関東出陣への最初の夜を過ごす

直峰城

のうみねじょう Noumine-Jo

別名:

新潟県上越市安塚区安塚〜松崎

 

城の種別 山城

築城時期

不明(南北朝時代頃?)

築城者

風間氏

主要城主

風間氏、上杉氏、樋口氏、堀氏

遺構

曲輪、土塁、堀切、竪堀、軍道遺構ほか

中腹を通る上杉軍道<<2005年10月09日>>

歴史

築城年代は諸説あって明らかではないが、南北朝時代に風間信濃守信昭が直峰城を根拠地に活躍しており、この頃に築城されたと考えられている。

正慶二(元弘三・1333)年、鎌倉幕府討滅に功のあった新田義貞が越後守に任ぜられると、風間信濃守もその麾下に入った。建武政権が崩壊し、足利尊氏ら北朝と後醍醐天皇らの中心とした南朝が争うようになると、風間信濃守は新田義貞の配下として南朝に与し、建武四(延元二・1337)年、風間氏、池氏らは北朝に与していた信濃の高梨経頼と水科・水吉で戦ったが敗れた。翌年、風間信濃守は越前に陣を張る新田義貞の元へ向かったが、義貞が戦死したため、南朝軍は壊滅的な打撃を受けた。風間信濃守は文和元(正平七・1352)年八月、尊氏方に寝返った池氏らと蔵王堂城で戦い、大面荘にこれを追撃した。また直峰城を守る風間長頼は文和四(1355)年三月、上杉憲顕の子、憲将と宇佐美一族が立て籠もる顕法寺城を攻撃して上杉一族を撃退しているが、その後風間氏は滅亡したらしく、貞治元(正平十二・1362)年十一月二日の将軍足利義詮判物では、風間入道一跡を大友氏時に与えている。この頃から直峰城は越後守護となった上杉氏の支配下に組み込まれた。

永正四(1507)年八月二日、守護代・長尾為景は守護・上杉房能と対立して府中の守護館を急襲、房能は関東に逃れる途上に直峰城に立ち寄ったが為景軍の追撃を受けて松之山に逃れ、八月七日に天水越で自刃した。以後、直峰城には長尾為景の配下の武将が入ったと考えられる。

天文二十一(1552)年には北条氏康に上野平井城を追われた関東管領・上杉憲政が春日山城の長尾景虎(のちの上杉謙信)に援助を請い、景虎は平子氏らを関東へ派遣した。謙信は永禄三(1560)年に越山し、翌永禄四(1561)年に北条氏の小田原城を包囲した。これ以後、たびたび謙信の関東出兵が繰り返されたが、直峰城春日山城から三国峠へ向かう最短経路上の繋ぎの城として重視された。

天正六(1578)年、上杉謙信が死去し、養子の景勝と三郎景虎が跡目争いを繰り広げた(御館の乱)。乱の当初は城主の長尾景明は景虎に味方したが、景勝方が計略を用いて景勝に寝返らせ、吉益伯耆守を城主に任じたという。長尾景顕は自刃したと伝えられる。天正六(1576)年十一月十一日に上杉景勝は小日向隼人佐に、十二月一日には山田彦右衛門、北村孫兵衛尉らに「直峰之地」での戦功を賞している。また天正十一(1583)年十一月二十四日には樋口惣右衛門兼豊に直峰城の在城を申し付け城代とした。

慶長三(1598)年、上杉景勝が会津に移封されると春日山城には堀秀治が入り、直峰城には重臣の堀伊賀守光親を置いたが、慶長十五(1610)年に堀忠俊が改易されると廃城となった。

落魄の関東管領・上杉憲政。このちょっと冴えないオッサン(失礼!)が上野平井城を追われて、三国峠を越えて春日山城に転がり込んだとき、ひとりの血気盛んな青年武将の生涯は大きく変わっていくのでした。その青年とは無論、長尾景虎、のちの上杉謙信その人であります。そしてこの青年は生涯のうちに十三回とも十五回ともいわれますが、とにかく永禄年間から天正初期にかけて繰り返し繰り返し関東に出兵することになります。関東出兵と簡単に書いてしまいましたが、越後と関東の間には標高2000mクラスの山嶺が聳え、冬季は5mもの積雪がある超豪雪地帯、よくまあ越えたもんだ、という気がします。

で、春日山城から関東と越後の境である三国峠まで直線でも70kmほどあるのですが、当時の主要街道は大きく北に迂回して米山山麓をめぐり、現在の地名で言えば

上越市---(国道8号)---柏崎市---(国道291号)--小千谷市---(以下国道17号)---魚沼市--六日町(南魚沼市)--湯沢町--三国峠

中世観測衛星「えちご」からの観測データ(※1)。

 左:上杉軍道(春日山城〜沼田城間)高度52000m

 右:上杉軍道(春日山城〜直峰城間)高度3800m

関東への「越山」初日の行程は約24km、最初の難所が関川(応化川)の渡河と牧野峠である。柏崎方面の国人領主(北条氏、安田氏など)の軍勢はこの直峰城で合流していたと思われる。

(クリックすると拡大します)

に至る、総延長140kmにも及ぶ長距離のルートでした。これは当時の6日間行程に相当します。しかし景虎青年、これじゃイカンと考えたか、三国峠までの山並みをほぼ直線的に横断する道路の整備に着手します。これがいわゆる「上杉軍道」で、近世の三国街道、松之山街道、現在で言えば国道405号、403号、253号や第三セクター鉄道「ほくほく線」などに相当する、丘陵地帯を東西に貫く最短の軍用道路でした。距離はおよそ100km、4日行程に短縮されます。奇しくも彼の生涯のライバルである武田信玄も信濃侵攻にあたって「棒道」を作っており、ある意味似たもの同士というか、着眼点が共通であるところが非常に興味深いです。それはともかくこの街道、もちろん「越山」以前から存在はしていたんでしょうが、軍道として整備されてからはこの越後毘沙門軍団の弾丸道路として繰り返し使用されます。この地方は山地と谷の繰り返し、「新潟県中越地震」でちょっと有名になった褶曲構造の典型的な地形で、山自体はさほど高くは無いものの峠越えと渡河を繰り返すので、結構当時は大変であったと思われます。それに半端ではない豪雪地帯でもあり、冬季の軍事行動にはかなりの危険と犠牲も伴ったでしょう。

当然、所々に宿泊しないといけないのですが、この直峰城はまさにその一泊目、ここから先が本格的な山ですよ、という場所にあります。初日の行程は春日山城より約24km、完全武装の大部隊がよくもまあ一日でここまで、という感じではありますが、初日の行程は割となだらかな丘陵地帯が多いので、その気になれば無理ではなかったのかもしれません。しかしまあ昔の人っていうのはたいしたモンだなあ・・・。

直峰城はもともと、越後南朝の雄である風間信濃守信昭の居城とされています。この人物、越後国内ではそこそこ名前の通った人なのですが、全国的に見ればどうなんでしょうか。出自は諸説あるものの信濃国水内郡風間神社の庄司だったなどという説もあります。しかしやはり直峰城の戦略価値がグッと高まったのは、謙信が繰り返し関東へと馬を進めるようになってからで、前述の通り軍用ハイウェイ上の一泊目の宿営地にして、関東への最短経路を守るお城として重視されます。謙信の死後に勃発した「御館の乱」においても景勝方の重要拠点とされ、戦後の論功行賞では、あの直江兼続の父・樋口兼豊が城主(城代)に任じられています。

直峰城は比高230mほどもある堂々とした山城ですが、幸いかなり上まで車道があり、駐車場から70mほど登れば主郭に辿り着くことができます。その分、大手道が分断されていたり、若干遺構は壊されていますが・・・。おそらく謙信らの一行はわざわざこんな山の上までは来ずに、山麓附近の添景寺あたりに宿営し、大手道のある山の鞍部「城の腰」を超えて、直接的には直峰城には入城せずに通り過ぎたものと思われます。とはいえ一朝有事が発生したらこの山に籠るつもりで準備していたのでしょう。とにかく城域も広い上、屋敷地とされる削平地が数多く並び、主郭附近は切岸も見上げるほどに高く、「さすが上杉直営」と思わせるものがあります。堀切なども巨大で、とくに北東側の搦手筋にあたる堀切などは「なにもここまで」と思わせるものがあります。縄張りや技法そのものは奇をてらったようなところはあまり無く、全体的には「典型的な普通の山城」という感じですが、そこがまたいいのです。主要部はしっかり手入れがしてあり、道も安全です。ただし堀切や屋敷地などはかなりのヤブで、切岸や堀切の断面などは急斜面で足場が悪くちょっとアブナイです。ソレガシは「新潟県中越地震」の約1年後に訪問したのですが、もしかして手が回っていないのかもしれません。それにしても主要部は地震後にも関わらずよく手入れがしてあり、これにも感動しました。

それにさらに素晴らしいのが、添景寺墓地附近から「城の腰」にかけて、当時の軍道がよく残っていることです。広いところでは軽トラ一台分くらいの広さがあり、ところどころ馬に水でもやったものか、小さな池のようなものがあったり、おそらく木戸でも置いたであろうと思われる場所もあります。軍道が残るお城としては犬伏城荒戸城なども素晴らしいですが、ココの軍道もなかなかのモノです。直峰城を見るならこの軍道は見逃せない!

直峰城平面図(左)、鳥瞰図(右)

クリックすると拡大します。

[2006.11.16]

山間の中でも目立つ直峰城の城山。山麓の台地端に添景寺があり、写真右手の鞍部「城の腰」に旧軍道が伸びています。 「城の腰」は舗装された国道403号になっていますが、ここもまた軍道の一部であり、後世の三国街道に引き継がれています。
とりあえず車で行ける所まで行ってみると、駐車場もトイレも完備。ここから正面に向かうルート、右手の「風間屋敷」方面へ登るルート、車道を少し戻って大手道から登るルートなどがあります。 とりあえず駐車場正面の道を進むと上杉藤五郎房友屋敷が。でもこれって誰?
上杉藤五郎の屋敷脇には池があります。籠城の際の水の手として機能したことでしょう。 さらに進むと堀隼人正顕(?)の御殿跡。これって堀氏が入った後のことでしょうか??
さらに宅島若狭守御殿。でもこの人たち、誰なんだかさっぱりわかりません。ちょっとは書いておいてくれ〜。 竪堀状の急斜面を登ってV曲輪へ向かいます。道はしっかりしていますが油断すると滑ります。ソレガシは下りの際にビテイ骨を強打し一ヶ月近くも苦悶しました。。。
尾根上に出ると最初の曲輪がV曲輪。ここらへんは手入れも行き届き、景色も楽しめて気持ちよいです。 さらに一段上のU曲輪。このあたりに米蔵などがあったらしいです。
U曲輪の北側の帯曲輪、ここから主郭へ登ります。「城山の大ケヤキ」なんてのもあります。 主郭西側の大堀切、堀1。さすが上杉直営だけあって規模も大きい。
主郭虎口附近では発掘により野面積みの石垣が出土したとのことですが、これでしょうか?あんまり遺構には見えないなあ・・・。 主郭にはお堂と、南朝の雄であった風間信濃守顕彰の石碑があります。切岸の壁は高く急峻、両脇の堀切も巨大で、上杉氏の本気度がよく現れているように思えます。
風間信濃守信昭顕彰の碑。越後の中世史には必ず出てくる人ですが、全国的な知名度は如何なモノなんでしょうか。那珂通辰あたりと位置づけが似てるかも。 主郭から見下ろす巨大堀切2。まるで谷!無理やりココから降りましたがこれは不正解、U曲輪の「大ケヤキ」あたりから細道があります。
堀底から見る堀2。っていっても写真じゃ迫力は伝わりません。少々ヤブも気になります。 堀2の東側は細尾根が続いていますが、小規模な堀3以外は遺構らしきものはなし。ここって結構な弱点だと思うんですが。。。
U曲輪から見る堀4&5、二重堀切になっています。しかし行ってみるとヤブが酷くて写真が撮れません。 こちらはV曲輪西側の堀切6。ここらへんも結構なヤブです。まあ仕方ないですがね・・・。
堀6から堀7にかけては小規模な堀切がポコポコ続きますが、いずれもヤブと倒木がしんどい。道も尾根より下を通っているため、突入するのも大変です。 ヤブコギを中断してぐるっと回って大手道へ。車道で分断されたりしていますが、切通し状の通路がよく残ります。
南端の曲輪には小さな祠が。観音堂があったらしいですが、城全体の縄張りから見ると大手道を守る南出丸とでもいえる位置関係にあります。低い土塁もあります。 観音堂跡から屋敷区画までは土橋状の細尾根が続きます。西側には数段の段郭が見られます。駐車場からここまで直接上がる道もあります。
これぞ風間信濃守の屋敷。しかし、ナゼ城主の屋敷が家臣屋敷より下にあるんだ??屋敷地はたくさんありますが、あくまでも「伝」です。 風間屋敷と隣接する松浦五郎右衛門尉なる人物の屋敷。しかし城主よりエラソーな場所に占地しています。ところで、誰?
さらに成田駿河守屋敷。っていうかタダの腰曲輪です。御殿など建てるスペースは全然ありません。誰? さらに友田嘉右衛門屋敷、ってもう一体全体誰なんでしょう、この人たちは。。。。
さらにさらに増田五郎右衛門屋敷。んが〜、もういい!誰なんだかさっぱりわかりませんがとにかく「伝」屋敷跡が沢山あるのがよくわかりました。 屋敷区画と本城区画を仕切る堀8。ここで連続お屋敷区画はオシマイです。できれば屋敷の人物の由来などもどこかに書いておいて欲しいです。
山麓近くの添景寺。上杉氏の祈願所であったと同時に、謙信が関東出陣の最初の夜を過ごす宿泊所でもあったらしいです。 添景寺墓地裏手から「城の腰」にかけて伸びる軍道。これぞ毘沙門の駆け抜けた道、ソレガシも駆け抜けてみます。「景虎、ワシは天下を獲る!」
軍道の途中には、木戸でも置いたであろう切通しなどもあります。附近には馬の水呑み場のような小さな池などもいくつかあります。いろいろ妄想が膨らむなあ。 そして毘沙門軍団は関東へ向かう。オンベイシラマンダヤソワカ、オンベイシラマンダヤソワカ・・・・。

 

交通アクセス

北陸自動車道「上越」ICまたは「柿崎」IC車30分。

北越急行ほくほく線「虫川大杉」駅徒歩1時間。

周辺地情報 添景寺墓地から「城の腰」にかけての軍道(旧三国街道)はお見逃し無く。軍道沿いの2日目の宿泊地、犬伏城がオススメ。直峰城附近では虫川城、二ツ城などの小規模城砦があります。初めての方は春日山城も忘れずに。
関連サイト  

 

参考文献

「図説中世の越後」(大家健/野島出版)

「疾風 上杉謙信」(学研「戦国群像シリーズ」)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「上杉謙信大事典」(花ヶ前盛明/新人物往来社)

「上杉謙信と春日山城」(花ヶ前盛明/新人物往来社)

「上杉家御年譜 第一・二巻」(米沢温故会」) 

「上杉家御書集成T・U」(上越市史中世史部会)

「新潟県中世城館跡等分布調査報告書」(新潟県教育委員会)

「春日山城とその支城群」(大塚直吉遺作集出版委員会)

 

※この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、数値地図50000(地図画像)および数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。

(承認番号 平15総使、第342号)

なお地図画像の作成にあたっては、DAN杉本氏作成のフリーの山岳景観シミュレーションソフト「カシミール3D」と国土地理院発行の数値地図(1/5万および1/20万)を使用した。

参考サイト 越後の虎 越後勢の軌跡と史跡

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