戦火の中、英雄降誕

要害山城

ようがいさんじょう Yougaisan-Jo

別名:要害城、積翠寺要害城

山梨県甲府市上積翠寺町

 

城の種別

山城

築城時期

永正十七(1520)年  

築城者

武田信虎

主要城主

武田氏城番

遺構

曲輪、土塁、虎口、石積み、堀切、竪堀、井戸等

二の門の石組み虎口<<2002年11月03日>>

歴史

甲斐守護職の武田信虎が永正十六(1519)年、躑躅ヶ崎館を造営して居館を石和から移し、その翌年の永正十七(1520)年に躑躅ヶ崎館の詰の要害として築城された。武田氏の重臣、駒井高白斎政武の「高白斎記」の永正十七(1520)年六月の条に「積翠寺丸山を御城に取り立てられ普請初る」と記されている。大永元(1521)年二月二十七日、今川氏親の属将で遠江土方城主(高天神城主が正しい)の福島正成が甲斐に侵攻、河内を占拠、九月六日に大島で合戦するが信虎は破れ、福島軍は富田城を陥として国中地方に侵攻した。この危機に信虎は正室の大井夫人を要害山城に避難させ、十月十六日に飯田河原で福島軍を迎え撃ち敗走させた。この戦乱の直後十一月三日にこの要害山城で大井夫人は嫡男の太郎(のちの武田晴信、信玄)を出産した。福島軍はこの後十一月二十三日の上条河原の合戦で大将の福島正成が戦死する大敗北で撤退した。

天文十(1541)年六月十四日、武田信虎の嫡男・晴信(のちの信玄)は重臣の板垣信方や甘利虎泰らに擁立されて父・信虎を駿河に追い、家督を相続した。晴信の時代にも躑躅ヶ崎館の詰の要害として存続したが実戦では使われていない。信玄死後、天正三(1575)年の長篠・設楽ヶ原合戦の敗北を受けて、武田勝頼は天正四(1576)年六月一日に要害山城の修築を命じている。

勝頼は天正九(1581)年、韮崎に新府城を築いて十二月に居を移した。古府中の躑躅ヶ崎館は破却された。天正十(1582)年に織田信長・徳川家康の連合軍の侵攻によって武田氏が滅亡し、織田信長配下の河尻秀隆が甲府に入ったが、六月二日の本能寺の変で織田信長が死去すると甲斐国内に一揆が起こり、六月十五日、河尻秀隆は殺害された。その後の武田氏遺領を廻り、徳川家康と北条氏直が戦うが(天正壬午の乱)、和睦により甲斐は徳川領とされ、躑躅ヶ崎館には仮御殿が造営され、平岩親吉が城将に任じられた。この頃には要害山城には駒井右京、日向玄東斎、日向半兵衛などが城番に任ぜられ、一時期加藤遠江守光泰が修復して在城した。

天正十八(1590)年の小田原の役後、家康が関東に移封されると甲府には羽柴秀勝が任じられ、甲府城を完成させて移ったため躑躅ヶ崎館は廃城となり、要害山城は慶長五(1600)年終わりに破却された。

これまた見事な山城です。ここは良く知られるように、武田信虎が躑躅ヶ崎館の詰の要害として築いた山城で、学者肌の駒井高白斎政武が残した記録「高白斎記」によって築城年代も特定されています。

大永元(1521)年、駿河今川氏の被官であった高天神城主、福島正成が甲斐に乱入、身重であった信虎室の大井夫人はこの要害山城に難を逃れ、そしてここで男児を出産します。これが誰あろう、戦国最強と呼ばれた男、武田太郎晴信、のちの信玄です。信玄という人物は、戦乱の中に生まれ、戦乱の中で生涯を終えていったのですね。
この晴信、天文十(1541)年に父・信虎を駿河に追放し家督を相続します。下剋上、というよりも一種のクーデターです。信虎は家臣を手討ちにし、妊婦の腹を割くなど酷薄な武将だったと言われますが、これらは言わば暴君に必ず付いて廻る文言なので鵜呑みにはできません。が、甲斐統一のための戦乱、諏訪氏や国人領主たちの叛乱、今川氏との長年の戦火などで国土が荒廃し民も疲弊していたこと、信虎とその奉行衆の折り合いが悪かったことなどは事実でしょう。また信虎は嫡男の晴信よりも次男の信繁(典厩)を愛し晴信を廃嫡にしようと企てていたとも言われます。とにもかくにも、晴信は駿河に向った父を生涯甲斐の国に帰すことはありませんでした。この時に晴信を支持した板垣信方、甘利虎泰らはこの後、晴信の右腕となって各地を転戦し、文字通り晴信の馬前に死すのです。

要害山城は麓から見るとお椀を伏せたような、典型的な中世山城の格好をしています。山麓には「信玄産湯の井戸」がある積翠寺があり、登山口付近には「ホテル要害」があります。この付近から登ると、まず数段の腰曲輪群が現れます。このあたりが山麓の大手口だったのでしょう。10分ほど登ると、竪堀、土塁などとともに、多くの門跡(虎口)、曲輪が現れます。この門跡には石積みと枡形を伴うものが多く、とくに二の門の巨石を用いた石組みは見事です。主郭は長方形の広い曲輪で、周囲を土塁がほぼ全周しています。とくに搦手に向う枡形の土塁は重厚で見事です。主郭には「武田信玄公誕生の地」の碑も建っています。ここまででもかなり充実していますが、搦手からの尾根続きを進むとやはり門跡、石組みなどとともに、今度は多くの堀切、竪堀、土橋などが連続します。特に主郭搦手虎口背後の堀切などは堀切の断面にも石組みが見られる、珍しいものです。

よく信玄は「人は城、人は石垣、人は堀」の信条のもと、領国内に城を構えなかったように言われますが、さすがに本拠の詰の城は見事の一語に尽きます。信虎の代から、信玄、勝頼の代まで修復が重ねられていたでしょうから、最終的に今見る遺構群は勝頼の代あたりに大幅に改修されたものであるとは思いますが、甲斐武田氏本拠の名に恥じぬ巣晴らしい城郭でした。

この日は休暇を利用しての信濃攻めの初日でしたがいきなり甲府に寄り道、「まず甲斐より始めよ」というところですか(笑)。躑躅ヶ崎館も再見学するつもりでしたが、三連休中日とあって武田神社周辺は人並みでごった返し、見学は諦めました。、躑躅ヶ崎館を素通りするなんて、なんか勿体無いというか、バチがあたりそうな気がします。とにかく、寄り道の一発目から大当たり、幸先の良いスタートとなりました。快く駐車スペースとトイレを貸してくださった「ホテル要害」さんにも、この場を借りて改めて御礼申し上げます。

躑躅ヶ崎館から約2.5km後方、積翠寺背後に聳える標高760mの丸山が要害山城。どこから見ても中世山城の格好をしてますねえ。 武田菱が輝く積翠寺から見上げる。これと同じ構図、躑躅ヶ崎館の頁でも使ったなあ(笑)。「信玄公産湯の井」もあります。そちらは躑躅ヶ崎館の頁でご紹介。
積翠寺の道路の向かい側にある、信玄公産湯天神。さすが信玄ともなると、「産湯」自体が神様になってしまうんですねえ。 登山口を入るといきなり石積みと複数の腰曲輪が。多分要害の大手口にあたるところでしょうが、この石積みや削平地が遺構であるのかどうかはイマイチわかりませんでした。
竪堀と、それに平行して伸びる「竪土塁」。こういうのがあるとは聞いたことがありますが、実は初めて見ました。このあたりから城郭らしい遺構がチラホラ見えてきます。 若干の石積みを伴う一の門跡。石積み土塁で囲われた土塁の枡形です。ここから暫く、小規模な削平地がたくさん続きます。
不動曲輪、と銘してあった曲輪。不動明王が祀られています。実質的には腰曲輪群のひとつでしょう。 不動曲輪からは、朝もやに覆われた甲府の街が一望できます。躑躅ヶ崎館は手前の枝に隠れてしまっています。
たくさんある門の中でも、この「二の門」の巨石を用いた石積み、大きな枡形空間は出色。素っ晴らしいのだ! その二の門を裏側から。裏側にも石積みがあります。かつては全体に石積みがもっと多用されていたでしょう。
この門の跡と削平地は次々と現れるのですが全く飽きません。これは「四の門」、若干の石積みとともに、石敷きの通路がとても良く残っています。 大きな枡形を控えた「六の門」。枡形、と捉えるか、「三郭」と捉えるかは人それぞれだとは思いますが、僕は枡形と解釈しました。

いよいよ主郭の虎口。「八の門」に相当します。高い土塁と石組みに囲まれた虎口です。

長方形の主郭は見事な土塁がほぼ全周しています。遠景から想像するよりもはるかに広い曲輪でした。山頂の曲輪でこれほど土塁が見事なのはそうそう無いと思います。

武田信玄公誕生之地、の石碑。まさに英雄降誕ですね。戦乱のさなか、避難先の要害で生まれてしまうあたりにタダモノではないモノを感じてしまいます。

主郭の土塁の中でも、搦手方向の土塁は枡形状になっていて、とくに規模も大きく見事です。一部で石組みも見られます。このあたりは勝頼時代の修築によるものかもしれない。

搦手虎口も小規模ながらしっかりと石組みで固められておりました。ここから東の尾根を暫く歩きます。

搦手虎口を出るといきなり土橋と堀切、しかもこの堀切は断面を石垣で覆っているという、かなりレアなもの。苔むした石垣がなんとも言えない味があります。

その堀切は竪堀となってかなり急な斜面を降りてゆきます。急な斜面、というより、ほとんど崖です。

搦手の尾根筋は大手方面に比べ、堀切、竪堀、土橋の組み合わせによる防御が多く見られます。やっぱり山城は尾根を歩かないとね!

その尾根筋にも、たくさんの門跡や石組みが見られます。全くもって飽きることがありません。

主郭付近から見える富士山の姿。まるで噴煙を上げているようですね。

北側の腰曲輪にある水の手、「諏訪水」と呼ばれる井戸。しっかり水もあります。そばには小さな諏訪社が祀られています。 麓の「ホテル要害」、その通気口は武田菱がかたどられていました。
素晴らしいですねぇ。これは躑躅ヶ崎館とぜひセットで見てもらいたい城ですね。支城の「熊城」もすごいらしいのですがあいにく場所が分かりませんでした。これは、また行かないと・・・。

 

 

交通アクセス

中央自動車道「甲府南」ICまたは「甲府昭和」ICより車20分

JR中央本線・身延線「甲府」駅よりバス  

周辺地情報

躑躅ヶ崎館とセットで見学でしょう。要害山城の南側の尾根にあるという熊城も行きたいな。

関連サイト

攻城日記の頁、「信濃城攻め紀行」もぜひご覧下さい。

 
参考文献 「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)、「風林火山・信玄の戦いと武田二十四将」(学研「戦国群像シリーズ」)、「歴史読本 1987年5月号」(新人物往来社)、別冊歴史読本「武田信玄の生涯」(新人物往来社)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「図説中世の越後」(大家健/野島出版)、「日本の城ポケット図鑑」(西ヶ谷恭弘/主婦の友社)ほか

参考サイト

 

 

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