新発田重家の叛乱に呼応した、というよりも織田信長の意向を受けて新発田氏調略に暗躍した芦名氏関連の城郭として興味を示したのですが、「要害山」にある古城はこの新発田重家の乱で登場する赤谷城の前身で、実際にこの城で戦闘が行われたわけではないらしいです。しかし、標高292mの円錐形の堅固な山容で、芦名氏の被官であった小田切氏がなぜこの城を捨ててわざわざ急ごしらえの新城を取り立てたのかがわかりません。たしかに山が険しい分、大軍の籠城には向かないでしょうが、イマイチ理解に苦しむところです。
現状では「内ノ倉ダム」がつくられ、この要害山もコンクリで護岸されてかなり山容は変わってしまいました。ダム側からは登城路は見つかりませんでした。ダム湖側の斜面は急峻で、とても藪こぎで攻められるような地形ではありません。水源地でもある内ノ倉ダム用地になったことで、もしかしたら入山禁止になっているかもしれません。ダム湖に沈んだ場所にも遺構があったかもしれませんが、確認できる範囲では山頂付近に数段の小規模な削平地があるだけらしいです。「実際に現地に行く」のを原則としていますが、そういうわけで今回は周辺を見ただけにとどまりました。