かの那須与一宗隆を輩出した那須氏、戦国をたくましく生き残った那須氏、その名門、那須氏を待っていたものは・・・全領土没収の上、蟄居謹慎だった・・・。場所は那珂川と箒川が合流する低湿地、周りに広がるススキの穂、そして那須資晴は囲炉裏端で川のせせらぎを聞きながら、苦い杯を飲み干した。お家を潰してしまったことをご先祖様に詫びながら・・・。うむむ、侘しい、侘しすぎる。演歌の一曲も歌ってあげたい気分だ。
例によって例のごとく、天正十八(1590)年の小田原の役では、関東の伝統的な武士団の多くが改易や領土縮小などの憂き目に遭いましたが、この下野の名族にもその嵐が吹き荒れました。那須資晴は小田原の役遅参の由により、全領土を奪われ、この葦とススキの覆い茂る低湿地の佐良土城で蟄居する破目になってしまいました。どこの誰とも得体の知れぬ者が関白にまで登り詰め、「平家物語」のワンシーンを飾った名門の那須氏が蟄居謹慎。那須資晴、いかなる気持ちであったか、心中お察し申し上げます。
まあ、その後まもなくして福原五千石、さらに息子の資景にも別途五千石を与えられて小なりとはいえ大名の座に復帰するのですから、なんとか名門としての体裁は保てたかな、という気もします。やがて那須氏はふたたび由緒正しき烏山城に帰っていくのですが、このときの那須氏の当主・資弥は那須氏の血の者ではなく、増山弾正正利の弟かつ、四代将軍徳川家綱の生母、於良久の方の弟、要するに家綱の叔父、家光の義理の兄弟にあたる人物だったわけです。さらにその資弥にも子が無く、津軽信政の次男を養子に入れるも、ここでお家騒動が勃発、結局烏山領を没収され、最終的には旗本となって維新を迎えたとのこと。伝統的な武士団として、また独立領主としての那須氏はやはり烏山城を出てこの佐良土城に入った瞬間に終わってしまった、と考えてもいいでしょう。
佐良土城は湯津上村役場の東、300mほどの場所にあり、その面影がよく残っています。完存ではなく、かといって湮滅でもない、この中途半端さがまた侘しくてたまりません。一応残っている部分から判断すると、40m×50mくらいの長方形の館だったのではないかと思います。もともと何らかの館があったんでしょう。とにかく「城」なんていうものじゃなくて、館、それも相当に小規模なもので、まさに蟄居謹慎するための場所といった感じです。たぶん、ちょっとした農家の屋敷の敷地よりも小さいんじゃないでしょうか。遺構は一応、二方向の土塁と、その周囲の水堀痕がよく残っています。まあ遺構が云々という場所ではなく、AMラジオで夜中につい聞いてしまった演歌のような侘しさを味わってほしいところです。
[2005.03.13]