「もう一つの箱根の坂」足柄峠を守る

足柄城

あしがらじょう Ashigara-Jo

別名:

神奈川県南足柄市矢倉沢〜

静岡県駿東郡小山町竹之下

城の種別

山城(尾根城)

築城時期

不明(天文六・1537年頃?) 

築城者

不明(北条氏綱?)

主要城主

北条氏

遺構

曲輪、堀切、土塁、井戸跡、池跡、石積み

主郭に建つ石碑と雄大な富士山の姿<<2002年04月29日>>

歴史

昌泰二(899)年、坂東に群盗が横行し、貢納物もたびたび強奪されたため、太政官府が「足柄の関」を設けた。その効果は著しく群盗は一年足らずで鎮圧され、翌年には関も廃された。その後平安期は緊急時に足柄の旧関が度々利用されたらしい。しかし鎌倉期にはすでに関跡も定かではなく、承久三(1221)年に没した飛鳥井雅光の「足柄の関を読める歌」には「足柄の山の関守古は有もやしけん跡だにもなし」と詠われており、防塁等があった形跡はなかった。永保三(1083)年に奥州の豪族清原氏の内紛朝廷のため奥州に下向した陸奥守源義家が苦戦した際に、弟の新羅三郎(源)義光が援軍を派遣(後三年の役)した際に、義光は箱根の関に着陣している。

足柄城が築かれた時期は正確には不明だが、天文二十四(弘治元・1555)年、北条氏康が三田郷(厚木市)百姓に足柄城の普請の人足を出すよう命じた文書がある。しかしこの前年の天文二十三(1554)年三月、北条氏康・武田信玄・今川義元は「甲相駿三国同盟」を成立させており、この時期の新規築城は外交上憚られることであり、この文書は従来から存在した城の修復を命じたものと捉えられている。築城の時期としては天文六(1537)年二月、今川義元が武田信虎と縁戚を結んだことに怒った北条氏綱が箱根を越えて河東一帯に出陣し、今川氏と争った「河東一乱」の後と考えられている。

永禄十一(1568)年に甲相駿三国同盟が破綻すると、駿河深沢城をめぐって北条氏と武田氏が攻防を繰り広げ、足柄城は永禄十二(1569)年から元亀二(1571)年にかけて「石切衆十人」をはじめとした人足が集められ大規模な改修を受けた。深沢城は元亀二(1571)年に武田氏により攻略され、守将の北条左衛門大夫綱成は足柄城に後退して在番した。

天正十(1582)年頃には足柄城の出入りが厳しく制限され、全面的な通行禁止の状態にあったことが「足柄当番之事」に見える。天正十五(1587)年には北条氏光が城番に任ぜられ豊臣秀吉の東征に備え再度大規模な改修が行われた。豊臣氏と北条氏の開戦直前の天正十八(1590)年三月、佐野城(唐沢山城)主の北条氏忠が足軽百名ほか鉄砲・弓・鑓隊を率いて入城したが、四月一日、山中越えの街道を守備する山中城が陥落すると氏忠は小田原城に退却し、依田大膳亮が守備していたが、徳川家康の将、井伊兵部少輔直政の一隊によって攻撃され、十数名とも二十六名とも言われる雑兵を討たれ、開城・退却し廃城となった。

山中城、韮山城と並んで、箱根の坂を守る重要な城でした。この足柄峠(標高759m)になんらかの柵・関所が設けられたのは非常に古く、交通を取り締まる要地でしたが、戦国期には「山中越え」ルートがメインになり、この「足柄越え」ルートはその間道として使われていたようです。

足柄城が北条氏に取り立てられた時期は正確には不明ですが、おそらく駿河今川氏との関係が悪化した天文年間、北条氏綱の時代に原型が築かれたものと推測されています。その後は氏康、氏政によって順次増強され、現在見える規模になったのは天正十八(1590)年の小田原の役直前だと思われます。街道をレイアウトに取り込んだ、北条氏の典型的な番城です。いわゆる「居住」や「長期籠城戦」を意識したものではないため、一般的な山城に見られる「根古屋と要害」のような関係は持ちません。周囲の尾根も支城(というより砦)として取り込んだ、純軍事的な要塞と言えるでしょう。発掘調査などの結果によれば、相当な規模で石垣が使われていたらしいことも判明しているようです。「日本城郭大系」には「・・ここまでが現在確認されている遺構の範囲である・・・」というような記述があり、実は未調査区域や周辺の出城・砦を含めれば、相当な規模にわたって遺構が散在するらしいことが推測できます。実際今回の見学では、「日本城郭大系」の概念図に含まれない範囲でも土塁や櫓台らしきもの、竪堀らしきものを見てきました。現在は足柄越えの道路が建設されているため、多少地形が変わってはいますが、根気強く調査すればまだまだ色々な遺構が見つかる可能性が高いわけです。

肝心な天正十八(1590)年の戦いでは、井伊直政率いる山中城攻め別働隊の攻撃を受けてあっという間に落城、というより将兵そろって小田原城へ退去します。この箱根の坂を守りきれなかったことが北条氏の誤算であり、命運を決定したとも言えるでしょう。

もう一つの見所はなんといっても「富士山」。この足柄城は「富士山愛好家」の間では有名なスポットらしく、遮るものもない雄大な姿と、なだらかに拡がる山裾の台地(その名もズバリ「裾野市」)を一望のもとに見ることができます。きっと在番の将兵の無聊を慰めてくれたことでしょう。

多少気にしておいた方がいいのが交通と天気。駿河小山駅からバスがありますが本数は多くありません。車でも行けますが、かなりの急勾配と狭いカーブが連続しますので、わかばマークのひとには少々つらいかも。また、一般に山城散策に最も適しているといわれる冬季は、きっと眺望は最高でしょうが、道路の凍結の危険性も考える必要があります。秋から春にかけては、タイヤの滑り止めナシで行くのは自殺行為。夏でも見られるくらいきちんと整備されているので、冬場は避けたほうが安全かもしれません(たぶん半端じゃなく寒いはずだし)。

早朝の足柄峠の遠景。正直言って、どれが足柄城なのか、わからないです(笑)。 足柄峠へ向かう車道の脇には、足柄越えの古道があちこちで交差します。時間と体力に余裕がある方はぜひ歩いてみてください。

足柄城のちょっと手前、見晴らしのいい尾根には小奇麗な公園(足柄万葉公園)があります。ここは足柄城の支城である「通り尾砦」跡ですが、見た限り城郭遺構らしきものはありませんでした。

足柄峠越えの車道が走る主郭と南曲輪の間の堀切。木橋が復原されています。この横の階段を上るといきなり主郭です。

雄大な富士の姿を見晴らす主郭。広い曲輪ですが、削平が半端で結構傾斜したり起伏があったりします。普通の居住目的の城じゃないのでこの辺はあまり細かいことを気にしていないのでしょうか? 主郭の片隅にある玉手池。「雨乞い池」「底知らずの池」などとも言われているそうです。「池の底が小田原に通じている」などという言い伝えもあるそうです。
主郭と二郭を断ち切る堀切。足柄城には5つの大きな曲輪と2つの出丸があり(現在確認されている範囲で、ということだが)、それぞれが堀切で断ち切られています。整備はされていますが写真のような植え込みが逆に見学の邪魔をしてます。贅沢か? 二郭と三郭の間の堀と三郭。足柄城の堀には土橋は無く、虎口の位置や形状もはっきりしません。公園化の際に整地されてしまったのか、もともと木橋で繋がれた簡便な虎口だったのか・・・
三郭と四郭の間の堀底にある井戸跡。完全に埋まっていて、この木組みがなければ100%気付かないでしょう。 同じく三郭と四郭の間にわずかに顔を出す石組みらしきもの。「城郭大系」によれば、足柄城にはかなりの規模で石垣が使われていたとのこと。これがその残欠なのでしょうか?
五郭の外側の長大な堀。ここは足柄道が貫通していた堀底道だったらしいです。ただ車道の整備の際に地形が変わってしまったためか、古道のレイアウトがよく分りません。 小山町方面へやや下ったところにある「六地蔵」の背後に見つけた竪堀らしきもの。自然の崩落かと思いましたが、整った折れを持っていることから外郭の堀のひとつと判断しました。
これは六地蔵の前の車道向かいの林の中、斜面に面して土塁らしきものが見られます。ただ、車道整備の際にだいぶ地形も変えられているようなので、断定はできません。 三郭の北東の尾根筋にある蔵屋敷。小さな曲輪と大きな堀切があります。
こちらは峠を南足柄市方面にやや降りたところ、明神郭そばの足柄古道。堀切の底が古道になっているようです。 足柄明神(足柄神社)跡。この明神跡付近も出丸として使われていました。
足柄峠のバス停付近にある「足柄関跡」。昌泰二(899)年に太政官府によってはじめて関が置かれましたが、鎌倉期の承久三(1221)年頃には「有もやしけん跡だにもなし」と詠まれるほど跡形もなかったようです。 こちらは「足柄の山笛の調べ」の碑。後三年の役に出陣する新羅三郎義光は豊原時秋に「戦場に赴く上は生死の程も計り難し。我死なば先師の志をも空しくする」と、秘伝の曲を伝授したと言う。

それにしても、ここに在番した将兵は冬は辛かったでしょうね。その辛苦をお察しします。

富士山が見たいなら、空気のきれいな早朝をオススメします(ちなみに僕は6:00から見学)。雨や霧では富士山は見えません(当たり前か)。事前に天気予報もチェック、ですね。時間と体力に余裕があって少々物好きな方は麓から歩いてみるのも一興かも(俺にはできない)。

 

交通アクセス

東名高速道路「大井松田」ICまたは「御殿場」IC車30分。

JR御殿場線「駿河小山」駅よりバス、または徒歩120分。

周辺地情報

神奈川県側では河村城。静岡県側では深沢城葛山城などがオススメ。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)、現地解説板

参考サイト

北条五代の部屋

埋もれた古城 表紙 上へ