多賀谷氏館は大福寺というお寺になっており、周囲はかつての湿地、氾濫原であっただろう低地が広がっている中で、館付近は周囲から1mほど高くなっています。
多賀谷氏はのちに結城氏に仕え、結城合戦で一度は断絶した結城氏の再興に功績があったり、「享徳の大乱」では足利成氏の命により上杉憲忠の屋敷を急襲してその首級を挙げるなど、数々の功績を残します。が、やがて結城氏から離反するようになり、戦国末期には佐竹氏と同盟し、怒涛のごとくその領土を増やしていきます。その原点は、以外につつましやかな館でした。
北条氏の小田原城、成田氏の忍城、簗田氏の関宿城など、武士とお城の結びつきは、時にその氏族の爆発的な発展に大いに寄与するものです。多賀谷氏も関城を経て下妻城に入ったことで、常陸・下総国境地帯を荒らしまわる大領主に発展したわけで、つくづくお城というのは武士にとって「宝」なのだなぁ、そんな風に感じます。
多賀谷氏館は現状では遺構と呼べそうなものは無く、方形の大福寺境内が前述のとおり微高地となっているだけですが、当時の館の雰囲気はよく伝わります。大福寺には天福二(1234)年のものをはじめとした十五基の板石塔婆がありますが、例によって何て書いてあるかはさっぱり分かりませんでした。
「たがやしやかた」って回文みたいだな。今気づきました(笑)