常総の雄、多賀谷氏の故地

多賀谷氏館

たがやしやかた Tagaya-Yakata

別名:

埼玉県北埼玉郡騎西町内田ヶ谷

(大福寺)

城の種別

平城(方形居館)

築城時期

鎌倉時代初期 

築城者

多賀谷氏

主要城主

多賀谷氏

遺構

なし

田の中の微高地、大福寺<<2003年08月03日>>

歴史

多賀谷氏は武蔵七党のひとつ野与党に属し。武蔵国埼玉郡騎西荘多賀谷郷を本拠とした。建久元(1190)年十一月七日、源頼朝は京都に入ったが。その行列の先陣の随兵に多加谷小三郎の名が見え、その後も『吾妻鏡』では暦仁元(1238)年から正嘉二(1258)年にかけて、多賀谷太郎兵衛尉、同兵衛尉、同弥五郎重茂、同弥五郎景茂などが見えるという。

のちに多賀谷左衛門尉家政が結城城主・結城直光の臣となった。嘉吉元(1441)年、前年に勃発した結城合戦で結城城は十ヶ月に渡る攻防の末落城し、結城氏朝・持朝父子をはじめ一族は自刃したが、このとき多賀谷氏家は氏朝の末子・七郎を抱いて結城城を脱出し、佐竹氏に庇護されて、後の結城家再興に功績があった。結城合戦によって関東公方足利氏は一時断絶したが、文安四(1447)年、北関東諸将の要請に応える形で越後守護・上杉房定が斡旋し、足利持氏の末子・永寿王丸を奉じて鎌倉府復興を幕府に願い出て許され、鎌倉公方・足利成氏として復活した。この時結城七郎は結城合戦での一族の功を成氏に認められ、中務大輔成朝の名を与えられ結城氏は再興した。成氏は関東管領の上杉憲忠と対立、宝徳二(1450)年の江ノ島合戦を経て享禄三(1454)年十二月、結城成朝、武田右馬守信長、里見民部少輔義実、印東式部少輔、岩松持国らが鎌倉西御門の上杉憲忠邸を襲撃し、金子(多賀谷)高経が憲忠の首級を挙げたことで「享徳の大乱」が勃発した。この功で多賀谷氏は下妻三十三郷を与えられ、康正元(1455)年には飯沼氏の一族・堀戸氏の関城を奪って居城とした。高経の子家稙は新たに大宝沼の南に下妻城を築いて本拠とした。

多賀谷氏館は大福寺というお寺になっており、周囲はかつての湿地、氾濫原であっただろう低地が広がっている中で、館付近は周囲から1mほど高くなっています。

多賀谷氏はのちに結城氏に仕え、結城合戦で一度は断絶した結城氏の再興に功績があったり、「享徳の大乱」では足利成氏の命により上杉憲忠の屋敷を急襲してその首級を挙げるなど、数々の功績を残します。が、やがて結城氏から離反するようになり、戦国末期には佐竹氏と同盟し、怒涛のごとくその領土を増やしていきます。その原点は、以外につつましやかな館でした。

北条氏の小田原城、成田氏の忍城、簗田氏の関宿城など、武士とお城の結びつきは、時にその氏族の爆発的な発展に大いに寄与するものです。多賀谷氏も関城を経て下妻城に入ったことで、常陸・下総国境地帯を荒らしまわる大領主に発展したわけで、つくづくお城というのは武士にとって「宝」なのだなぁ、そんな風に感じます。

多賀谷氏館は現状では遺構と呼べそうなものは無く、方形の大福寺境内が前述のとおり微高地となっているだけですが、当時の館の雰囲気はよく伝わります。大福寺には天福二(1234)年のものをはじめとした十五基の板石塔婆がありますが、例によって何て書いてあるかはさっぱり分かりませんでした。

「たがやしやかた」って回文みたいだな。今気づきました(笑)

水田に浮かぶ微高地、大福寺境内が館です。堀、土塁などはありませんでした。ここがあの多賀谷氏の故地かぁ。

梵字などが刻まれている板碑群。多賀谷氏との関係はよくわかりません、というか、読めません(汗)。

 

 

交通アクセス

東北自動車道「加須」ICより車15分。

東武伊勢崎線「加須」駅徒歩30分。

周辺地情報

騎西城が最寄りですが遺構は少ない。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)

参考サイト

埼玉の古城址帝國博物学協会 城郭研究部

埋もれた古城 表紙 上へ