児山城は永禄元(1558)年に上杉謙信に攻められ落城、そのまま廃城というお話がありますが、謙信自らの越山は永禄三(1560)年のことであり、また先に上州平井城奪還などの任務で関東に駐屯していた謙信配下の武将も、この時期に宇都宮氏領に程近い下野の中原まで攻め込んでいたとはあまり考えられません。あくまでも「関八州古戦録」などで伝える児山城の戦闘は事実と全く異なっているか、あるいは年次が全く異なっているのではないかと思います。
宇都宮一族とその重臣であった芳賀氏の一族の血生臭い抗争にも児山城が登場します。芳賀高経の兄、高勝は「宇都宮錯乱」で宇都宮成綱の刃に倒れており、高経はそれを怨みに、成綱の子、忠綱追い落としを謀り、宇都宮氏の跡を継がせた興綱をも亡き者にしています。成綱は宇都宮氏の「中興の祖」などと言われますが、それは宇都宮氏側からの見方であり、事実上乗っ取られた芳賀氏が面白くなかったであろうことは想像に難くありません。しかし、この宇都宮氏をめぐる血生臭い抗争は一体どうしたものなのでしょう。どこの家でも大なり小なり「お家騒動」はあったでしょうが、ここまで憎しみ深い一族というのもなんともはや・・・。
児山城は鬱蒼とした山林の中に主郭部を中心とした遺構が実によく残っています。現状の遺構を見る限り、もともとは鎌倉〜室町初期の単郭方形居館だったことはほぼ明らかですが、周囲の山林の中にも外郭の堀痕が点々としており、ある程度は戦国期の平城として拡張されたものでしょう。主郭周囲の堀は雄大かつ残存状態もよく、素晴らしい遺構を堪能できます。この堀、見学当日は雨上がりだったこともあり、ところどころ泥田堀化していましたが、堀底の形状を見る限り、もともと空堀ではなく水堀であったと考える方が合理的かと思います。
この児山城、見学路周辺の下草が刈られ、簡単な解説板と石碑があるだけなのですが、実にいい雰囲気です。史跡整備=公園化、みたいな風潮もあり、ソレガシも公園化に必ずしも反対というわけでもないのですが、この児山城のように見学に最低限必要な部分のみ整備し、あとは何も手を下さない、というやり方が最も相応しいと思っています。いろいろな考え方があるでしょうが、児山城はこのままの姿でずっと後世まで残していただきたいものです。