稲積城は那珂川曲流部の左岸にある広大な台地全体を取り込んだ平城で、那須氏が最初の居館であった神田城から、この稲積城を築いて移ってきた、とのことです。那須与一がここで生まれた、という説もあります。
ただ、実際問題としてこの稲積城を見る限り、平安・鎌倉初期の武士の居館としては少々進みすぎているというか、あまりに戦国時代的な立地なのが気になるところです。神田城は周囲に肥沃な農地が広がっていて、いかにも朴訥とした開発領主の館に相応しい立地なのですが、稲積城の立地は比較的狭い谷に面しており、農業生産的にはあまり向いていない、どちらかといえば水陸の交通を抑える、純軍事的な要求に基づいて選地されたお城、という感じがしました。台地の広さも半端ではなく、そうしたことから考えても、もう少し後の時代のお城と考える方が理に適っているように思えます。
稲積城は一時、上下那須氏の分裂によって沢村城を脱出した沢村五郎資重(下那須氏の祖)がここに住み、まもなく烏山城を築いて移っています。その後は家臣の本庄氏が在城していたようで、度重なる佐竹義重の烏山城攻撃に際しても、その前衛の砦として奮戦、本庄三河守が守る稲積城も寡兵のため落城寸前に追い込まれながらも、城兵の奮戦や佐竹軍の作戦の乱れなどにより、辛うじて落城を免れ、烏山城の防衛に一役買っているとのことです。
稲積城のある台地は比高は10m程度ですが、南北が1kmほどもある広大なお城で、その北端には那須氏と縁の深い稲積神社があります。主郭は南端の「御城」の地で、ここは畑になっており、一部に土塁や「太鼓櫓」とされる櫓台の跡が残っています。ただ稲積城全体は残存状況があまり良くはなく、宅地と広い農地の間に土塁の一部などが点々と残存している程度です。明瞭な堀はのこっていないようですが、土塁の位置関係から見て、三郭程度の連郭式城郭だったようです。那珂川の水運とも関連性がありそうですが、欠点としては周囲の高い山々から城内が丸見えになってしまうことで、実際に「大海の合戦」などでは苦戦を強いられていたようです。そもそも、台地全体が広すぎて、寡兵では守りきるのが大変だったと思われます。
[2005.03.12]