関東出陣二日目の宿所

犬伏城

いぬぶしじょう Inubushi-Jo

別名:

新潟県十日町市犬伏

 

城の種別 山城

築城時期

不明(南北朝時代頃?)

築城者

不明(風間氏?)

主要城主

原田氏、丸山氏、上杉氏在番衆

遺構

曲輪、土塁、堀切、竪堀、軍道遺構ほか

大手口から見る上杉軍道<<2005年10月10日>>

歴史

築城年代は明らかではないが、南北朝時代に風間信濃守信昭が直峰城を根拠地に活躍しており、犬伏城もその勢力下にあったと考えられる。しかし新田氏の没落により犬伏城も北朝方の勢力下に入り、観応年間(1350-52)には足利方の原田喜太郎が犬伏城を拠点に南朝方と交戦した。さらに貞治年間(1362-68)には上杉憲顕の家臣、丸山弾正の居城となり丸山氏が数代に渡って居住した。

永正四(1507)年八月二日、守護代・長尾為景は守護・上杉房能と対立して府中の守護館を急襲、房能は関東に逃れる途上に直峰城に立ち寄ったが為景軍の追撃を受けて松之山に逃れ、八月七日に天水越で自刃した。その際に犬伏城主の丸山左近入道信澄もまた房能とともに自刃したという。

上杉謙信の時代には清水采女正が城主に任じられ、謙信の関東出撃の際の中継点として用いられた。

天正六(1576)年、上杉謙信が死去し、養子の景勝と三郎景虎が跡目争いを繰り広げた(御館の乱)。景勝は天正六年六月六日、小森沢刑部少輔、金子二郎左衛門宛の書状で犬伏城にいた毛利名左衛門、萩田與左衛門、長尾筑後守、吉益伯耆守らを「其地(今井城)」の備えを固めるために移動させている。また天正八年三月二十七日付の下平蔵人助宛の書状で、大沢の地を北条高広らが乗っ取ったとの知らせに犬伏城の用心に油断なきよう指示している。

慶長三(1598)年、上杉景勝が会津に移封されると春日山城には堀秀治が入り、犬伏城も堀氏の支配下に入ったが、慶長十五(1610)年に堀忠俊が改易されると廃城となった。

春日山城を出立して関東に向かう毘沙門軍団は直峰城で一泊したのち、上杉軍道をさらに東へ東へと向かいます。まず坊金あたりで細野川を渡り、六夜山の山麓を越えて午前中には保倉川を渡河、おそらくこの辺で大休止を取って、小豆峠越えへと向かうはずです。で、室野城の脇を通り、蒲生城、松代城の間をすり抜けて、二泊目の目的地であるこの犬伏城に到着、やっと夕餉のお時間となる、という寸法です。この間およそ22km、比較的標高差の少ない丘陵地帯とはいえ、完全武装姿で何度もアップダウンと渡河を繰り返さなくてはならない軍団にとっては、かなりの重労働であったでしょう。総大将の上杉謙信はもうすでに馬の上でしこたま飲んで、飯も食わずに寝てしまう、なんてこともあったかもしれません。この区間は豪雪地帯でもあり、軍道は雪崩を避けるように尾根道を通り、また山腹の南側の日当たりの良い場所を通り、少しでも雪の影響を受けないよう考えられています。またこの二日目行程の途中には室野城山・蒲生城山・松代城山などの「城山」が連続していますが、これらも吹雪などの際に緊急避難するために計画的に設けられた中継拠点だったかもしれません。

中世観測衛星「えちご」からの観測データ(※1)。

 左:上杉軍道(春日山城〜沼田城間)高度52000m

 右:上杉軍道(直峰城〜犬伏城間)高度4100m

関東への「越山」二日目の行程は直峰城から犬伏城までの約22km、途中保倉川の渡河と峠越え(小豆峠)があるが、標高差は少ないルートである。この区間は軍道沿いの中でも最も「城山」地名が密集する区間でもある。豪雪時などは室野・蒲生などの城に緊急避難したかもしれない。また場合によっては田麦川沿いに登って儀明峠を越えるコースも取ったかもしれない。

(クリックすると拡大します)

そういうわけで犬伏城は、この軍道における二泊目の宿営地、という性格を持っています。ここから三日目の琵琶懸城までは渋海川の渡河と薬師峠越えがあり、そして越後国内では最大の難関である大河・信濃川渡河が待っています。犬伏城でしっかりと疲れを取って英気を養い、翌日の行軍に備えたことでしょう。

この犬伏城は宿営地としての名残を色濃く留めており、おそらく軍道上に位置する城郭の中でもピカイチでしょう。山城部分は取り立てて変わった技法や腰を抜かすほどの大堀切があるわけでもなく、この手の山城としては比較的オーソドックスというか、おとなしい印象のお城なのですが、城域は間に谷を挟んで二つの峰全体に広がっており、削平地の多さ、主郭周辺の主要な曲輪の切岸の高さなどは「さすが上杉軍団直営!」と思わせるものがあります。

そして、山城遺構と並んで素晴らしいのは、山腹を横切る「上杉軍道」の遺構と、巨大宿営地であった犬伏集落全体の雰囲気が実によく残っていることです。上杉軍道については直峰城の山麓附近や、荒戸城のある芝原峠附近のものも大変素晴らしいですが、この犬伏城のものも輪をかけて素晴らしいです。これはもはや「遺構」というよりも、当時の姿そのまんま、現役のままなのではないか、と錯覚させられるほど。まあ近世以降も松之山街道として用いられていた街道であり、必ずしも中世当時の姿のままとは限りませんが、それでも毘沙門軍団が鎧をガッチャガッチャいわせて歩いていた当時と、おそらく風景はほとんど変わんないでしょう。このタイムスリップ感覚は他では味わえない、最大の魅力であります。

宿営地であった犬伏集落は南と東を渋海川の断崖絶壁に阻まれ、北は深い沢、西側の山城との境には長大な泥田堀を備えた、集落自体が堅固な城砦であると言えます。現在は宅地などになっていますが、堀の痕などは意外とよく残っています。総大将である謙信はおそらく、台地先端の突出した高台「諏訪ノ原」あたりに泊まり、もろもろの兵卒たちは集落内に設けられた兵舎などで一夜を過ごしたものでしょう。この集落は近世にも宿場町として栄えたこともあり、こうした街道の町の雰囲気を今なお色濃く残しています。

上杉謙信ファンという方は世の中に結構沢山いるでしょう。春日山城栃尾城などに足を運んだことのある方も多いと思います。しかし、この人物が結果的に半生を捧げてしまった関東平定の旅、その旅路を体験するなら犬伏城を逃す手はありません。こここそ、行って見て体で感じる場所です。絶対のオススメ!

犬伏城平面図(左)、鳥瞰図(中)、復元想像図(右)

クリックすると拡大します。

[2006.11.18]

渋海川東岸から見る犬伏城山と犬伏の集落。集落は川の曲流部に囲まれた30mほどの崖の上にあり、軍道警護のために計画的に配置された集落でした。謙信はおそらく台地端の高台「諏訪ノ原」あたりで大イビキで寝ていたことでしょう。
犬伏集落から見る犬伏城の城山。ここからの比高は160m、程よく整備された山道が歩いていても気持ちよいです。 集落の台地南西端から登山口があります。このあたりは渋海川へ落ち込む断崖絶壁もなかなか険しい。
近世に松之山街道としても使われた上杉軍道、なんという素晴らしさ!馬二頭、徒兵3人が十分並んで進めます。 ところどころこんな感じの切所もあります。関東への旅を続ける軍団はこの坂を下って犬伏集落へと入ることとなります。
軍道から犬伏城の城域へといたる大手口。切通しの道を通ってZ曲輪へと向かいます。 その大手口から振り返って見る軍道。今にも鎧武者たちの行列が現れそうな、そんな錯覚に捕らわれそうです。
最初に出くわす関門がZ曲輪。このあたりは削平は甘いものの大手道を頭上から攻撃できる位置にあり文字通り前衛の砦、といった感じです。 とりあえず先に山頂へと向かいます。途中、深い沢越えます。この沢によって城域は北の峰と南の峰に二分されています。
主郭の切岸下にあった甲清水。雑草に覆われていますが、当時は貴重な籠城用の飲料水だったのでしょう。 主郭へ。ここまで緩やかな道をおよそ20分。なにやらのアンテナなどもありちょっと興醒めですが、見晴らしはなかなかです。
主郭の虎口。下に帯曲輪があり、切岸によって枡形状の空間を作り出しています。 主郭からの景色。なんか山ばっかです。谷間に雲が湧き上がり、水墨画のような風景でした。
西側の尾根続き、搦手方面は細尾根が続きやがて軍道に合流します。こちらにはなぜか堀切などは一切ありませんでした。 主郭の南東から尾根に突き出た櫓台状の遺構。南尾根を俯瞰する防衛の要でもあります。
南尾根の道なき道を進むと、堀7・8の二重堀切が現れます。このお城は規模の割に堀切は少ないようです。 堀切8は苔むした急峻な切岸が美しい。高さは西側で8m、東側2mほどです。
南尾根の段々の削平地。やたらと削平地が多いですが、それぞれの切岸は高く急峻で、いかにも上杉直営であることを感じます。 こちらは北側尾根の堀切1。堀切が少ないこのお城の中では一番規模が大きい堀です。
U曲輪はご覧の通り、鬱蒼としたヤブでした。突如ウサギが飛び出してきてビックリ。 北尾根にも堀3・4の二重堀切があります。規模はいずれも3m程度と、それほど大きなものではありません。
U曲輪方面へと繋がる竪堀状通路。さらに横堀状の通路へと繋がります。 城域を二分する谷に向かって伸びる小さな尾根にも堀6があります。竪堀状通路と並んでおり二重堀にも見えます。
城内最大のY曲輪を見下ろすXの曲輪群。実質的にはWが中枢部で、このXの曲輪群はその直衛としての位置づけとなります。 城内最大のX曲輪。屋敷などが並んでいたことでしょう。籠城生活の実質的な中心部はココではないかと思われます。
Y曲輪の虎口は枡形状になっており、谷の下から竪堀状通路が繋がります。一説にこちらが大手だということですが・・・。 しかし谷の中は大手どころか歩行困難な湿地と滑りやすい粘土の壁、とてもここが大手とは思えません。ここは進退に行き詰るので降りるのはやめたほうがいいです。。。。
近世も宿場として栄えた犬伏集落、高札場などもあり、いかにも街道の宿場町という雰囲気を持っています。 宅地や畑などでゴチャゴチャしていますが、集落西側の山麓との境には泥田堀の痕が明瞭です。
台地先端部の「諏訪ノ原」、ここも屈曲を持つ空堀12で区切られています。堀は家が建ってしまうほどの幅です。 諏訪ノ原の台地にはおそらく謙信の宿所があり、二日目の疲れを酒で癒しつつ夜を迎えたことでしょう。

 

交通アクセス

関越自動車道「六日町」IC40分。

北越急行ほくほく線「松代」駅徒歩1時間。

周辺地情報 松代城は模擬天守があり上まで車で登れます。遺構重視であれば西は直峰城、東は三日目の宿営地となる琵琶懸城がオススメです。
関連サイト  

 

参考文献

「図説中世の越後」(大家健/野島出版)

「疾風 上杉謙信」(学研「戦国群像シリーズ」)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「上杉謙信大事典」(花ヶ前盛明/新人物往来社)

「上杉謙信と春日山城」(花ヶ前盛明/新人物往来社)

「上杉家御年譜 第一・二巻」(米沢温故会」) 

「上杉家御書集成T・U」(上越市史中世史部会)

「新潟県中世城館跡等分布調査報告書」(新潟県教育委員会)

 

※この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、数値地図50000(地図画像)および数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。

(承認番号 平15総使、第342号)

なお地図画像の作成にあたっては、DAN杉本氏作成のフリーの山岳景観シミュレーションソフト「カシミール3D」と国土地理院発行の数値地図(1/5万および1/20万)を使用した。

参考サイト  

埋もれた古城 表紙 上へ