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雄大な富士の姿を見晴らす主郭。広い曲輪ですが、削平が半端で結構傾斜したり起伏があったりします。普通の居住目的の城じゃないのでこの辺はあまり細かいことを気にしていないのでしょうか? |
主郭の片隅にある玉手池。「雨乞い池」「底知らずの池」などとも言われているそうです。「池の底が小田原に通じている」などという言い伝えもあるそうです。 |
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主郭と二郭を断ち切る堀切。足柄城には5つの大きな曲輪と2つの出丸があり(現在確認されている範囲で、ということだが)、それぞれが堀切で断ち切られています。整備はされていますが写真のような植え込みが逆に見学の邪魔をしてます。贅沢か? |
二郭と三郭の間の堀と三郭。足柄城の堀には土橋は無く、虎口の位置や形状もはっきりしません。公園化の際に整地されてしまったのか、もともと木橋で繋がれた簡便な虎口だったのか・・・ |
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三郭と四郭の間の堀底にある井戸跡。完全に埋まっていて、この木組みがなければ100%気付かないでしょう。 |
同じく三郭と四郭の間にわずかに顔を出す石組みらしきもの。「城郭大系」によれば、足柄城にはかなりの規模で石垣が使われていたとのこと。これがその残欠なのでしょうか? |
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五郭の外側の長大な堀。ここは足柄道が貫通していた堀底道だったらしいです。ただ車道の整備の際に地形が変わってしまったためか、古道のレイアウトがよく分りません。 |
小山町方面へやや下ったところにある「六地蔵」の背後に見つけた竪堀らしきもの。自然の崩落かと思いましたが、整った折れを持っていることから外郭の堀のひとつと判断しました。 |
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これは六地蔵の前の車道向かいの林の中、斜面に面して土塁らしきものが見られます。ただ、車道整備の際にだいぶ地形も変えられているようなので、断定はできません。 |
三郭の北東の尾根筋にある蔵屋敷。小さな曲輪と大きな堀切があります。 |
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こちらは峠を南足柄市方面にやや降りたところ、明神郭そばの足柄古道。堀切の底が古道になっているようです。 |
足柄明神(足柄神社)跡。この明神跡付近も出丸として使われていました。 |
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足柄峠のバス停付近にある「足柄関跡」。昌泰二(899)年に太政官府によってはじめて関が置かれましたが、鎌倉期の承久三(1221)年頃には「有もやしけん跡だにもなし」と詠まれるほど跡形もなかったようです。 |
こちらは「足柄の山笛の調べ」の碑。後三年の役に出陣する新羅三郎義光は豊原時秋に「戦場に赴く上は生死の程も計り難し。我死なば先師の志をも空しくする」と、秘伝の曲を伝授したと言う。 |