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芳賀高経の怨念届かず

児山城

                                                  

こやまじょう Koyama-Jo

別名:

主郭周囲の堀底

<<2003年06月01日>>

所在地

栃木県下野市下古山

埋もれた古城マップ:栃木編

交通アクセス

北関東自動車道「壬生」IC車10分。

JR東北線「石橋」駅から徒歩20分、東武日光線「国谷」駅徒歩30分。

行き方・注意点

華蔵寺の西側山林一帯が城址。

【基本情報】

築城年 建武年間(1334-38)  主要遺構 曲輪、土塁、水堀
築城者 児山朝定 標/比/歩 標68/比3/歩0.
主要城主 児山氏、芳賀氏、多功氏(?) 現況 山林

【歴史】

宇都宮城主・宇都宮頼綱の四男・多功宗朝の次男(または三男)の朝定が建武年間に築城、朝定は小山肥後守三郎左衛門尉と名乗ったという。朝定には男子が無く、その女子を三浦義行に嫁がせ、その五男・朝行を養子とした。

宇都宮城主・宇都宮成綱は弟の興綱に芳賀氏を嗣がせ、家臣団を強引ともいえる方法で統率したが、その死後宇都宮氏を嗣いだ宇都宮忠綱に対して、芳賀高経らの芳賀一族は対抗、忠綱の叔父で芳賀氏を嗣いでいた興綱と内通、結城城主・結城政朝とも語らい、忠綱追い落としを画策した。大永七(1527)年、忠綱と結城政朝は猿山ヶ原で戦い、その隙に芳賀一族と興綱が宇都宮城を占拠、忠綱は壬生氏を頼って鹿沼城に落ち延びたが、宇都宮城を奪回することなく四年後に死去した。宇都宮氏を嗣いだ忠綱はその後、天文五(1536)年に芳賀高経に暗殺されたという。興綱の跡は子の尚綱が嗣いだが、芳賀氏の横暴を見かねた壬生綱房は尚綱と謀って天文十(1541)年、高経を児山城に追い詰め、攻め滅ぼした。高経は敗死し、高経の子高照は那須高資を頼って落ち延びた。

永禄元(1558)年、上杉謙信が多功城を攻撃した際に児山城主の児山兼朝が討ち死にし落城、廃城となったという。

【雑感】

児山城は永禄元(1558)年に上杉謙信に攻められ落城、そのまま廃城というお話がありますが、謙信自らの越山は永禄三(1560)年のことであり、また先に上州平井城奪還などの任務で関東に駐屯していた謙信配下の武将も、この時期に宇都宮氏領に程近い下野の中原まで攻め込んでいたとはあまり考えられません。あくまでも「関八州古戦録」などで伝える児山城の戦闘は事実と全く異なっているか、あるいは年次が全く異なっているのではないかと思います。

宇都宮一族とその重臣であった芳賀氏の一族の血生臭い抗争にも児山城が登場します。芳賀高経の兄、高勝は「宇都宮錯乱」で宇都宮成綱の刃に倒れており、高経はそれを怨みに、成綱の子、忠綱追い落としを謀り、宇都宮氏の跡を継がせた興綱をも亡き者にしています。成綱は宇都宮氏の「中興の祖」などと言われますが、それは宇都宮氏側からの見方であり、事実上乗っ取られた芳賀氏が面白くなかったであろうことは想像に難くありません。しかし、この宇都宮氏をめぐる血生臭い抗争は一体どうしたものなのでしょう。どこの家でも大なり小なり「お家騒動」はあったでしょうが、ここまで憎しみ深い一族というのもなんともはや・・・。

児山城は鬱蒼とした山林の中に主郭部を中心とした遺構が実によく残っています。現状の遺構を見る限り、もともとは鎌倉〜室町初期の単郭方形居館だったことはほぼ明らかですが、周囲の山林の中にも外郭の堀痕が点々としており、ある程度は戦国期の平城として拡張されたものでしょう。主郭周囲の堀は雄大かつ残存状態もよく、素晴らしい遺構を堪能できます。この堀、見学当日は雨上がりだったこともあり、ところどころ泥田堀化していましたが、堀底の形状を見る限り、もともと空堀ではなく水堀であったと考える方が合理的かと思います。

この児山城、見学路周辺の下草が刈られ、簡単な解説板と石碑があるだけなのですが、実にいい雰囲気です。史跡整備=公園化、みたいな風潮もあり、ソレガシも公園化に必ずしも反対というわけでもないのですが、この児山城のように見学に最低限必要な部分のみ整備し、あとは何も手を下さない、というやり方が最も相応しいと思っています。いろいろな考え方があるでしょうが、児山城はこのままの姿でずっと後世まで残していただきたいものです。

華蔵寺入り口附近に建つ簡単な解説板。こういう解説とちょっとした草取りだけでも、史跡見学には十分ですよね。ちなみにこの解説には謙信の攻撃があったとは書いていませんでした。 見学路に沿って奥へ進むと、おお、素晴らしい堀が!塁壁のコーナー部分を見下ろす。堀底はあとで歩いてみましょうか。
鬱蒼とした山林の中で眠る主郭。周囲は高い土塁に囲まれていて、雰囲気も実にいい。 主郭周囲の高い土塁。ほとんど崩落も破壊もなく素晴らしい保存状態です。隅はやや高く盛られていて、櫓台のようなものがあったかもしれません。
主郭への見学路はおそらく虎口と違うと思います。この南西角に開口している場所がオリジナル虎口ではないかと思います。 左の虎口状開口部の外側は土橋で繋がっており、その先の山林にも外郭の遺構が見られます。
うっとりするほど美しい主郭周囲の堀。雨上がりの堀は所々ぬかるみと化していましたが、瑞々しい緑と濡れた土の締まった色彩のコントラストが美しいです。 主郭周囲の堀には所々雨水が溜り、かつての水堀の姿を彷彿とさせます。
主郭南東にある低い土橋状遺構、これは堀の水位を調整する「水戸違い」ではないかと思います。いわゆる畝堀はこの水戸違いが極度に発達したものではないかと考えています。 基本は単郭のお城ですが、その周囲には二郭というか外郭というか、そういうモノがあったようです。戦国期には拡張されて「平城」になったのでしょう。
その外郭の堀は所々寸断されていますが、西側は一部藪化しているものの痕は歴然としています。 見学路入り口の道路と並行する部分にも深さはあまり無いものの、明瞭な堀が延びていました。
訪城記録

(1)2007/12/30

(2)2009/07/12

参考サイト

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)、

「栃木の城」(下野新聞社)

「歴史と旅 1992臨時増刊号」(秋田書店)

「下野戦国史 -皆川広照の生涯 」(大森隆司/下野新聞社)

推奨図書

周辺地情報

壬生城、上三川城などが堀・土塁の一部が復元されている。「伝・関宿城移築城門」が国道四号旧道沿いにあります。

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