名を高松の苔に残して

備中高松城

びっちゅうたかまつじょう Bicchuu-Takamatsu-Jo

別名:

岡山県岡山市高松

城の種別

平城(沼城)

築城時期

天正年間初期(1573年頃)

築城者

石川氏

主要城主

石川氏、清水氏

遺構

曲輪、蓮沼、水攻め築堤跡 等

高松城本丸と蓮沼<<2001/04/22>>

歴史

毛利氏に所属していた備中松山城の三村氏が、備前の宇喜多直家に備えて国人領主の石川氏に築城させた「境目七城」のひとつ。その後宇喜多氏が毛利氏に着き、毛利から宇喜多への和解を命じられると、三村家親は毛利に叛旗を翻し織田に内通したため毛利氏の攻撃を受け、天正三(1575)年、三村氏、石川氏は滅びた。石川氏の滅亡後は毛利氏により清水宗治が城将として置かれた。

天正十(1582)年五月、羽柴秀吉率いる三万の軍勢が高松城を囲んだが、深い泥田に囲まれた要害地形に悩まされ攻めあぐんだ末。水攻めの秘策となった。折りしも梅雨時期、秀吉は2.6kmにも及ぶ堤を10日間で完成させ、足守川の堰を切った。高松城周囲は2mもの水深の湖水の中で、城兵5000名が孤立した。小早川隆景、吉川元春らの援軍も手出しができず、安国寺恵瓊を使僧に講和交渉を行っていたが、六月三日、前日に勃発した「本能寺の変」の報が秀吉に届く。秀吉は毛利勢に変の模様が漏れないように情報管制を敷き、安国寺恵瓊に対しては領土割譲の条件を緩和し、城将・清水宗治の切腹を条件に講和を迫った。清水宗治はこれを受諾、翌朝、城から小舟で湖上にこぎ進み、城兵5000名に代わり切腹し果てた。一方の秀吉はすぐさま軍をまとめ、変の発生した上方へ転進、驚異的な速度で京に迫り、淀川沿いの天王山の麓、山崎で明智光秀軍と遭遇し大勝、その後は一気に天下統一への道を登りつめた。

長い梅雨も明け、夏の陽光が青い湖水に輝いている。蝉時雨の中、ときおり木々の間を吹き抜ける風が、林立する万余の旌旗を揺らしている。対峙する毛利の軍勢三万、秀吉率いる織田の軍勢三万が息を止めて見守る中、一艘の小舟が、なかば水没しかかった城から湖面に滑り出てくる。舟には、白装束に身を包む長身の城将・清水長左衛門宗治、その兄月清、毛利の軍監・末近左兵衛門らの姿。やがて舟は検死役の堀尾茂助の舟と湖上で落ち合う。

「ご約定に相違いなく御出での儀、忝く存ずる。長きに渡る籠城のご辛苦、ご推察申し上げる。主人、羽柴筑前守よりささやかながらの酒肴がござれば、お受け取り願い申す。」

「これは忝き御振舞い、痛み入る。筑前守どのにはよしなにお伝え願いたい」

蛙ヶ鼻の本陣に構える秀吉から送られた酒肴で別れの盃を交わす宗治主従。宗治は舟の上に立ち上がり、曲舞「誓願寺」を舞う。舞い終わるや、まず兄の月清が、続いて宗治が、毛利よりの援軍三万と、秀吉率いる織田軍三万がしわぶきひとつなく見守る中、軽く三方に会釈をし、おもむろに前をはだけるや、脇差でその腹を深く突き、真一文字に掻き切った。「丁」の掛け声とともに介錯の刃が振り下ろされるや、宗治の頚はその皮一枚を残して、両腕に抱きかかえられるように前に転がり落ちた。その後を追って軍監の末近左兵衛門、郎党の田村七郎次郎、船頭役を買って出た難波伝兵衛ら、家臣たちが自刃する。蛙ヶ鼻本陣の秀吉は、溢れる涙を拭おうともしない。しかし、この華やかで美しく、荘厳な死の演出の幕が下りるや、秀吉はもはや天下に向かって、その馬を返していた。

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世にも名高い秀吉の水攻めと、本能寺の変の後の「中国大返し」で超有名な場所です。いわば、天下獲りに走り出した秀吉の「頭脳」を披露するための舞台だったといえます。

そんな中、主家・毛利氏に最後まで忠誠を尽くし、城兵5000名に代わり自刃した清水長左衛門宗治の生き方に、僕は武士の鑑を見る思いがします。あの日、梅雨明けの晴れ渡った空の下で舟を浮かべ、白装束で曲舞「誓願寺」を舞い、

浮世をば 今こそ渡れ 武士の

       名を高松の 苔に残して

の辞世を残し散っていった宗治。その死に様は、史上最も華やか、かつ、荘厳、厳粛なものであったことでしょう。「武士道は死ぬことと見つけたり」というのは江戸期に入ってからの武士道で、この当時はまだ寝返り・謀叛も軍略のうちだった時代。その時代にあくまでも武士としての意地と忠誠を捨てず、自らの死に様を最大限に演出した宗治という男に、限りない敬愛を感じずにはいられません。

宗治自刃の地に立ったとき、思わず目頭が熱くなりました。毛利と羽柴の旗が風に揺れる中、両軍合わせて8万人の将兵が息を止めて船上の宗治を見つめる、そんな幻が今にも見えそうな気がしました。清水宗治、享年四十七歳。

城兵の命に代えて死んでいった義将・宗治の墓所。近くには殉死した家臣が刺し違えて果てたと言う「ごうやぶ」もある。 宗治を慕う家臣が主君の後を追って自刃したという「ごうやぶ」から、背後の蛙ヶ鼻の秀吉本陣を見る。

蓮の池に囲まれた本丸。わずかに周囲よりも高いだけの超低地。深田と湿地に囲まれた要害でしたが、それが逆に命取りになってしまいました。

昭和五十七年に復元された沼。すると、なんと土中に眠っていた蓮が再び芽を吹き自生したという。400年の年月を掛けて蘇った「宗治蓮」。

秀吉が本陣を置いた蛙ヶ鼻方面。この岬状に突き出した台地先端から、水攻めの築堤がつくられた。 わずかに残る、蛙ヶ鼻の築堤跡。堤の中に足守川の水を引き入れると、見る見る城は水没していきました。
本丸にひっそりと残る、清水宗治の首塚。 こちらは住宅地の中に残る胴塚。宗治の介錯をした高市之允は、宗治の胴を納めたその穴に、自らの首を掻き切って落ちていったという。
今はもう、戦いの記憶などすっかり忘れたような、のどかな本丸の景色。 舟橋跡。64mもの長さに渡って、深田のなかに舟橋を架けて出撃路とした。

 

交通アクセス

岡山自動車道「岡山総社」IC車15分

JR吉備線「備中高松」駅徒歩20分

周辺地情報

 

関連サイト

 

 

参考文献

「羽柴秀吉 怒涛の天下取り」(学研「歴史シリーズ」)、「歴史と旅 1987.02月号」(秋田書店)、「歴史と旅 1993.05月号」(秋田書店)、小説「滅びの将」(羽山信樹)、現地解説板、現地パンフレットおよび現地ボランティアガイド情報

参考サイト

 

 

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