福原城は鎌倉時代に那須氏がここに移ってから、以降三百年に渡って那須氏の本拠となった、由緒正しいお城です。この福原城については各書籍などで多少記述が混乱している部分が無くもないのですが、「余湖くんのホームページ」でも記載されているように整理すると
・「福原城」=「北岡館」・・・那須氏〜上那須氏の居館とされた、河岸段丘の上に構築された平城。
・「福原要害城」・・・福原城に付随する、比高30mほどの山城。
・「福原陣屋」・・・現在の玄性寺附近にあったという、近世初頭の陣屋
なお、よく「福原氏」の居城ともされますが、福原氏はここではなく、片府田城にいたというからややこしい。さらにややこしいのが、福原氏の初代にあたる四郎久隆(与一宗隆の四兄)は子が無く、弟の五郎之隆の子・資広を養子にしているのですが、この五郎之隆が与一宗隆の養子となって那須氏九代・那須資之になっている・・・。ああややこしや、ややこしや。とりあえずここでは、河岸段丘上の「北岡館」とその詰城的な位置づけである「福原要害城」を総称して「福原城」と呼ぶことにしておきます。
応永年間、那須惣領家を嗣いだ十八代・資之はこの福原城に居住し、弟の資重は沢村氏を嗣いで沢村城に居住していましたが、正確な年次は不明ながらもこの兄弟は仲違いを起こし、沢村資重も「那須」を称して、那須家は福原城を居城とする「上那須家」と、沢村城、のちに烏山城を居城とする「下那須家」に分裂します。この背景には時代の流れであった、分割相続を基本とした伝統的惣領制の崩壊という現象、そこに当時の関東公方・足利持氏と関東管領・犬懸上杉氏憲(禅秀)の対立、さらにその後持氏と幕府・山内上杉氏の対立などが絡んで、複雑な様相を見せていました。八溝山系を挟んだ隣国・常陸の佐竹氏においても、山内上杉氏から佐竹宗家の養子に入った義憲をめぐって「山入一揆」の叛乱が勃発しており(太田城の頁参照)、状況としては似ていたのではないかと思います。
やがて、上那須氏は資親の代に跡継が絶え、白河結城義永の子・資永を養子に迎え入れます。ところが、これまたありがちな話なのですが、資親の晩年、ひょっこり実子の資久が生まれてしまいます。悩む資親は家臣の大田原胤清らに命じて資久を山田城に匿わせ、資永を廃嫡とするよう遺言を残して他界します。典型的お家騒動勃発のパターンです。
永正十一(1514)年、大田原胤清、金丸、大関、芦野、伊王野らの諸氏は資永を討つべく300騎で蛭田原に布陣、一方資永も急ぎ軍勢を集めるもその数たったの50。300VS50という、小さな大戦争のはじまりです。しかし寡兵の資永、もはや明日は討ち死にと心に決めたと同時に、思い切った作戦に出ます。八月二日雨の夜、資永は家臣数名を山田城に忍び込ませ、七歳の資久を誘拐、福原城へと拉致することに成功します。翌日、資永は資久の首を刎ね、自らも館に火を放って自刃します。勝ち誇った大田原氏らが福原城で見たものは、あろうことか守るはずの七歳の幼君の首であった・・・。
といったような南條範夫ばりの展開で、上那須氏は断絶、上下の那須氏は下那須の那須資房のもとで統一されることとなります。これらは『那須記』に記述があるもので、目くじらを立てて史実かどうかを論じる類の話ではないでしょう。『那須記』は「續群書類従第二十二巻上(合戦部)」に収録されていますので、ご興味のある方は図書館などでどうぞ。とにかく結果的に見ればこれによって那須氏では家中のゴタゴタが解決され、まがりなりにも戦国大名として生き残ることになるのですから、滅んだ資永らの上那須衆には気の毒ながらも、那須氏にとっては脱皮のチャンスであったと捉えることもできそうです。
福原城は前述のとおり、箒川に面した段丘上の平城「北岡館」と、その段丘の東端附近に突出した尾根の先端に設けられた「福原要害城」からなります。それぞれの創立時期、存続期間は正確にはわかりませんが、おそらく両者とも戦国期を通じて存続していたのものでしょう。段丘上の北岡館は「那須の戦国時代」収録の航空写真を見ると中世城館らしい立地であることがよくわかりますが、現在は農地や宅地によって明瞭な遺構は乏しく、わずかに土塁の残欠らしきものや、沢を堀として利用していたであろう痕跡が伺える程度です。福原要害城の方は、「日本城郭大系」では「全体が足を踏み入れることもできないほど草木が覆い茂」っているとされ、また「栃木の城」によると、ゴルフ場に売却されて、消滅する運命にあったことが書かれており、てっきり遺構は消滅したものだと思っていました。しかし、「日本を歩きつくそう!」のtakeパン殿が遺構の存在を確認、またおれんじゃあ殿の「余湖くんのホームページ」でその衝撃的な縄張り図が発表され、度肝を抜かれて早速、確認しに行ってきました。
山自体はさほど急峻でも高くもなく、麓から上れば5分くらいで遺構に辿りつきます。たしかに山麓は多少ヤブになっていて取り付き口がわかりにくいですが、ほんの少しヤブ漕ぎをすれば、竹林の中にきちんとした道が現れます。その遺構は完存に近く、これほど保存状態がよく、しかも見事な縄張りの城館があまりその存在も知られずに放置されているのが勿体ないほど。基本は二郭程度の小規模な砦といった程度なのですが、ふたつの曲輪をめぐる壮大な横堀、側面攻撃を意識した虎口、鋭い竪堀、主郭周囲の驚くほど高い土塁など、見所は満載です。圧巻は尾根続き方面にあたる東南側で、ここはまさに堀切・竪堀の乱れ打ち、文字通り「縦横無尽」に堀が入り組んでおり、唖然とするほどの見事さです。主郭内部はヤブが密生していて歩けたものではないですが、周囲の堀などは比較的綺麗な状態で、十分その遺構を堪能できます。
なお、「那須の戦国時代」をお持ちの方は35頁の航空写真を見て頂くと、右下に二つの曲輪と周囲の横堀がはっきり写った福原要害城の姿を見ることができます。
この見事な遺構がぜひぜひこれからも残ってくれることを願ってやみません。素晴らしい城館の存在を教えてくれたtakeパン殿、おれんじゃあ殿に感謝。
[2005.03.12]