武田晴信が父・信虎を駿河に追って家督を相続し、真っ先に手をつけたのは信濃への侵攻でした。晴信は若武者にありがちな無理押しを避け、あくまで調略の力、政治の力などを駆使して「戦わずして勝つ」ことをその戦の真髄としていました。やがて晴信の野望は、生涯の宿敵とも言える上杉謙信との激しい戦いに発展します。その信濃侵攻にあたり、晴信が行った事は「軍用道路」の建設でした。これまでの集落と集落を繋ぐ街道よりも、さらに兵馬・荷駄をすみやかに通行させる事を目的とした道路です。この軍用道路は「棒道」と呼ばれ、八ヶ岳山麓を真っ直ぐ信濃に向かっています。まず戦う前に道路を作る、この発想。このあたりが「武田晴信」という人間のタダモノならぬところだと感じます。ある意味で、武田晴信、「信玄」という人間の智謀と野望を、これほど端的に顕わしているモノは無いと感じます。
この棒道は、よく語られるように、「上の棒道」「中の棒道」「下の棒道」の三本があったとされ、今回見学したのは「上の棒道」の小淵沢CC周辺の区間です。「中の棒道」「下の棒道」はもはや面影を留めているものは無く、上の棒道の「三分一湧水」(長坂町)から小淵沢CC(小淵沢町)付近の2kmちょっとがわずかに残っているだけ、とのことでした。この棒道が走っていたとされるルートについて調べてみましたが、手持ちで詳しい参考書がなかなか見つからず、ようやく「歴史読本 S62.5月号(古っ!)」に詳細な記述があるのを発見しました。それによると。。。(赤字は情報地図コミュニケーションサイト「Mapion」にリンクされています)
■上の棒道
「若神子」(須玉町)-「谷戸」(大泉村)-「小荒間」(長坂町)-「立沢」(富士見町)-「柏原」(茅野市)-「大門峠」(茅野市・長門町)-「長久保」(長門町)
※これは八ヶ岳南西麓の高原地を突っ切って、大門街道(現在のR152)を通って白樺湖を横目に見つつ小県に達する、ということでしょうか。地図でみると大門街道はずいぶんまっすぐ北に伸びているように見えますね。これはもしや棒道の名残?ちなみに僕が今回見学したのはこのあたりです。
■中の棒道
「穴山」(韮崎市)-「渋沢」(長坂町)-「大八田」(長坂町)-「大井ヶ森」(小淵沢町)-「葛窪」(富士見町)-「乙事」(富士見町)-「柏原」(茅野市、ここで上の棒道と合流)
※これは現在の中央自動車道とほぼ平行して小淵沢に至り、ここから当時の原生林の真っ只中を切り裂いて大門街道に至る、ということでしょうか?
■下の棒道
「穴山」(韮崎市)-「渋沢」(長坂町、ここで中の棒道と分岐)-「笹尾」(小淵沢町)-「田端」(富士見町、ここで中の棒道と合流?)となっていて、その先は書いてません。
※これは要するに釜無川左岸、七里岩沿いに笹尾塁をかすめて通るルート、ってことでしょうか?
もとより限られた資料を土地勘のないまま探っただけで果たしてアテになるかどうかわかりませんが、一応こんなルートかな?というところを読み取ってみました。小淵沢町の観光案内所で聞いたところ、ちゃんと棒道の名残が残っているのは前述の「三分一湧水」から小淵沢CC裏手までの「上の棒道」の一部だけ、とのことでしたが、意外と現在の国道・県道・市町村道などに名残が残ってるのかなあ?などと思っています。
ちなみに、棒道沿いには何体かの石仏が見られますが、これは江戸時代末期の嘉永一、二(1848、49)に、旅人が迷わないように道しるべとして建立されたものだそうです。また小淵沢CC裏手は非常に道が広く、「こんなに広かったのか!」と驚きましたが、これも後世に防火帯として拡張されたものだそうです。今回はこの小淵沢CC方面しか見学していませんが、この道は長坂町の「三分一湧水」付近まで続き、小荒間番所跡、史実かどうか疑問な小荒間古戦場なども見られるそうです。今度はそっちも行ってみたいな。
城のような明瞭な遺構や派手さはありませんが、なにかの機会に、この「風林火山が駆け抜けた道」も是非、訪れてみてはいかがでしょうか。