依上城については、その名前からいかにも依上保の中核城郭のように思っていましたが、実際に現地に行ってみるととてもそんな大それたものではなく、古臭い館城といった印象程度しか持てませんでした。しかしここは室町中期の一時には間違いなく依上保の支配拠点であった時代がありました。そしてそこには意外な人物が登場します。
南北朝の騒乱を経て、依上保の一部は佐竹氏および一族の山入氏に与えられ、依上城には佐竹支族の北酒出氏が置かれます。がこの北酒出系依上氏は後嗣に恵まれず、山入与義の三男、依上宗義が嗣ぐこととなります。この結果、依上保は山入氏の勢力圏となり、のちに勃発した「山入一揆の乱」においても依上宗義は山入氏の一党として反佐竹宗家・反関東公方の立場に着きます。この山入一揆は「上杉禅秀の乱」において上杉禅秀に味方して関東公方・足利持氏と敵対、一時は降伏するも、再び持氏との関係が悪化し、持氏は山入与義を鎌倉比企ヶ谷の佐竹邸に攻め滅ぼし、依上宗義もまた討たれます。さらに正長元(1428)年には依上氏の所領没収をめぐって残党が依上城で蜂起、持氏は兵を派遣してこれを鎮圧、依上城も廃城となった、とされます。ここまでの依上城の位置づけは一応、山入氏を中心とした勢力にとっては依上保支配の中心拠点であったと見なしても差し支えないと思われます。
そしてこの持氏が派遣した鎮圧軍に注目すべき人物がいました。その名は里見家基、のちに安房から関東有数の戦国大名に発展する安房里見氏の祖・義実の父とされる人物です。里見義実の実在は一級史料からは確認されておらず、半ば伝説の人といった感もありますが、里見家基は関東公方の奉公衆として確実に存在していたようです。通説では家基は永享十一(1439)年に「永享の乱」において戦死したとも、また嘉吉元(1441)年に結城合戦において戦死したともいわれます。そしてその遺児・義実がどういうツテを辿ったかわかりませんが安房の地に渡り、白浜城を拠点として安房の戦乱を瞬く間に統一したと、そう伝えられています。家基がどこに居住していたのか定かではありませんが、里見氏は新田一族であったため南北朝初期には南朝勢力として活動したため一族は所領を失ったりして各地に点在していました。おそらく本貫地の上野国ではなく常陸周辺に所領を持っていた一族なのでしょう。常陸国内には高萩里見氏(龍子山城主)、小原里見氏(小原城主)の系統があり、この依上城攻略後に家基は那珂西郡に所領を賜ったということですから、地理的には小原里見氏の系統であったのかもしれません。家基はこの依上城の戦いにおいて溝井六郎なる人物の忠勤ぶりを持氏に報告したり、陸奥石川荘出身の石川三郎左衛門の恩賞の仲介をしたり、那須氏に従って陸奥入江荘で戦った池澤四郎なる人物の働きを報告したりしています。こうした動きを見ると、家基は持氏から派遣された軍監、目付け役、兼奏者的な役割を負っていたのかもしれません。
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依上城平面図
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しかし依上城そのものは面白いか、と聞かれれば「うむむ・・・」と答えに詰まってしまう程度のお城ではあります。久慈川支流の押川に面した比高20mほどの段丘の上にさらに比高20mほどの小山があり、その小山を中心とした東西150m、南北100mくらいの範囲が城域と思われますが、北側は農地化などのため城域がはっきりしません。遺構としても堀切のような明瞭なものは無く、小山の上に二段程度の削平地と山麓に数段の小曲輪、そして土塁の断片などがある程度です。ただ西側山麓に畑になっている方形の区画(V)があり、土塁が比較的よく残っていますが、ここが実質的に依上城の中枢であったのではないかと思います。
この家基から義実にいたる安房里見氏勃興期の話は不明な点も多く、義実の出自を美濃里見氏とする説もあったりして事実関係は闇のままですが、茨城の山間のこんな小さく古臭いお城が安房里見氏伝説と繋がると思うと、里見ファンの自分としては感慨深いものがあります。こういうのが歴史探訪の面白さだったりするんですよね。
[2006.11.12]
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