中学だか高校だか、その頃に習った授業のうちで最も印象に残ったもののひとつが『平家物語』でした。「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」の有名な出だしの一節とともに、那須与一の活躍する「扇の的」のワンシーンは心奪われるものがありました。
「与一、鏑を取つてつがひ、よつ引いてひやうど放つ。小兵というぢゃう、十二束三ぶせ、弓はつよし、浦ひびく程ながなりして、あやまたず扇のかなめぎは一寸ばかりおいて、ひいふっとぞ射きったる」
波間に揺れる舟の上の小さな扇の的に全精神を注ぎ、己の名誉と命の全てを賭けて矢を放つ瞬間、そして敵味方息を止めて見守る中、与一の鏑矢の音が空間を切り裂く、そして扇の要に見事的中。扇は春風に舞い上がり、やがて波間に消えてゆく・・・・。こうやって書いている時でも、ゾクゾクと来るものがあります。
そんなわけで下野の名族、那須氏には憧れというか、畏敬の念に近いものを抱き続けていました。ここで紹介する神田城はその那須氏の、最も初期の城館といわれる場所、いわば那須氏の「原点」の地でもあります。上記の「歴史」に見るとおり、必ずしも歴史は明白ではなく、諸説入り乱れてはいるのですが、那須氏の初期の城館である、というところは間違いないところでしょう。異説もありますが与一宗隆の生まれた場所だという説もあり、妄想にターボをかけて、弓の稽古に汗を流す与一の姿や、平家に打ち勝っただけでなくおのれの弓で名を上げて、得意満面で帰館する姿などを想像してみるのも悪くないでしょう。
那須氏の出自自体も明らかではなく、古代の那須国造の末裔である、とか、藤原氏の流れ秀郷流藤原氏、山内首藤氏の流れなど諸説あり、八溝山に棲む鬼人「岩嶽丸」を退治した恩賞で那須に入部したなどという話もあります。那須地方は我が根古屋から少々遠いことや、田舎に帰る経路とも重ならないことなどからなかなか行く機会が無く、嶮しい山々が連なる険阻な地形を勝手に想像していたりしたのですが、実際に行ってみると広く豊潤な大地が広がり、那珂川や支流の箒川など、豊かな水にも恵まれており、一見してその生産力の高さ、豊かさを感じることができました。那須氏の出自ははっきりしませんが、豊潤な農業生産に支えられた那須氏の地盤の確かさ、開発領主としての姿のようなもの感じたような、そんな気がしました。神田城も、こうした豊かな平原の一角、箒川に面した段丘上に構えられており、東国武士・開発領主の姿を教えてくれる、そんな場所でもあります。
神田城は「城」というよりも典型的な方形単郭の武士居館で、一部に欠損はありますが周囲の高い土塁がよく残っています。また一部には水堀も残っており、郭内は水田になったり一部宅地になったりしてはいますが、古い時代の城館としては大変よく残っている部類に入るでしょう。土塁の規模は大きく、室町時代中期くらいまでは一族の者の館として用いられていたかもしれません。なにより、那須氏の累代や現代までに至る附近の住民の方などが畏敬の念を持ってこの遺跡に接していたことが、こんにちの良好な保存状態を支えているようにも思います。
[2005.03.12]