那須家百年の分裂の現場

沢村城

さわむらじょう Sawamura-Jo

別名:

栃木県矢板市沢

(観音寺・温泉神社裏山)

城の種別

平山城

築城時期

不明(鎌倉初期?)

築城者

沢村満隆(?)

主要城主

沢村氏、塩谷氏城代

遺構

曲輪、土塁、横堀、堀切ほか

箒川対岸から見る沢村城<<2004年04月24日>>

歴史

築城時期は明らかではないが、那須与一宗隆の七兄・七郎満隆が沢村を分知され沢村氏を称したのがはじまりという。

沢村城はその後、川崎城主の塩谷氏との境界となり、幾度か攻防が繰り広げられた。元徳二(1330)年には塩谷氏に属する富田信濃守が在城していたが、那須勢が攻め寄せ、富田の変心によって沢村城は那須氏に奪われた。応永二(1395)年には那須氏に属する福原勝馬が在城していたが、塩谷氏は喜連川塩谷氏・氏家氏・宇都宮氏らの援軍を得て沢村城を攻め落とした。その後、佐竹氏の仲介で和睦したという。

応永二十一(1414)年頃、那須資氏の跡を継いだ福原城主・那須資之と、その弟で沢村氏を嗣いだ沢村五郎資重が不和となり、那須氏は上那須家・下那須家に分裂した。上那須家の資之は応永二十一(1414)年八月二日、下那須の沢村城を攻撃、資重は沢村城を棄て、一時興野氏の館に落ち着いた後、稲積城を修復して居住し、応永二十四(1417)年に烏山城の築城をはじめ、翌応永二十五(1418)年に完成して稲積城から移った。

寛正元(1460)年にも塩谷氏が沢村城を攻め、福原勝馬を討ち取り、大沢十郎を城代に置いた。その後、那須の忍びの者が城内に忍び込んだが討ち取られたという。最終的に廃城の時期等は不明。

沢村城は応永年間に分裂した那須氏のうち、「下那須氏」が本拠としたお城です。こんもりとした小山なのですが、裏手に回ると箒川に面した断崖絶壁の上にあり、少なくとも川の方角からは絶対に攻められない、堅固な立地にあります。

この那須家の分裂は、はっきりとは分かりませんが応永二十一(1414)年頃のこととされ、福原城主の兄・那須資之は弟の資重の人望が篤いことを妬んで、花見にことよせて殺害しようと企んだのがきっかけだったとか。その裏で糸を引いていたのが犬懸上杉禅秀で、「小国那須を上下に分けるいわれなし、資重を滅ぼし一つに領し給え」と言ってけしかけたとか。おいおい、関東管領が裏で暗殺の糸を引いていいのかよ、という感じですが、どこまでホントかわかりません。ただ、この分裂の裏では関東管領職をめぐる山内・犬懸両上杉の対立、そして上杉禅秀と関東公方・足利持氏の対立などが関係しているといわれます。いわゆる「禅秀の乱」が勃発するのは応永二十三(1416)年になってからですが、そこに至るまでの過程でこうした駆け引きもあった可能性もあります。隣国の佐竹氏領でも、上杉氏からの養子をめぐって佐竹宗家と一門の有力者、山入氏が争っており、鎌倉府をめぐる対立構図が地方に飛び火していった一例であるかもしれません。

で資之の資重暗殺計画ですが、これは事前に露呈してしまいます。兄弟争う非を説く家臣の角田庄兵衛重安なる人物が沢村城に赴き、ことを告げたのだとか。暗殺に失敗した資之は、では正面から戦うまで、と福原城を出陣、300騎を引き連れて沢村城を攻撃します。応永二十四(1417)年八月二日の攻防では、寄せ手八十、沢村勢五十の死者を出す激戦だったということです。しかし寡兵の沢村勢はこのまま沢村城に籠っていても先が見えている、ここは後日を期すべし、と脱出を決め、箒川の断崖に縄を下ろして川原に出、舟でいったん興野氏の館に入り、その後稲積城を経て、かの名城・福原城を築いた、ということです。この沢村城の東側はまさに断崖、まるで「お万布さらし伝説」(勝浦城の頁参照)の那須版といった感じです。

その後の沢村城はどうも那須氏と塩谷氏の境目になっていたらしく、何度か攻防が繰り広げられていたようです。今残る遺構は戦国後期のものと思われますので、その頃に改修されたものなのでしょう。

沢村城平面図(左)、鳥瞰図(右)

※クリックすると拡大します。

沢村城は箒川に面した30mほどの断崖絶壁の上に築かれており、陸側からだと観音寺や温泉神社の真裏の丘にあたります。見学には観音寺右手の沢伝いの小道を上がるのがいいでしょう。その遺構は素晴らしく、主郭周囲の横堀や大きな折れをもつ堀切、高い土塁など、見所はかなりあります。空堀の深さはまさに「めくるめくばかり」、しかも山林は手入れがきちんとされているので、生々しい土の壁が迫力満点です。決して大きなお城ではありませんが、戦国期らしい技巧が随所に見られる上、ヤブもあまりないので高い満足度が得られるでしょう。ただ、川に面した断崖はちょっとばかり危険なので、見学の際は足許にお気をつけて。

[2005.03.13]

箒川の対岸から見た沢村城。周囲はまさに断崖絶壁、川の水量も多く、この方面から攻め寄せるのは不可能ですね。 反対側の観音寺方面から見た沢村城。こんもりした、何の変哲も無い丘に見えますが、実は素晴らしい遺構が眠っているのです。
観音寺から沢伝いに登った堀1。ここはもともとの天然地形を加工して大規模な堀切にしているようです。写真左手にはX曲輪(北曲輪)がありますが、こっちはかなりのヤブです。 主郭の塁壁の下をめぐる堀2。北端部分では堀1と並んで二重の大堀切になっています。素晴らしい!
同じく横堀となって伸びる堀2。T曲輪側の切岸は10m近くもあるでしょう。 反対側から見た堀2。塁線が微妙にカクカクと折れ曲がっているのがわかるでしょうか。
堀2を越える土橋。これは改変ではなく、もともとのものでしょう。 土橋を渡ると主郭へ向かう坂虎口になります。上には低い土塁があり、一応頭上攻撃を意図したものと思われます。
主郭の高〜い土塁。写真の部分は櫓台と思われるひときわ高く重厚な部分。うむむ、素晴らしすぎる! 土塁上から見た主郭。周囲は土塁でほぼ囲まれています。それにしても、手入れが行き届いた山林というのは気持ちいいですね!
主郭とU曲輪を隔てる堀切3。まさに、めくるめくばかりの空堀とはこのことだ。 その堀切3の西端。横堀との接合部分は大きな横矢が掛けられています。
堀切3の堀底から。まるで谷!といいたいのですが、写真ではその迫力の二万五千分の一くらいしか伝えられないところが残念! U曲輪辺りから見る箒川対岸。このあたりは天正十三(1585)年、宇都宮・塩谷連合軍と那須氏が激戦を繰り広げた、薄葉ヶ原になります。
U曲輪は北側にのみ土塁があります。V曲輪あたりまで行くとかなり削平も適当になってしまうので、このあたりまでが主要部と考えていいでしょう。 U曲輪西側の横堀。T曲輪の堀と繋がっていますが、U曲輪あたりではかなり小規模なものになっています。
堀2は竪堀というか、斜めの堀となって台地下に伸びています。このあたりは通路としても用いられていたんでしょうか。 V曲輪の南の堀5、一応向こう側にも土塁はありますが、削平や切岸が施された形跡は無く、まずここまでが城域と考えられます。
観音寺脇からすでに見えている下段の横堀6。このあたりは横堀が二重になっているのですな。 その横堀6、途中に台地下に繋がる開口部と、W曲輪に繋がる道があります。ここも堀底通路として用いられていたのでしょうか。
温泉神社南側の斜めに延びる堀。やはりこのお城は堀底が通路もかねていたように思える。 温泉神社手前には一段低い田畑があり、水堀の痕と思われます。

 

 

交通アクセス

東北自動車道「矢板」IC車15分。

JR東北本線「矢板」駅徒歩50分。バス等は不明。

周辺地情報

矢板市内では川崎城、御前原城などの塩谷氏関連城館がオススメ。那須氏関連では佐久山城福原城が近い。

関連サイト

 

 

参考文献

「那須の戦国時代」(北那須郷土史研究会 編)

「栃木の城」(下野新聞社)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「那須記」(『續群書類従第二十二巻上(合戦部)』/續群書類従完成会に所収)

参考サイト

余湖くんのホームページ日本を歩きつくそう!

 

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