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上那須滅亡の惨劇を語る

福原城

(福原北岡館・福原要害城)

ふくわらじょう Fukuwara-Jo

別名:名須城

主郭周囲の横堀 

<<2004年12月26日>>

所在地
栃木県大田原市福原
※登城口
埋もれた古城マップ:栃木編
交通アクセス

東北自動車道「矢板」「西那須野塩原」IC車30分。

公共交通は不明。

行き方・注意点

県285のカーブ付近から南側の丘陵へ入る。
案内等は無し。未整備の山林。主郭はド藪。

【基本情報】

築城年 不明(鎌倉期?) 主要遺構 曲輪、土塁、横堀、堀切、竪堀ほか
築城者 那須宗隆・之隆 標/比/歩 標197/比40/歩40.
主要城主 那須氏 現況 山林

【歴史】

築城時期は明らかではないが、那須与一宗隆の五兄、福原五郎之隆が那須氏の家督を相続し、以後代々那須氏の居城となった。

南北朝期には那須資家は足利尊氏に従い、暦応三(延元元:1340)年には南朝の北畠顕家に属する相馬胤平によって「名須城」が攻められている。

応永二十一(1414)年頃、那須資氏の跡を継いだ那須資之と、その弟で沢村氏を嗣いだ沢村五郎資重が不和となり、那須氏は上那須家・下那須家に分裂した。上那須家の資之は応永二十一(1414)年八月二日、下那須の沢村城を攻撃、資重は沢村城を棄て、一時興野氏の館に落ち着いた後、稲積城を修復して居住し、のちに烏山城を築き、応永二十五(1418)年に移った。

応永二十三(1416)年、上杉禅秀の乱が勃発すると、福原城主の那須資之は禅秀に味方したが、禅秀の乱が鎮圧された後、関東公方・足利持氏によって禅秀の与党が攻められ、福原城も二度攻撃されている。

永正十一(1514)年、上那須家では資親の死後、白河結城氏から養子入りした資永と、実子の資久の間で跡継ぎをめぐる内紛が発生、大田原胤清らが資永の福原城を攻撃した。資永は山田城に匿われていた資久を拉致した上で殺害、自らも自刃して福原城は落城し、上那須氏は断絶、烏山城の下那須資房によって那須家は統一された。

その後は烏山城の支城として用いられていたと思われるが詳細は不明。天正十八(1590)年、那須資晴が小田原の役への遅参を豊臣秀吉に咎められて領地を没収、改易されて佐良土城に蟄居した。その後許されて福原周辺に五千石を与えられ、子の資景にも五千石が与えられて大名に復帰した。那須氏は福原城の一角に陣屋を設けたが、天和元(1681)年、烏山に移封となり廃城となった。

 

福原要害城平面図(左)、福原城鳥瞰図(右)

※クリックすると拡大します。

【雑感】

福原城は鎌倉時代に那須氏がここに移ってから、以降三百年に渡って那須氏の本拠となった、由緒正しいお城です。この福原城については各書籍などで多少記述が混乱している部分が無くもないのですが、「余湖くんのホームページ」でも記載されているように整理すると

・「福原城」=「北岡館」・・・那須氏〜上那須氏の居館とされた、河岸段丘の上に構築された平城。
・「福原要害城」・・・福原城に付随する、比高30mほどの山城。
・「福原陣屋」・・・現在の玄性寺附近にあったという、近世初頭の陣屋

なお、よく「福原氏」の居城ともされますが、福原氏はここではなく、片府田城にいたというからややこしい。さらにややこしいのが、福原氏の初代にあたる四郎久隆(与一宗隆の四兄)は子が無く、弟の五郎之隆の子・資広を養子にしているのですが、この五郎之隆が与一宗隆の養子となって那須氏九代・那須資之になっている・・・。ああややこしや、ややこしや。とりあえずここでは、河岸段丘上の「北岡館」とその詰城的な位置づけである「福原要害城」を総称して「福原城」と呼ぶことにしておきます。

応永年間、那須惣領家を嗣いだ十八代・資之はこの福原城に居住し、弟の資重は沢村氏を嗣いで沢村城に居住していましたが、正確な年次は不明ながらもこの兄弟は仲違いを起こし、沢村資重も「那須」を称して、那須家は福原城を居城とする「上那須家」と、沢村城、のちに烏山城を居城とする「下那須家」に分裂します。この背景には時代の流れであった、分割相続を基本とした伝統的惣領制の崩壊という現象、そこに当時の関東公方・足利持氏と関東管領・犬懸上杉氏憲(禅秀)の対立、さらにその後持氏と幕府・山内上杉氏の対立などが絡んで、複雑な様相を見せていました。八溝山系を挟んだ隣国・常陸の佐竹氏においても、山内上杉氏から佐竹宗家の養子に入った義憲をめぐって「山入一揆」の叛乱が勃発しており(太田城の頁参照)、状況としては似ていたのではないかと思います。

やがて、上那須氏は資親の代に跡継が絶え、白河結城義永の子・資永を養子に迎え入れます。ところが、これまたありがちな話なのですが、資親の晩年、ひょっこり実子の資久が生まれてしまいます。悩む資親は家臣の大田原胤清らに命じて資久を山田城に匿わせ、資永を廃嫡とするよう遺言を残して他界します。典型的お家騒動勃発のパターンです。

永正十一(1514)年、大田原胤清、金丸、大関、芦野、伊王野らの諸氏は資永を討つべく300騎で蛭田原に布陣、一方資永も急ぎ軍勢を集めるもその数たったの50。300VS50という、小さな大戦争のはじまりです。しかし寡兵の資永、もはや明日は討ち死にと心に決めたと同時に、思い切った作戦に出ます。八月二日雨の夜、資永は家臣数名を山田城に忍び込ませ、七歳の資久を誘拐、福原城へと拉致することに成功します。翌日、資永は資久の首を刎ね、自らも館に火を放って自刃します。勝ち誇った大田原氏らが福原城で見たものは、あろうことか守るはずの七歳の幼君の首であった・・・。

といったような南條範夫ばりの展開で、上那須氏は断絶、上下の那須氏は下那須の那須資房のもとで統一されることとなります。これらは『那須記』に記述があるもので、目くじらを立てて史実かどうかを論じる類の話ではないでしょう。『那須記』は「續群書類従第二十二巻上(合戦部)」に収録されていますので、ご興味のある方は図書館などでどうぞ。とにかく結果的に見ればこれによって那須氏では家中のゴタゴタが解決され、まがりなりにも戦国大名として生き残ることになるのですから、滅んだ資永らの上那須衆には気の毒ながらも、那須氏にとっては脱皮のチャンスであったと捉えることもできそうです。

福原城は前述のとおり、箒川に面した段丘上の平城「北岡館」と、その段丘の東端附近に突出した尾根の先端に設けられた「福原要害城」からなります。それぞれの創立時期、存続期間は正確にはわかりませんが、おそらく両者とも戦国期を通じて存続していたのものでしょう。段丘上の北岡館は「那須の戦国時代」収録の航空写真を見ると中世城館らしい立地であることがよくわかりますが、現在は農地や宅地によって明瞭な遺構は乏しく、わずかに土塁の残欠らしきものや、沢を堀として利用していたであろう痕跡が伺える程度です。福原要害城の方は、「日本城郭大系」では「全体が足を踏み入れることもできないほど草木が覆い茂」っているとされ、また「栃木の城」によると、ゴルフ場に売却されて、消滅する運命にあったことが書かれており、てっきり遺構は消滅したものだと思っていました。しかし、「日本を歩きつくそう!」のtakeパン殿が遺構の存在を確認、またおれんじゃあ殿の「余湖くんのホームページ」でその衝撃的な縄張り図が発表され、度肝を抜かれて早速、確認しに行ってきました。

山自体はさほど急峻でも高くもなく、麓から上れば5分くらいで遺構に辿りつきます。たしかに山麓は多少ヤブになっていて取り付き口がわかりにくいですが、ほんの少しヤブ漕ぎをすれば、竹林の中にきちんとした道が現れます。その遺構は完存に近く、これほど保存状態がよく、しかも見事な縄張りの城館があまりその存在も知られずに放置されているのが勿体ないほど。基本は二郭程度の小規模な砦といった程度なのですが、ふたつの曲輪をめぐる壮大な横堀、側面攻撃を意識した虎口、鋭い竪堀、主郭周囲の驚くほど高い土塁など、見所は満載です。圧巻は尾根続き方面にあたる東南側で、ここはまさに堀切・竪堀の乱れ打ち、文字通り「縦横無尽」に堀が入り組んでおり、唖然とするほどの見事さです。主郭内部はヤブが密生していて歩けたものではないですが、周囲の堀などは比較的綺麗な状態で、十分その遺構を堪能できます。

なお、「那須の戦国時代」をお持ちの方は35頁の航空写真を見て頂くと、右下に二つの曲輪と周囲の横堀がはっきり写った福原要害城の姿を見ることができます。

この見事な遺構がぜひぜひこれからも残ってくれることを願ってやみません。素晴らしい城館の存在を教えてくれたtakeパン殿、おれんじゃあ殿に感謝。

[2005.03.12]

箒川対岸より見る福原城(北岡館)。水量の多い箒川に面した、広い河岸段丘の上に居館が営まれていました。 福原集落の「堀の内」あたり。北岡館の中心部ですが、別段城郭遺構らしきものはありません。深く切れ込んだ沢が天然の堀になっていたようです。
「城ノ内」を流れる小川。こうした小川が天然の堀になっていたようですが、航空写真でみるとかなり鉤形の折れもあり、多少は手を加えていたかもしれません。 北岡館の外郭にあたる「城ノ内」、こちらも農地になっているだけで別段遺構らしきものはなし。
県道に面した北岡館の土塁の一部?現状からでは遺構かどうかは判別するのは難しい。。。 近くの玄性寺には那須与一らの墓碑があります。ヤブコギをしない人、歴史散策派の人はぜひこちらに!
ヤブコギをしたい人はこちらへ。といっても主郭以外は意外とヤブは少ない。向こうのこんもりした丘が福原要害城。比高は30mほどで、規模から言っても「砦」という方が相応しいかも。 段丘のはずれ、尾根が突き出したあたりからヤブに突入すると、すぐ竹林の中に道が現れます。入口に「不審者に注意」の看板がありますが、見なかったことにして突入しましょう。
5分も竹林を登れば、V曲輪に。U曲輪の鋭い切岸の塁壁が、「ここに城アリ!」と主張しているようです。 結構気に入っているU曲輪虎口。左手の土塁上には櫓台のような突き出しがあり、常に側面攻撃を受けます。通路は堀底状になり、U曲輪へ繋がります。
低い土塁に囲まれたU曲輪。見所はやはり西側の横堀でしょう。 その横堀(堀1)。主郭の周囲から繋がっていますが、U曲輪は塁壁が低いのであまり大きくは見えません。
横堀1から繋がる竪堀13。かなりの急斜面です。 同じく横堀から繋がる竪堀12。U曲輪周辺では、横堀が放射状に竪堀に接続されています。
U曲輪とT曲輪を隔てる堀切2。西側では横堀1と接続、東側では大きく屈曲した後、竪堀9へと接続します。 主郭周囲の横堀1。主郭側は高い土塁になっており、場所によっては10mほどもあります。素晴らしいです。
その横堀を主郭の土塁から見下ろす。 横堀1と堀切3、竪堀5が接合する、実に複雑な堀の交差点。なぜこんなややこしいことになっているのか・・・。
写真はイマイチですが、主郭の土塁上から櫓台を見ています。櫓台周辺の土塁は際立って高く、主郭の削平面からでも7-8mはあるでしょうか。土塁自体も高さ、幅とも大したもんです。 その主郭は笹薮と倒木にすっかり埋もれてしまい、さすがに歩くことはできない。仕方ないので土塁上を移動します。土塁には二箇所開口部があり、虎口であった可能性も高いかと。
主郭の背後を断ち切る堀切3。東側では竪堀に変化します。また堀4が途中で枝分かれするなど、実に複雑。 横堀1・堀切3から東へ枝分かれする竪堀5。この下では堀6、堀8とも接合し、谷部の湿地に落ちていきます。
ヤブでなんだかわかりませんが、堀3から枝分かれする堀4。このあたりは堀切の乱れ打ち、堀切ファン大感謝セール実施中という感じ。 一応土塁があるのでW曲輪としましたが、削平はかなり甘く、背後を固める臨時の突角陣地、といった感じです。
さらに尾根続きを分断する堀6。深さは8mほどもあるでしょうか。実に雄大。しかしこんな小さなお城になぜここまで雄大な遺構があるのか不思議。 丘陵の北端、麓近くにある井戸だという窪み。水はありませんでしたが、この丘陵の周囲では湧水が結構あるようです。
訪城記録

(1)2004/04/24

(2)2004/12/26

(3)2005/01/30

(4)2009/12/26

 

参考サイト

余湖くんのホームページ日本を歩きつくそう!

参考文献

「那須の戦国時代」(北那須郷土史研究会 編)

「栃木の城」(下野新聞社)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「那須記」(『續群書類従第二十二巻上(合戦部)』/續群書類従完成会に所収)

推奨図書

那須の戦国時代

下野新聞社 北那須郷土史研究会(編)

那須地方の戦国史を知るバイブル的な一冊。現在入手は難しいようだが、古本市場で見つけたら入手を推奨。

周辺地情報

那須地方は見所のある城館が多いです。附近では、佐良土城佐久山城沢村城などをオススメしておきます。玄性寺(栃木県大田原市福原361)の那須与一墓所の参拝も推奨。