宇都宮城の歴史

築城に関しては諸説あり、天慶三(940)年に平将門の乱を鎮圧した俵藤太藤原秀郷の築城とも言われるが推測の域を出ない。一般には前九年の役で源頼義に従った藤原北家流の宗円が康平六(1062)年、下野守としてこの地に築城したといわれている。宇都宮氏は鎌倉時代を通じて鎌倉御家人と宇都宮二荒山惣検校を兼ね、下野守の他奥州探題、常陸、越後、上野、上総、美濃、伊予、豊前、筑後等の各地の守護職を歴任、六代修理亮泰綱、七代尾張守景綱は鎌倉幕府評定衆にも列せられ、八代三河守貞綱は弘安四(1281)年の蒙古再襲来に際し鎌倉御家人の総大将として九州御家人を救援している。九代兵部少輔公綱は足利尊氏に従い室町幕府創設に貢献、正慶二(1333)には楠正成軍と対峙、その後年雑訴決断所奉行に任ぜられるなど隆盛を極めた。公綱・氏綱のころ、宇都宮城は合戦に備えて改修され、館から城郭へと進化を遂げた。

南北朝期には宇都宮氏綱は一時、鎌倉公方足利基氏と対立し、貞治二(1363)年には武蔵で上杉憲顕に破れ、越後・上野守護職を没収され、また応安元(1368)年には河越氏ら平一揆と同盟して蜂起、二代鎌倉公方足利氏満に宇都宮城を攻められ降伏し、所領多くと下野守を剥奪された。下野守は祇園城(または鷲城)主・小山義政に与えられ、この頃から宇都宮氏の威勢が衰え始める。

康暦二(1380)年、宇都宮基綱は小山鷲城(または祇園城)主・小山義政と領土争いから合戦に及び、敗れて討ち死にした(裳原合戦)。この事件を契機に鎌倉公方・足利氏満が小山義政を攻め、三次に及ぶ小山義政の乱が勃発した。

享徳の大乱の後、宇都宮正綱は古河公方・足利成氏に従い転戦するが文明十四(1482)年に陣没し、幼少の成綱が跡を継いだ。しかし、成綱を補佐する武茂氏の専横が激しく、成綱は父・正綱の弟で芳賀氏を嗣いでいた芳賀高益と語らい、武茂氏らを一掃、高益の献策で古河公方勢力から上杉氏方に寝返った。永正三(1506)年、古河公方足利政氏とその子高基が対立すると、成綱は妹婿の高基を支持し、一時高基は宇都宮城に入城している。

武茂氏討伐で戦功のあった芳賀高益の子景高、その子高勝の時代になると芳賀氏の勢力が増し、これを憂いた成綱は高勝の弟、建高(高孝)を寝返らせ、宇都宮城内で側近の者たちとともに高勝を襲撃し自殺させた(宇都宮錯乱)。足利政氏はこの内紛につけ込んで永正十一(1514)年、白河結城氏や岩城由隆、佐竹義舜に命じて宇都宮城を攻めさせたが、成綱は竹林でこれを破った(竹林合戦)。この後、成綱は反成綱派を一掃し、芳賀家は実弟の興綱に嗣がせ、体制を固めた。永正十三(1516)年にも佐竹・岩城軍の侵攻を受けたが小川縄釣でこれを破った。成綱の時代には、衰えかけた宇都宮氏を再興させ、成綱は中興の祖となった。

成綱の死後、その子忠綱が跡を継いだが、成綱の強引なやり方に不満を抱く芳賀氏の一族らは、成綱の弟で芳賀氏を嗣いでいた興綱と内通、結城城主・結城政朝とも語らい、忠綱追い落としを画策した。大永七(1527)年、結城政朝は猿山ヶ原で忠綱と戦い、その隙に芳賀一族と興綱が宇都宮城を占拠、忠綱は壬生氏を頼って鹿沼城に落ち延びたが、宇都宮城を奪回することなく四年後に死去した。宇都宮氏を嗣いだ忠綱はその後、天文五(1536)年に芳賀高経に暗殺されたという。興綱の跡は子の尚綱が嗣いだが、芳賀氏の横暴を見かねた壬生綱房は尚綱と謀って高経を児山城に攻め滅ぼした。尚綱は芳賀家の名跡を益子勝宗の三男に嗣がせ、芳賀高定と名乗らせた。殺された高経の子、高照・高継は奥州に逃れていたが、那須氏とその配下の大田原資清が高照を匿い、宇都宮氏の当主の座を狙わせた。尚綱は天文十八(1549)年、弥五郎坂で那須高資、大田原資清らと合戦に及び、芳賀高定は宇都宮城を守備していたが、那須方に内通していた壬生綱房は突如宇都宮城を襲撃し、芳賀高定は城を乗っ取られた。これにより浮き足立った宇都宮軍を那須軍が襲い、混乱の中尚綱は討ち死にした(弥五郎坂合戦)。壬生綱房の子、綱雄は壬生城から飛山城方面に軍を進め、芳賀高定を牽制した。高定は尚綱の子、広綱を匿って佐竹氏を頼って落ち延びた。高定は宇都宮城奪還を計画、弘治五(1555)年、真岡城にて芳賀高経の法要にかこつけて高照を誘い出し、高照を捕らえて寝返らせ、家臣に命じて宇都宮城を占拠する壬生綱房を暗殺させた。高定は綱房の死を確かめた後、高照も殺害したという。宇都宮城に残った壬生綱雄は那須資胤らの後ろ盾を得て弘治二(1556)年、芳賀地方に侵攻し勝利したが、翌弘治三(1557)年、芳賀高定は佐竹義昭とともに乙連ヶ原で合戦、このとき芳賀高定の策略で那須資胤が寝返ったため壬生綱雄は不利となり降伏、宇都宮広綱は宇都宮城主の座に復帰した。芳賀高定は隠居し、二年前に殺害した高照の弟、高継に芳賀家を嗣がせたが、芳賀高継は宇都宮氏への恨みが消えず、反抗的な態度を繰り返した。

永禄三(1560)年、上杉謙信が関東に出陣すると宇都宮氏も佐竹氏らとともに反北条勢力の一員となった。しかし宇都宮氏を恨む芳賀高継は父高経、兄高照の仇討ちを画策して北条に心を寄せ、同じく北条に心を寄せる壬生氏と謀って宇都宮氏に離反した。天正二(1574)年三月二十六日、壬生綱雄は鹿沼城の軍勢を率いて宇都宮領に侵攻した。しかしこの頃、鹿沼氏の内部でも内訌が発生、天正四(1576)年二月十五日、壬生綱雄は弟の壬生徳雪斎に暗殺され、徳雪斎と綱雄の子、義雄が反目した。壬生徳雪斎は芳賀高継を味方にして宇都宮氏に対抗、宇都宮氏は詰め城として多気山城を築城して対抗した。天正七(1579)年七月、芳賀・壬生軍は宇都宮氏の詰めの城である多気山城を攻めた。しかし徳雪斎は討ち死に、芳賀高継も滅ぼされ、芳賀氏は宇都宮国綱の弟、高武が嗣ぎ、鹿沼領は壬生義雄に戻された。

天正十三(1585)年から北条氏の宇都宮領侵攻が本格化、宇都宮氏は宇都宮城・多気山城の守りを固めて対抗した。天正十五(1586)年ごろには宇都宮国綱は豊臣秀吉と誼を通じ、北条氏とそれに与する皆川氏らに対抗した。天正十六(1587)年、宇都宮国綱は皆川城を攻めた。皆川城主・皆川広照は唐沢山城主・佐野氏忠や壬生氏に援軍を求めたため皆川城は落城を免れた。

天正十七(1589)年、秀吉が北条氏に宣戦布告すると宇都宮国綱は佐竹氏とともに豊臣軍についたが、益子氏が離反したため、国綱は真岡城・茂木城の兵をもって益子氏を攻めている。

天正十八(1590)年、小田原の役により北条氏が滅亡すると、宇都宮氏は豊臣秀吉に本領を安堵された。小田原城落城後の七月二十六日、秀吉は宇都宮城に入り奥州の仕置きを指示した。

宇都宮国綱はその後、文禄元(1592)年の朝鮮侵攻にも従軍したが、慶長三(1598)年、嗣子をめぐる内紛と太閤検地での不正を咎められ改易となり、宇都宮氏は断絶した。

宇都宮城には会津若松城より蒲生秀行が十八万石で入城した。慶長五(1600)年の関ヶ原の役に際しては、徳川家康の次男、結城秀康が会津若松城の上杉景勝に対する抑えとして宇都宮城に入った。

江戸期には大河内金兵衛の城代を経て奥平家昌、忠昌が城主になり、その後、本多正純が入城した。しかし本多正純は幕府に無断で宇都宮城を改修したことを理由に元和八(1622)年に改易となり、「釣り天井事件」の伝承を残した。

その後、奥平氏、松平氏、阿部氏などが城主を歴任し、安永三(1774)年、戸田忠寛が入城して戸田氏七代の後、戸田忠友のときに戊辰の役を迎えた。慶応四年、新政府軍は宇都宮城に兵を集め、幕府軍に対抗、四月十九日、土方歳三、秋月登之介らが宇都宮城を攻撃し、新政府軍は宇都宮城を棄てて撤退した。四月二十三日、新政府軍は宇都宮城奪還のため総攻撃を仕掛け、六道口を突破、幕府軍は宇都宮城を棄てて二荒山神社から八幡山に逃れ応戦したが、夜半に敗走した。この戦いで宇都宮城は炎上し灰燼に帰し、廃城となった。

 

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