安房里見氏へと繋がる歴史の輪

依上城

よりがみじょう Yorigami-Jo

別名:塙館

茨城県久慈郡大子町塙

城の種別

平山城

築城時期

不明(室町中期頃?)

築城者

北酒出(依上)顕義

主要城主

依上氏

遺構

曲輪、土塁

V曲輪の土塁<<2005年02月11日>>

歴史

 

築城時期は明らかではないが、室町時代中期頃に佐竹氏の支族である北酒出氏がこの地を領して依上氏を称した。しかし依上義長の時代に子がなかったことから山入城主・山入与義の三男・宗義を養子として迎えた。

佐竹氏十二代・義盛の後嗣に関東管領山内上杉憲定の次男・龍保丸を養子に迎え入れようとしたところに端を発する山入一揆の乱では依上宗義は終始山入氏に加担したが、応永二十三(1416)年に勃発した上杉禅秀の乱において禅秀に味方して敗れ、関東公方・足利持氏、佐竹義憲に一時降伏した。

持氏と京の室町将軍家との関係が悪化すると山入与義や依上宗義らは「京都御扶持衆」として持氏に与する佐竹氏らの勢力を監視した。持氏は応永二十九(1422)年、鎌倉比企ヶ谷の佐竹邸において鎌倉に出仕していた山入与義を襲撃してこれを自刃させ、依上宗義もまた敗死した。依上保は持氏により没収され、奥州白川結城氏一族の小峰氏に与えられた。永享元(1429)年には依上氏の一族が依上城で挙兵したが、持氏は里見家基らを派遣してこれを攻め滅ぼした。これによって依上城も廃城となった。

依上城については、その名前からいかにも依上保の中核城郭のように思っていましたが、実際に現地に行ってみるととてもそんな大それたものではなく、古臭い館城といった印象程度しか持てませんでした。しかしここは室町中期の一時には間違いなく依上保の支配拠点であった時代がありました。そしてそこには意外な人物が登場します。

南北朝の騒乱を経て、依上保の一部は佐竹氏および一族の山入氏に与えられ、依上城には佐竹支族の北酒出氏が置かれます。がこの北酒出系依上氏は後嗣に恵まれず、山入与義の三男、依上宗義が嗣ぐこととなります。この結果、依上保は山入氏の勢力圏となり、のちに勃発した「山入一揆の乱」においても依上宗義は山入氏の一党として反佐竹宗家・反関東公方の立場に着きます。この山入一揆は「上杉禅秀の乱」において上杉禅秀に味方して関東公方・足利持氏と敵対、一時は降伏するも、再び持氏との関係が悪化し、持氏は山入与義を鎌倉比企ヶ谷の佐竹邸に攻め滅ぼし、依上宗義もまた討たれます。さらに正長元(1428)年には依上氏の所領没収をめぐって残党が依上城で蜂起、持氏は兵を派遣してこれを鎮圧、依上城も廃城となった、とされます。ここまでの依上城の位置づけは一応、山入氏を中心とした勢力にとっては依上保支配の中心拠点であったと見なしても差し支えないと思われます。

そしてこの持氏が派遣した鎮圧軍に注目すべき人物がいました。その名は里見家基、のちに安房から関東有数の戦国大名に発展する安房里見氏の祖・義実の父とされる人物です。里見義実の実在は一級史料からは確認されておらず、半ば伝説の人といった感もありますが、里見家基は関東公方の奉公衆として確実に存在していたようです。通説では家基は永享十一(1439)年に「永享の乱」において戦死したとも、また嘉吉元(1441)年に結城合戦において戦死したともいわれます。そしてその遺児・義実がどういうツテを辿ったかわかりませんが安房の地に渡り、白浜城を拠点として安房の戦乱を瞬く間に統一したと、そう伝えられています。家基がどこに居住していたのか定かではありませんが、里見氏は新田一族であったため南北朝初期には南朝勢力として活動したため一族は所領を失ったりして各地に点在していました。おそらく本貫地の上野国ではなく常陸周辺に所領を持っていた一族なのでしょう。常陸国内には高萩里見氏(龍子山城主)、小原里見氏(小原城主)の系統があり、この依上城攻略後に家基は那珂西郡に所領を賜ったということですから、地理的には小原里見氏の系統であったのかもしれません。家基はこの依上城の戦いにおいて溝井六郎なる人物の忠勤ぶりを持氏に報告したり、陸奥石川荘出身の石川三郎左衛門の恩賞の仲介をしたり、那須氏に従って陸奥入江荘で戦った池澤四郎なる人物の働きを報告したりしています。こうした動きを見ると、家基は持氏から派遣された軍監、目付け役、兼奏者的な役割を負っていたのかもしれません。

依上城平面図

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しかし依上城そのものは面白いか、と聞かれれば「うむむ・・・」と答えに詰まってしまう程度のお城ではあります。久慈川支流の押川に面した比高20mほどの段丘の上にさらに比高20mほどの小山があり、その小山を中心とした東西150m、南北100mくらいの範囲が城域と思われますが、北側は農地化などのため城域がはっきりしません。遺構としても堀切のような明瞭なものは無く、小山の上に二段程度の削平地と山麓に数段の小曲輪、そして土塁の断片などがある程度です。ただ西側山麓に畑になっている方形の区画(V)があり、土塁が比較的よく残っていますが、ここが実質的に依上城の中枢であったのではないかと思います。

この家基から義実にいたる安房里見氏勃興期の話は不明な点も多く、義実の出自を美濃里見氏とする説もあったりして事実関係は闇のままですが、茨城の山間のこんな小さく古臭いお城が安房里見氏伝説と繋がると思うと、里見ファンの自分としては感慨深いものがあります。こういうのが歴史探訪の面白さだったりするんですよね。

[2006.11.12]

押川に面した段丘上に築かれた依上城。城域ははっきりしませんが、いずれにしても小さなお城だったことには違いありません。しかしここに里見氏が来たのかあ。 北側の農地から城内へ向かう道沿いには土塁の断片が見られます。が、往時の縄張りがどんなだったかというとハッキリわかりません。
北側の切岸下の池。水堀の名残でしょうか?この日は気温が低い上に日陰だったので池はすっかり凍っています。 城内主要部は堀切すらありませんが、切岸の高さと急峻さはここがお城であることを主張しているかのようです。
U曲輪、といってもヤブです。なんとなくこの辺ですでにこのお城のポテンシャルの限界が見えてきたような気が・・・。 主郭には小さな祠があり、辛うじて道はついていますがその他はやはりヤブ。依上保の中心という割にはあまりに侘しいお城ではあります。
トラックの荷台のような縄張りのV曲輪は周囲の土塁が良く残ります。ここが平素の居館であり中核部だったのかもしれません。 V曲輪西側のこの道路あたりが堀ってことになるんでしょうか。痕跡はほとんど無いなあ・・・。

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「日立南太田」IC車60分。

周辺地情報

少々きつい山ですが月居城が近隣の代表的な山城。大子城などという場所もありますがオススメはしかねます。

関連サイト

 

 
参考文献

「常陸太田市史」

「大子町史」

「佐竹氏関連城館」(常陸太田市史編さん委員会)

「さとみ物語」(館山市立博物館)

「すべてわかる戦国大名里見氏の歴史」( 川名登 編/図書刊行会)

参考サイト

余湖くんのホームページ 

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