姫路城をめぐるエピソード 名城には様々なエピソードがつきものです。ここでは姫路城をめぐる、虚実織り交ぜた、様々なエピソードを紹介します。 |
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【姫路城と秀吉】 姫路城はもともと赤松氏の城代、小寺氏の居城であった。そして小寺氏が御着城に移った後、姫路城を任されたのは黒田職隆であった。この職隆の子が孝高、「黒田官兵衛」である。この姫路城は、のちに天下人となった羽柴秀吉と官兵衛を結びつけた、運命の城となった。 秀吉は当時、織田信長軍団の中国方面軍を任されていた。秀吉は山陰、山陽の土豪たちに誘降を呼びかけ、来るべき毛利との決戦に備えた。このときに、小寺則職をはじめ、二大勢力の狭間に立った土豪たちは帰趨に迷い、揺れに揺れた。小寺則職は優柔不断で、結局毛利に味方して滅んでしまう。しかし、官兵衛は早くから優柔不断な主家を差し置いて、秀吉と接触をしていた。そしてこの姫路城を惜しげもなく秀吉に献上してしまうのである。結果的に秀吉は天下人に登りつめるのだから、官兵衛の慧眼ぶりは相当なものである。秀吉はここに三層の天守をあげ、第二の居城とした。当時の秀吉の居城は近江長浜城である。姫路城の大修築にあたっては、当然、信長のお墨付きを貰っての事であろう。 その信長が本能寺で横死したとき、秀吉は備中高松城の陣にいた。「信長死す」の報を受けた秀吉は、官兵衛の献策もあって早々に毛利軍との和議をまとめ、雨でぬかるみと化した山陽道をひたすら走った。「中国大返し」である。そして姫路城に入った秀吉はまず風呂に入り、愛妾たちとひとときを過ごした後、城内にあった金八百枚、銀七百五十貫、米八万五千俵をすべて、全軍士卒に分配したという。これから迎える明智光秀との決戦に備えて士気を鼓舞する意味もあっただろう。それ以上に、秀吉にとってはもう、この姫路城に帰ってくるつもりがなかったのであろう。なぜならば、ここで光秀を破れば実質的に天下人になり、もはや姫路に戻ってくる必要もない。万一敗れた場合は、戦場に屍をさらすのみで、これまた姫路に帰ることもない。つまり、この秀吉の行動は、何よりも自分に対する「背水の陣」の意思を固めるための行動であっただろう。 ちなみに黒田官兵衛はその智謀を評価されつつも、天下人となった秀吉からは遠ざけられ、大封を与えられることもなかった。秀吉が官兵衛の智謀を心底恐れていたからだろう。 【播州皿屋敷】 ときに十六世紀の初頭、姫路城主・小寺則職の家宰・青山鉄山はお家乗っ取りを画策した。これに対して、忠臣の衣笠靭負は、逆心一味の情報を掴もうと、妾のお菊を女中として鉄山の屋敷に潜り込ませた。お菊は花見の宴での主君毒殺の陰謀を聞き出した。則職は危機一髪、播磨灘の家島に逃れたが、姫路城は鉄山に占拠されてしまった。
お菊は何食わぬ顔で密偵を続けたが、鉄山の家臣・町坪弾四郎は怪しみつつも、お菊に恋心を抱いてしまう。しかしお菊は相手にしない。弾四郎は家宝の十枚の皿の一枚をわざと隠し、お菊を木に縛り付けて、自分になびかぬ腹いせに「皿はどうした、自分になびけば許しもしよう」と青竹で打ち責めにした。それでも「ウン」といわないお菊を、弾四郎は古井戸の上に吊るして、とうとう斬り捨て、そのまま遺骸を井戸に落とした。 それ以来、夜毎に「一枚、二枚・・・」と皿を数えるお菊の幽霊が現れ、九枚を数えるとその声はすすり泣きに変わった。その気味悪さに、剛の者まで縮み上がるという。やがて則職は鉄山を討って姫路城に返り咲いた。無残なお菊の死を則職は憐み、十二所神社の境内にお菊の祠を祭ったという。 お菊が放り込まれたという井戸は、姫路城内の「上山里」に残っている。
【宮本武蔵、妖怪を退治する】 各方面で話題を振りまいている「宮本武蔵」だが、ここ姫路城にも「武蔵伝説」がある。木下家定が城主のころ、武蔵は名を伏せて足軽奉公していた。このころ、天守に夜毎妖怪が出るといううわさが立ち、誰も宿直をしたがらなかったとき、武蔵は平気で勤めをこなしていたため、高名な武芸者であることが知られて妖怪退治を命じられた。武蔵が天守に登り、三階の階段に差し掛かると、突然猛烈な炎が吹き降りて、ガラガラと地震のような音がした。「さては妖怪め」と太刀を構えて伺ったが、もとの静けさに戻って何の異変もない。四階へ登りかけると、再び火炎と物音に包まれたが、武蔵は構わず天守最上階で朝までひと眠りした。このとき、十二単の美しい姫が現れ、「われは当城の守護神、刑部明神であるぞ。その方、今宵参りしため、妖怪は恐れをなして退散したり。褒美にこの宝剣をとらす」と言って姿を消した。この宝物は城内に収められていたもので、武蔵に盗みの嫌疑がかかり、調べがつくまで家老の雨森縫之助に身分があずけられたという。時代考証を考えれば矛盾だらけであり、単なる伝承であることは言うまでもないが、武蔵ならではのエピソードかもしれない。 【「西国将軍」池田輝政】 池田輝政は信長の乳母の子、池田恒興の次男坊である。父・勝入斎恒興と兄・元助は「小牧・長久手の合戦」で徳川家康と戦い戦死した。輝政にとって家康はいわば「父のかたき」であるわけだが、秀吉の命によって、家康の娘・督姫を妻に迎え入れることになった。こうして家康の縁戚となった輝政は、秀吉の死後勃発した「関ヶ原の役」でも家康に味方し、岐阜城攻略や関ヶ原本戦での軍功により播磨五十二万石、輝政の次男忠継には備前二十八万石、三男忠雄には淡路六万石、これに新たに検地で打ち出した分を加え、計九十二万石が与えられた。輝政は、家康に見込まれて西国大名への「押さえ」としてこの姫路城に配置されたのである。
あるとき、家康と輝政は義理の父子のよもやま話をしていた。ふと輝政が「我が父を討ち取りしものは」と家康に尋ねた。家康は恒興を討ち取った永井直勝を呼びつけたが、その知行が五千石であることを知ると、涙を流して「我が父の首は五千石か・・・」とつぶやいた。家康は即座に永井直勝を加増した。輝政は直勝を一夜鄭重にもてなし、父の最期の姿を聞いたという。 輝政が姫山に築城を決めたとき、重臣の多くは「この地は近傍に山があって要害がよろしくない。別の場所に築城すべし」と意見した。これを輝政は笑い飛ばして「この城に籠城するなどと小さなことを考えてはいかん。いくさは大地に討って出て、勝利するものぞ」と言ったという。 またあるとき、督姫付の老女が「ご当家の栄えは督姫のお輿入による徳川家のご威光の賜物でしょう」と言った。これに対して輝政は烈火のごとく怒り、「そうではない。ひとえにこの輝政の軍功によるものである」と叱り飛ばしたという。 輝政はのちに、徳川家と豊臣家の緊張を反映して、丹波笹山城の築城などで家康から普請奉行を任された。外様を徹底的に警戒した家康にとって、輝政もまた娘婿とはいえ外様である。その輝政に対する篤い信頼は、三河出身の質朴な武士であった家康が、こうした輝政の剛毅さを愛したからかもしれない。
【薄幸の貴婦人、千姫】 二代将軍・徳川秀忠の娘、千姫ははじめ、わずか七歳で豊臣秀頼に嫁いだ。しかし、豊臣家は「大坂の陣」で滅び、千姫は夫を失って、燃える大坂城から命からがら脱出した。この脱出行で功績のあった坂崎出羽守は、のちに千姫を略奪しようとして、それを咎める家臣たちに殺された。千姫は、猛将・本多忠勝の孫に当たる、本多忠刻のもとに再婚し、姫路城西の丸に入った。このとき、忠刻は十五万石の身上であったが、幕府より「化粧料」として十万石という途方もない大封が与えられた。千姫は城下の男山天満宮に祀った亡夫・秀頼への弔いを欠かさなかったという。それでも千姫は夫・忠刻と幸せなときを過ごし、勝姫、幸千代の二児をもうけたが、早世、夫の忠刻も寛永三(1626)年に死去した。千姫は江戸城竹橋御門わきの御殿に移り、落飾して天寿院と称し、七十歳で没したという。姫路城在城は十年ほどであった。
【傾いた天守】
池田輝政が心血を注いだ姫路城の天守が完成したとき、大工の棟梁、源兵衛もまた晴れ晴れとした表情で妻を呼んで、その心血を注いだ天守を自慢げに見せた。 「どうだ、おれの一世一代の大仕事だ」すると妻は「お城は立派ですが、残念なことに少し傾いていますね」といった。驚いた源兵衛はあらためて天守を凝視し、そして愕然とした。「素人の、女の目にもわかるほど傾いているのは、おれの墨入れが間違っていたに違いない−」。そう思うや、源兵衛は天守に駆け上がり、口に八分ノミをくわえて天守からまっ逆さまに飛び降りたという。 実際には、天守は地山だけでは面積が足りず、盛り土をつき固めた上に造営されているが、このときの土固めが不十分であったため、築城後八十年ごろから傾きだしたといわれる。「東に傾く姫路の城は 花のお江戸が恋しいか」と俗謡にも謳われた。昭和十五年と十七年に行われた調査によって、姫路城の大天守は東南へ42.42cm傾いていることが明らかとなった。その後の改修工事で傾きは修正され、現在は傾いていない。 【傾城の女、高尾太夫】 享保十七(1732)年、榊原政岑(まさみね)は十九歳で本家を嗣いで姫路城主となった。正室が早世したこともあり、政岑は遊び好きの尾張徳川宗春とともに、江戸新吉原を闊歩した。ときの将軍・吉宗は倹約令を発布していたが、このふたりには届かなかったようである。新吉原の三浦屋に入り浸り、高尾太夫に溺れた。 政岑は高尾太夫を三千両で愛妾として身請けした上、新吉原の遊女を総揚げにしてドンチャン騒ぎを繰り返した。参勤交代の列は麗々しく、家臣たちの諌めもきかずに有馬温泉でも豪遊したという。 さすがに幕府もこうした政岑の無道さに耐えかね、政岑を強引に隠居させ、側室の子・熊千代に家を嗣がせて姫路城を召し上げた。 それでもめげない政岑は高尾と二人で江戸神田明神の祭りを再現し、浴衣踊りに見送られつつ姫路を去ったという。転封先は越後高田城で、高尾もこれに従ったが、豪遊がこたえたか、政岑は二年後に死んだという。 高尾太夫、まさに「傾城の女」である。しかし、政岑の太く短い人生もある意味、見事である。シガラミにがんじがらめの現代人(ソレガシのことである)には少し、ウラヤマシイ気がしないでもない。 【姫路城危機一髪】 城というのは維持管理にカネのかかるシロモノである。明治の廃藩置県の後、多くの城郭はカネ食い虫として放置され、やがて解体されて風呂の薪材などになってしまった。姫路城も例に漏れず、明治十年の公入札で二十三円五十銭で落札され、やがて解体される運命にあった。しかし、当時陸軍省第四局長代理であった中村重遠大佐は姫路城の文化遺産としての価値を惜しみ、各方面に保存を訴えた。その結果、明治四十三年に国費九万三千円で天守の軸部補強、屋根周りの修繕が認められ、保存への道が開かれた。姫路の市街地は大戦中、激しい空爆にさらされたが、姫路城には奇跡的に被弾もせず、延焼もしなかった。現在はユネスコの「世界遺産」に登録されている姫路城も、危機に瀕していたのである。「菱の門」には、中村大佐の偉業を称える石碑が建っている。 【プロジェクトX】 姫路城の大修築は、戦前の昭和十年からはじめられた。前年、姫路地方を襲った集中豪雨のため、西の丸「タの櫓」から「ヲの櫓」にかけての石垣が崩れ、建物もろとも内堀に崩れ落ちたのを受けて、のことである。なんとも痛ましい話だが、このときも姫路城は一部損壊だけで済んだのは幸運であったかもしれない。
しかし、第二次世界大戦の勃発と戦後の混乱によって姫路城の修理はいったん頓挫し、昭和二十五年を迎えた。この年、法隆寺の修理工事と前後して「第一次六カ年計画」がスタートし、櫓八棟、門七棟、土塀十三箇所、石垣三箇所が工事され、総工費は一億円となった。 そして昭和三十一年四月、「第二次八カ年計画」が始まった。これは本丸を中心とした大天守、三棟の小天守、イ、ロ、ハ、ニの渡櫓、台所櫓など、総工費五億五千万円をかけた大規模な解体修理プロジェクトであった。しかし、天守は予想以上に傷みが激しく、とくに七千五百トンの天守を支える二本の心柱は中心が腐り、交換が必要であった。しかし、この心柱は直径が根元で1.3m、長さ25mのまっすぐなヒノキ材でなければならない。樹齢で言えば七百年以上のものである。工事事務所主任の加藤得二氏は、冬の木曾山地をはじめ、全国の山々を探し回った。地元の神崎郡市川町の笠形神社のご神木の提供の申し出があったが、わずかに曲がっていたため使い物にならなかった。やっとの思いで木曾の国有林でみつけたヒノキは、運搬の途中でトロッコから転落し、真ん中からポッキリ折れてしまった。しかし、このとき棟梁の申し出で、「継ぎ木」を実施することにした。木曾のヒノキと、笠形神社から寄進されたヒノキは、姫路市民の熱い歓迎の中、姫路城解体修理現場に引き上げられた。このヒノキ材は、現在は西の心柱として、姫路城を支え続けている。 |
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