほどに荒れ果てていた。したがって、「再建」とはいうものの、ほぼ新規築城といっても過言ではない。
平和なこの時期、久留里城が新たに再建された背景はよくわからないが、米将軍・吉宗の治世であることを考えると、江戸に近い上総国の食糧増産が狙いであったのだろう。もうひとつの理由としては、外国船の脅威が増してくるにつけ、江戸の防波堤としての房総の地の軍事的価値が上昇したのである。房総諸藩は、異国船打ち払いの任を持っていた。内陸の久留里藩も決して例外ではなかった。
|
近世久留里城は字名「御屋敷」の段丘上に築かれた平城だった。小櫃川を天然の外堀に、「三ノ丸」には二重の水堀を備えてはいたが、実戦的な要素は殆どない。旧本丸に建てた天守もシンボルとしての機能しかなかっただろう。(クリックすると拡大します) |
直純は再建にあたり、計画絵図を幕府に提出している。普請奉行は山本丈太夫義茂であった。この時期、各地方には飢饉が続き、莫大な費用と労役を必要とする築城には住民の反対感情も強かったが、山本義茂は市原・望陀・夷隅三郡百十二ヶ村の名主を呼んで説得、工事への協力を求めた。これによって領内の農民、商人らの協力が得られ、数百人の人足も毎日築城に携わることとなった。普請は寛保三(1743)年八月二十二日に始まり、二年後の延享二(1745)年八月に完成した。築城普請に際しての鍬入式に、細田妙見(久留里神社)に捧げられた山本義茂の願文が残る。
この、黒田氏の新・久留里城はこれまでの久留里城とは全く異なる。城山の麓に内堀と外堀を設け、通称三ノ丸と称した。しかし、この三ノ丸こそが近世久留里城そのものなのである。一応、体裁としては城山山頂の本丸に二重櫓を設け、二ノ丸には長屋塀(実際は多聞櫓)、その下には煙硝蔵などを設けたものの、山の上の構造物はシンボルとしての機能と、物置小屋くらいの役割しか持っていない。主要な政庁機能はすべて三ノ丸平城に移された。その三ノ丸と外曲輪には二重櫓を各二箇所、そのほか追手門、搦手門、三之丸門、戸張門、不浄門などが置かれた。三ノ丸には御殿が建てられた。
この近世平城部はもともとは段丘上の田畑だっただろう。里見氏時代にここに城主の館があったように考える向きもあるが、里見氏時代の館はおそらく現在駐車場になっている谷戸の奥にあったと考えている。従って、この黒田氏の普請は全くの新規普請であっただろう。周囲には深田が並ぶ、微高地に盛り土をして築いたもだろう。周囲の堀は、かつて北条をさんざん悩ませた深田を利用したものであったに違いない。一方で、里見氏時代の山上の遺構にはほとんど手を付けなかった筈である。せいぜい、山上本丸にシンボリックな天守に相当する櫓を上げたこと、二ノ丸に多聞櫓を上げたこと、その下に焔硝蔵を置いたことくらいで、堀や土塁、切岸などはそのままだったに違いない。もちろん、この時代にそうした山城が不要となって久しいということもあるが、ここで要害を厳しくすれば、当然幕府からの嫌疑の恐れもあろう。逆に言えば山上の遺構群はほぼ里見氏時代の最終形を留めていると考えられるのである。
テキストラベル付
|
近世久留里城の想像図。堀は内堀、外堀があるが、実質的な本丸である三ノ丸を完全に二重で囲っているわけではない。平城部に建てられた三箇所の二重櫓は基本的に天守と規模・構造ともに同じものであろう。門の前は土橋にしてみた。そうでないと、傾斜地であるこの場所で水堀をつくるのは難しいと考えた。山上には所々、里見氏時代の荒々しい遺構が覗いている。(クリックすると拡大します)
|
この山麓の近世久留里城の誕生とともに、もうひとつ注目されるのは久留里城に前述の天守が造営されたことである。天守、といっても、今山頂に立つ、下見板張り風の二層三階のものではない。これは昭和五十三年に観光用に建てられたものである。実際には、二層二階の、破風飾りなどのないごく簡素なものであったらしい。おそらく、幕府に遠慮して「天守」とは呼ばず、「御二階櫓」などと呼んでいたものであろう。ただ、江戸時代のこの時期に新たに天守に相当する建物が建てられたのは注目に値する。上総においては、天守に相当する櫓があったのは他に大多喜城があるのみである。幕府が五千両の金を用立ててくれたことや計画から着工までの期間の短さ、そして天守造営を許したことからも、幕府の久留里城に掛ける期待が大きかったことが伺えるのである。
実は、現在山頂に建つ天守は、私はてっきり復元天守だと思っていた。が、実際は浜松城の天守を参考に設計されたものだという。浜松城の天守も模擬天守だから、模擬天守を真似ることに何か意味があるのか、多少疑問に思わないでもないが、まあ景観にもマッチしているし、良しとしよう。ただし、前述のように当時の天守は二層二階、層塔型の地味なものであった。これは、明治四十四(1911)年に書かれた『剣之峰丹生神社沿革記』という史料に絵図がある。著作権の関係でここでその絵図を見せられないのが残念であるが、かわりに私の描いたイラストで我慢して欲しい。現在建つ天守と随分違うことがわかるだろう。基本的に天守と呼べるようなものではなく、二重の隅櫓程度のものである。しかもこの絵図では、山頂の本丸部分にこの天守と狭間の切られた土塀以外の構造物が一切描かれていないところが面白い(省略されているだけかもしれないが)。原図では、山頂の本丸空間で何人かの平服の武士が弓を持って歩いたり、弓を引いたりしている模様が描かれている。いわゆる詰めの空間としての御殿等があるわけでもなく、日ごろは藩士たちの武芸の稽古場としてでも用いられていたのであろうか。
天守の位置も実は今建つ模擬天守とは異なっている。久留里城の天守を訪れると、天守に向かって左手に、土俵のような土壇を見つけるであろう。これが天守台なのである。発掘の結果、ほぼ完全に礎石が出土した。模擬天守を建てるにあたっては、この貴重な遺構を壊さぬよう、わざと本来の天守台の脇に建てたというわけだ。遺構保護のための知恵でもあり、好ましい処置ともいえるが、この場所にも里見氏時代の遺構が検出されたとのことであるから、内心はちょっと複雑だ。
絵図では土壇の下部に腰巻状の石垣が描かれているが、いわゆる「石垣」は発掘調査でも検出していないという。しかし、この土壇に薄い石を張って石垣状の外観を模していたらしいことが「久留里城址発掘調査報告書」に記載されている。山の下からそれと思われる石片も見つかったそうである。よく観光地などで見かける模擬天守の安っぽい石垣まがい(今の久留里城模擬天守の石垣もその程度である)と同じ発想のものが実際に用いられていたとは驚きである。
この土壇には犬走りが設けられている。江戸初期に建てられた天守は基本的に天守台一杯の幅を使うか、やもすると天守台からせり出して、石落しや忍返しなどを設けるのが普通である。しかし久留里城の場合は天守台に相当する土壇の幅一杯を使っておらず、従って石落しなどは設けようもない。そもそも土壇の高さ自体が石落しなどを設けるようなものではない。これだけ見ても、いかに実戦機能を想定していないかがわかろうというものである。石段は二箇所描かれているが、東側のものは天守への扉があるわけでもなく、意味不明である。
個人的には折角再建するなら、絵図に忠実に復元する方法の方が良かったとも思うが、今建つ久留里城の模擬天守もなかなか美しくて、実は結構好きである。というより、この姿に慣れてしまっただけかもしれない。ただ、繰り返すが、景観に溶け込んでいるというのは大切なことである。それ故、模擬天守にありがちな不自然さを感じないのがいい。
ちなみに山麓の近世久留里城の遺構であるが、周辺は県道の整備や基盤整備が進み、よほど仔細に絵図と照らし合わせない限り、遺構らしいものはほとんど見られない。しかし、ゆっくり歩いてみれば、外堀痕に相当する田や不浄門近くの土塁、典医であった前田氏の屋敷跡(ここは今でも子孫の方が医者を営んでいる)、外曲輪南側の二重櫓の土壇などを発見できるだろう。
この近世久留里城は時代が時代であるから、実戦はもちろん経験していない。縄張りといい建物といい、実戦向きでないことも一目瞭然である。しかし、江戸中期以降たびたび重なった天変地異によって、かなりの損害を受けたこともあったようだ。寛政十二(1800)年九月(藩主は四代直温)には大暴風雨によって城郭ならびに近隣の民家が大破して被害甚大であったというし、享和元(1801)年四月には上総地方を襲った大地震により、城内の堀や櫓の破損が大きかったという。また、三代藩主直英は、天明五(1785)年、大阪城加番の任に就いていたところ、七月に大暴風雨が大阪を襲い、三昼夜不眠不休で暴風雨の中を巡回中に急性肺炎で斃れ、そのまま還らぬ人となった。天明の大飢饉の一年前のことである。天保の大飢饉に際しては財政も困窮を極め、その上十二代将軍家慶の将軍宣下などが重なり藩の借財は九万両に達したという。このころ、年貢を担保にあちこちから十両から百両の金子を借用していたらしい。今で言えば完全に財政再建団体である。そんな中でも房総半島の海防を担う要として「守成砲」などという大砲を鋳造させられたりもしているのである。江戸時代といえば「平和」のイメージが強いのだが、宮仕えにとっては苦難の時期だったかもしれない。
こうして黒田氏九代ののち、例によって明治維新を迎え、やがて久留里城も廃城となって跡形も無くこの世から姿を消すのであるが、幸いとも云うべきか、久留里城に関してはこの変革の時代にまつわる様々な記録が残っている。戊辰の時代に久留里城を襲った一触即発の危機の記録を、一部ではあるが紹介しよう。
【雨城の夢】
「雨城の夢」は、明治維新の動乱から廃城までの歴史を、城下の鶴皐堂主人・森櫃南が記したものである。この貴重な記録によって、久留里藩が徳川義軍と官軍の狭間で翻弄された様子や、取り壊しに至るまでの様子をしることができる。
慶応四(1868、明治元)年四月九日、江戸城の無血開城の二日前のことである。上野の東叡山寛永寺附近での戦闘に敗れ、四散した徳川の撒兵隊五大隊二千名が続々と木更津に上陸した。首領は福田八郎右衛門である。この「徳川義軍」は真里谷真如寺に駐屯し、松平大和守の富津陣屋を襲撃して砲台の鉄砲弾薬を略奪した。その上で久留里城に対し、「糧食殆ど尽きて頗る困難に陥る間、兵糧御無心致したし」との使者を遣わせた。兵糧の提供を以って、その向背を打診してきたのである。このとき久留里城中では評定の上「幕臣とあらば聞き捨てににも成り難し。然れども、小藩にして十分義務を尽くす能ず。因て、家中飯米の内を削りて米百五十俵貸与すべし」と応えて、とりあえず体面を繕った。
このとき久留里藩は実のところ、まだ向背を決めかねていた。徳川義軍といえば聞こえは良いが、要するに戦に敗れた落ち武者の大集団である。「真里谷駐屯の義軍がさらに軍用金を借りようとしている」などの風説があり、久留里藩としても内心迷惑に思っていたらしい。「使節ある毎に応じ難し、若し乱暴の挙動あるに於いては、譬へ同胞の徳川士と雖も、止むを得ず打ち払ふべし」と決心し、いざとなれば一戦交える覚悟で軍備を固めた。このころ、久留里の足軽、立原恒次郎なる者が願い出て町人に変装し、木更津まで偵察に出向いたところ、その体格のよさを怪しんだ徳川義軍に「久留里の密偵ならん」と捕らえられ、拷問にかけられたという。
真里谷の義軍からは、福田八郎右衛門の部下二、三人が「久留里妙見へ参詣」と称して城外をうろついた。久留里城を固める家老・森格左衛門らはその目的を知りつつも、敢えてそれを咎めることもせず、泰然自若と城を固めていたという。義軍対久留里藩の腹の探り合いといったところである。
この間にも義軍は久留里藩に圧力をかけつつあった。義軍の福田八右衛門「久留里は天嶮の要害なりと・・・・然れども、久留里は官軍か、乃至徳川方か。此点に至りては更に分らず、因て使節を久留里に遣し、其の決心を試みん」と、能弁の者を以って久留里に遣わすことにした。久留里藩は郡奉行の寺田・堀内両名がこれを迎えた。使節曰く「御城主黒田(直養)公は徳川譜代の大名と承る。就ては、徳川方に御味方なさる思召しか、或は官軍の為に御尽力なさるか。若し官軍なれば一戦に及ぶべし。又、徳川方ならば我が兵を御城中に入れ、御領分の水帳を悉皆渡されるべし。右、御決心の御返答承りたし」。
寺田・堀内両名は家老の森格左衛門にこの旨を申し送り、森は城代の山本丈太夫はじめ重役一同を自宅に集め評議の結果、「主人ともよくよく相談したい、二週間の猶予が欲しい」と返答した。二週間の猶予、とはいくらなんでも人を馬鹿にした返答であろう。いきり立つ使者に「では十日」と言葉巧みに言い包めてしまった。なんとなくモヤモヤした気持ちを拭えぬ使者は帰りがけにこんな捨て台詞を残している「この御城は稀に見る要害なれば、貴殿方一人死すれば我が方は十人も斃れるであろう。しかし我が兵は真如寺に三千、なお軍勢は増える見込みだ。不日に大軍になるであろう。いかに無双の要害といっても、所詮は小藩のこと、防戦成り難いであろう。さすれば老幼婦女子の困難は如何ばかりであろう、そこをよくよく考えられよ」と。どうも徳川義軍は里見氏時代の久留里城を過信している節が見られて面白い。それ以前に、この戊辰の時代に山城での攻防戦を覚悟せよ、というのも、いささか時代錯誤な威し文句ではある。
さて、久留里藩ではいよいよ軍議も大詰めである。官軍に味方して福田らと勝敗を決するか、義軍に与して日本を相手に闘うか、いよいよ態度を鮮明にしなければならない。「雨城の夢」著者はこれを「所謂る前門に虎を防げば後門に狼迫るの如し、何れにしても戦争は遁るべからず、嗚呼悲しき哉、御小藩なれば、大軍引受け永く籠城は覚束なし」と嘆く。戦国時代の境目の小領主にも似た心境であったろう。結局喧々諤々の論争の末、久留里藩は義軍に応ずることに決し、ある者は兵糧を城中に運びいれ、ある者は鎧櫃から飾り物同然の鎧を身に付け、またある者は「いざ御馬前にて於いて討死」と決心して鎧兜に香を焚き染める者ありで、開戦前の士気と緊張と悲壮な決意が漲った。そうして四月九日に至り、「最早徳川方に御味方と御決定の上は何ぞ御返答の日限を待たん、明日にも御遣を真里谷に遣さるべし」と意気込んだその矢先である、官軍の先鋒八百ばかりが久留里藩の目と鼻の先の小櫃山本村に現れれたのは!久留里城中ではこれに驚き、まず四方に密偵をばら撒いた。「これは真里谷の義軍が官軍を装って我らの向背を計ろうとしているのではないか」そう思ったからである。しかし、密偵が戻るにつれ、驚くべき事態が明らかとなった。
徳川軍は市川・八幡・船橋で官軍に大敗、しかも、「久留里より六百人が間道を押し寄せ真里谷の陣を襲撃する」との風説が広まり、あれほど強気であった福田ら徳川義軍は「前後に敵を受けては到底叶ひ難し、一刻も早く此地を引き払ふに如かず、久留里領を踏まず立退くべし」とて、大砲弾薬を真如寺の池に沈めて四散してしまったという。
久留里藩の面々も唖然としたことであろう。結果的に見ればこのときに義軍に合流できなかったことが久留里藩を戦火から救うことになるのではあるが。しかし、とりあえず危急を脱したと安堵する暇も無く、今度は官軍に対する対応を決めなければならない。先ほどまでの悲壮な決意とは裏腹に、久留里藩はまたしてもあたふたと対応を議せねばならなかった。とりあえず錦の御旗を掲げて官軍に恭順を顕わし、もし義軍が再び起つことがあればこれに応じよう、という、なんとも曖昧な結論に至った。
官軍からも「即刻罷り出でよ」との使者があり、山本丈太夫、小林吉郎左衛門らが官軍の陣に赴くと、官軍は銃隊方陣をつくり、中央には翩翻と錦の御旗が翻り、そのあまりの威風堂々ぶりにこの二人はすっかり縮み上がってしまったらしい。官軍隊長の永嶋金次郎、町田房之助らは軍装にて両人に銃を突きつけ、「其の藩黒田筑後守、御不審の筋これあるにつき一戦に及ぶ間、立帰りて籠城致すべし」と恫喝した。久留里藩の使者は慌ててこれを否定、「我が主不肖と雖も、官軍に対し抗敵する等の儀、毛頭これなく」と先ほどまでの悲壮な覚悟はどこへやら、必死で抗弁を繰り返すしかなかった。とりあえず一旦は城に帰され、ふたたび評定を開けば、あっという間に官軍恭順が決定してしまった。まさに小藩の悲哀を感じさせるではないか。
しかし官軍の隊長は久留里藩の動向を疑ってかかっている。恭順の意を示す使者にふたたび恫喝にも似た詰問を繰り返す。使者両人は汗だくになって抗弁したに違いない。曰く、
隊長:「久留里城附近に徳川の脱走兵追々馳せ集るも、之を攻撃せず。且、官軍に報道せざるは何ぞ」
使者:「小藩にして此を討つの力なく、因て、官軍へ報告せんと度々使差し出し候も、一人も帰り来らず、定めて脱走の為に囚虜となりし者なるべし。依て、籠城専一に致し居り候」
かなり苦しい。
隊長:「籠城致し居るも、家臣脱走せしは如何」
使者:「藩中脱走者一人も之無く候」
隊長:「脱走せし者無しとは詐りなり、爰元に証拠あり」
と、黒田氏の紋の付いた胴乱を取り出す。
隊長:「これ途中にて拾いし物なり、脱走なくしてこの如く胴乱ある謂れなし」
使者:「此の胴乱の紋は当家に限らず、宣化の苗裔、中山家の一族、皆此の紋を用ふ。思ふに、脱走兵の中に此の一族ありしならん。殊に当藩も同じ紋なれども、角やや太し」
もはや屁理屈に近い。さすがの官軍隊長もこれ以上問い詰めてもしょうがないと思ったか、その疑念を抑えてとりあえず久留里城下に軍を進めることとした。
閏四月十日、官軍は山本村を発ち、久留里に軍を進めた。しかし、疑念はなお氷解せず、俵田村では伏兵を警戒してなんの変哲もない山林に向けて無差別発砲、森の中にいたキコリは突如の弾丸の雨あられに驚いて逃げ去ったという。官軍も実はビクビクだったのである。
|
戊辰の動乱に翻弄される久留里城。真里谷真如寺に駐屯した徳川義軍と久留里城の間を分断するかの如く、官軍800が山本村に出現、徳川義軍はあっという間に四散してしまった。しかし、久留里城の苦難は終わらない。今度は官軍の疑念を晴らすのに四苦八苦する羽目になる。その官軍も俵田で、タダの山に向かって一斉射撃などをしているところを見ると、内心はかなり「おっかなびっくり」だったようだ。(クリックすると拡大します) |
それでもなんとか久留里城下に到着した官軍は久留里城の受取りと検分に及んだ。三ノ丸の門を入り、「後曲輪」に至る「御太鼓下の橋」を渡ったとき、ドンドンと太鼓の音が響き渡った。官軍は「すわ謀られたり」と色めき立ったが、実はこれは八ツ半の時を知らせる太鼓だった。案内役の小林吉郎右衛門がこれを告げると、さすがの官軍司令官も赤面したといい、その様子を「赤面の体に見えしこそ、気の毒にも亦をかしけれ」と記されている。結構この著者も意地が悪い。
さらに官軍は山城を攀じ登り始め、獅子曲輪を経て二ノ丸に至り、そこで暫時休憩した。隊長はようやく疑念も解け、一息入れながら案内人の小林に「東海道を下り来るに、かくの如き天嶮の要害あらず」と賞賛したという。ちょっと大げさな気がしないでもない。山登りなど普段慣れていないものだから、獅子曲輪口から二ノ丸に至るだけで息が切れてしまったのだろう。
ここで小林は隊長を本丸へ案内しようとしたが、隊長は「本丸を検すれば開城となる、故に見ず」と引き返したという。一応、久留里藩の顔を立てようとしたのだろう。疑心が解けて、少し武士の情を見せたものであろうか。ここより隊長ら一行は久留里曲輪を右に見て、北方一二の堀切を越え、焔硝庫下に出て腰曲輪に下り、戸張小路より曲尺手門を経て元の広小路に戻った、というから、二ノ丸から尾根伝いに今のトンネルあたりに下りて、今の久留里街道あたりを通って三ノ丸の広小路に戻ったのだろう。慣れない山登り、ご苦労様、といったところである。
さて、こうして事実上無血開城した久留里城であるが、どこの世界にもよく言えば真面目一辺倒、悪く言えば融通の利かない刎ねッ返りがいるものである。藩士の子、杉木良太郎なる若者、「一矢も放たず降伏すとは云ひ甲斐もなし」と憤怒の表情を浮かべ、それだけならともかく、官軍の本営に乗り込んで佐幕論を主張し、言い合いの挙句「勝負を決せん」と決闘を申し込んだ。そうしてひとまず家に帰り、軍刀を引っ提げていざ決闘に出んとするところに良太郎の父、良蔵がこれを知り、突如我が子に斬り掛かった。刀は良太郎の刀の鍔にあたってわずかに三寸ばかりを切り下げただけであった。良太郎は父の足に縋り付き、「待ち給へ、切腹仕らん」と声をあげたが、良蔵は縋り付く良太郎を蹴り倒し、情け容赦なく我が子を真っ二つに斬り棄てた。良蔵は血まみれの姿で官軍本営に姿を現し、「過刻、倅良太郎御本営に於て無礼をなしたり。因て討果たしたり。直に御検視を乞ふ。若し猶予あらば、此の良蔵倅に代りて御相手仕らん」と鬼気迫る表情で詰め寄った。兎にも角にも、我が子を斬ってまで藩の体面を繕った良蔵の壮絶な義心によって、久留里藩はお咎めなしとなったのである。のちに黒田直養は良蔵の義心を賞して物を賜り、また斬られた倅の良太郎の心も憐れんで真勝寺に葬らせた、という。
|
|
里見氏とも関係が深かった真里谷氏の菩提寺、真如寺。ここに徳川の敗残兵が駐屯、久留里藩に圧力を掛けてきた。久留里藩は徳川義軍への恭順を示しながらも、和戦両様の構え、城内には緊迫した空気が漲った。しかし、官軍の出現と「久留里勢来襲」の風説によって四散した。このときの兵火で、名刹・真如寺の堂塔伽藍はほとんどが焼失してしまった。 |
真勝寺に建立されている、最後の久留里城主・黒田直養公の墓。杉木良蔵・良太郎父子は不幸にして「忠義」の捉え方が正反対になってしまった。泣く泣く息子を斬った良蔵と、斬られた良太郎、どちらの忠義にも直養は感じ入ったという。真勝寺には、この杉木良太郎の墓所もあるという。 |
【廃城寂寥】
幾多の戦乱を乗り越えてきた久留里城にも、いよいよ終焉のときが迫った。明治二(1869)年版籍奉還、明治四(1871)年に廃藩置県に伴い久留里県が設置され、その時に修補不行届の理由を以って、八月十六日廃城の伺いが提出された。
当県城郭門塀陣塁大破ノ場所、修補不行届候間、破損之儘繕不差加、楼櫓等ハ破損二従而、追々取毀候テモ不苦候ヤ。此段奉伺候。以上、
辛末八月 久留里県
この頃、一般に藩(県)の財政は窮乏し、修復・維持に莫大な費用が掛かる城郭は次々と無用の長物として破却され、その木材は風呂屋の薪などとして売られていった次代である。そして翌明治五(1872)年二月、久留里城は永遠にその歴史に幕を閉じようとしていた。兵部省の木村信、陸軍大尉の徳久ら三名が旧城を点検、その結果、入札を以って払い下げられることに決定した。「雨城の夢」は語る「是に於て城郭毀ちて桑畑となる」。
久留里城の発掘調査では楕円形の穴状の遺構が28箇所出土したという。穴の中からは瓦や白漆喰の破片などが大量に出土した。これらは調査の結果、破城された久留里城の残骸を埋めるために掘られたものであることが判明したという。久留里城はそれらの穴ボコの中に、その姿を没していったのであった。
現在、久留里城一帯は自然公園化され、二ノ丸には君津市立久留里城址資料館が、本丸には模擬天守が建っている。駐車場から二ノ丸までは車道(一般車両は進入禁止)が伸びていて、比較的楽に登れるが、戦国城郭・久留里城の本当の姿を知りたいなら、駐車場に至る手前のトンネルの左手、近世の登城路であった小径から歩いてみるとよい。あるいは、二ノ丸への坂の途中に、野鳥探索路があるのでそこから登るのもよい。二ノ丸へ至る間には堀切や削崖などが目に入るだろう。二ノ丸まで行ったら、まず薬師曲輪からの景色をよく見て欲しい。北条と里見が激戦を繰り広げた風景が、そこに広がっている。あるいは、近世の平城が眼下にあった姿を思い浮かべるのもいいだろう。二ノ丸周辺では、鶴の曲輪や久留里曲輪周辺の懸崖も見てほしい。久留里城の荒々しさがわかるだろう。そして、本丸を見たら、南の怒田方面の尾根や弥陀曲輪を軽く見て、帰り道はぜひ林間の東尾根コースを歩いて欲しい。ここには荒々しい、戦国期の久留里城の姿がそのまま残されている。もちろん遊歩道が整備されているから、普通に歩く分にはまず安全である。本当に興味がある方は、トンネル上の尾根にある神社を経由して、「上の城」まで行ってみるのも一興である。ただしこちらは山歩きの初心者には少々辛いかもしれない。山を降りたら、国道沿いの集落周辺を歩いてみよう。土地基盤整備でほとんどの遺構が失われたものの、注意深く観察すれば内堀や外堀の痕跡、二重櫓痕、大手門痕などを見出せる筈である。「上の城」の北麓には勝真勝ゆかりの真勝寺がある。この山門は寺伝によれば「上の城」の城門だった、というがこれは如何なものであろうか。境内には最後の城主となった黒田直養公の墓所、父に斬られた杉木良太郎の墓などもある。
帰り道には、久留里市場の街にちょっと寄ってみるのもいいだろう。「久留里の名水」を味わってみるのも一興である。ただし、味はなんとも形容しがたい。街の裏手の正源寺も立ち寄りたい。里見義堯の夢の中に現れた「加勢観音」を拝観しよう。その他、新井白石の居宅跡、土屋氏三代の墓所など、歴史散策スポットは多い。ここまででもう、朝から晩まで久留里城を堪能できる筈である。 |