峠越え、渡河、そして三日目の夜

琵琶懸城

びわがけじょう Biwagake-Jo

別名:

新潟県十日町市城之古

 

城の種別 平城(崖端城)

築城時期

不明(南北朝時代頃?)

築城者

不明(羽根川氏?)

主要城主

羽根川氏、長尾氏、上杉氏在番衆、金子氏

遺構

曲輪、土塁、堀切、水堀、櫓台、馬出しほか

周囲の水堀<<2005年10月10日>>

歴史

築城年代は明らかではないが、仁安二(1167)年に本間義秀が平氏の命を受けて築城した、あるいは南北朝期に越後新田氏の羽川(羽根川)刑部が築城あるいは大修築した、などと伝えられるがいずれも確実ではない。貞治五(正平二十一・1366)年には守護・上杉氏配下の長尾景広が居城としたとされ、その後数代に渡って長尾氏の居城となった。

上杉謙信の時代には正確な城主は不明であるが、謙信の関東出撃の際の中継点として用いられた。

天正六(1576)年、上杉謙信が死去し、養子の景勝と三郎景虎が跡目争いを繰り広げた(御館の乱)。この乱の前後に上杉景勝の家臣である金子二郎右衛門が城主(城代)に任じられた。廃城の時期は不明だが、慶長三(1598)年の上杉景勝の会津移封時に廃城となったであろう。

ライバルの武田信玄が「棒道」を作ったように、謙信にも関東へ出撃するための軍道「上杉軍道」がありました。最大の難所である三国峠を越えるまでは、この軍道はほぼ東西に伸びており、南北に折り重なる山と川をその都度横断して、樺野沢城下まで達する最短経路が整備されました。この経路上で最も大きな川は言うまでもなく信濃川ですが、琵琶懸城はまさにこの信濃川渡河点に位置するお城です。前の晩に犬伏城で一泊した謙信一行はまず渋海川を渡り、次いで標高約350mの薬師峠を越えます。渋海川からはおよそ比高差200mほどあります。現代の国道はトンネルで峠を楽々と越えてしまいますが、数千から一万を越える大軍勢が徒歩で峠越えをするのは時間もかかったでしょう。峠を越えた軍団は今度は浅河原川に沿って山を下ります。このあたりには「鐙坂」という地名も残っています。坂を下りた一行は信濃川西岸で隊列を整え、いよいよ信濃川に臨みます。ちょうど琵琶懸城の対岸には高島城という小規模なお城がありますが、ここで順番待ちをしていたでしょう。信濃川は今の水量を見れば渡るのはさほど困難ではないように見えるでしょうが、ダムや上流の水利利用が少なかった当時は数倍の水量があり、なおかつ融雪期や雨の時期などは荒れ狂うほどの流れだったでしょう。おそらく徒歩での渡河は不可能だったと思われるので、高島城から舟を何往復もさせて琵琶懸城に至り、そしてここで疲れを癒しつつ軍旅の三日目の晩を迎えたことでしょう。他の軍道沿いの区間はおよそ20km間隔で中継のためのお城がありますが、犬伏城琵琶懸城間は約12km、これは峠越えと二度の渡河、なかでもこの信濃川渡河がいかに困難で時間がかかったかを顕しているようにも思えます。

中世観測衛星「えちご」からの観測データ(※1)。

 左:上杉軍道(春日山城〜沼田城間)高度52000m

 右:上杉軍道(犬伏城〜琵琶懸城間)高度7200m

関東への「越山」三日目の行程は犬伏城から琵琶懸城までの約12km、軍道沿いでは最も短い区間である。しかし朝、出発直後に渋海川を越え、次いで比高200mの薬師峠越え、そして大河・信濃川の渡河が控えている。琵琶懸城の対岸の河岸段丘上には高島城があり、ここから舟に乗ったのであろう。

(クリックすると拡大します)

さて、越後国内の城郭分布を見ると、信濃川沿いの小千谷市から十日町周辺、津南町あたりまでの区間は、例外的に崖端城が多いことに気づきます。これは信濃川の河岸段丘が発達しているためであり、この川を最大の防御線としています。当然、信濃川水運を監視することの重要性がいかに高かったかも感じさせます。とくに十日町市域は、どこの誰が築いたのかもわからぬような、ごくごく小さな崖端城が異常に密集しているのですが、さすが上杉直営の琵琶懸城はそんな吹けば飛ぶような小城とは風格が違います。琵琶懸城は「城之古」(これで「タテノコシ」と訓む)集落の西端、信濃川に面した高さ15mほどの段丘の端に位置し、眼下に雄大な信濃川の流れを見下ろすことができます。信濃川は現在堤防に囲まれ、お城とは200mほど離れた場所を流れていますが、おそらく当時は水量ももっと多く、このお城の直下まで流れていたはずです。

城内のほとんどは畑になっていますが、その遺構は良く残り、越後の中世期平城の中では屈指の残存度と規模を誇ります。先端の主郭は意外に狭いのですが、おそらく長い年月の間に信濃川の激流に少なからず削り取られてしまったものでしょう。U曲輪以下は畑になっていて、一部堀が埋まっていてわかりづらい部分もあるものの、周囲の土塁などは良く残っています。この曲輪を取り巻くように外堀2が廻っているのですが、その北端附近は水堀となっており、黒々した水が神秘的です。細かく見れば櫓台や虎口など、なかなか小技も効いています。南東端の虎口などは馬出し状の形状であったようですが、堀が半分埋まっているため旧状を完全に知ることはできません。ここは本来土橋ではなく、今井城や赤沢城のように曳き橋で繋がっていたかもしれません。細かい部分では多少の破壊はあるものの、全体的な雰囲気は非常に良好といえるでしょう。

実は、ソレガシはここに「新潟県中越地震」の一週間前に訪れていました。その後あの地震があり、信濃川に面した段丘もあちこち崩落したということで、琵琶懸城もどうなってしまったか心配しておりました。で、一年ぶりに訪れてみると、大きな損傷はほとんど無いことを知ってホッとしました。畑の中で会った人に聞いてみると、所々土手(土塁)が崩れて赤土が出たり、川に面した崖が一部崩落した、という話でしたが、土塁の方はどこが崩れたか分からない程度の損傷です。崖はたしかに中腹が少し崩れており、赤土が表面に出ていました。まあ、この程度の損傷で済んだことは幸運だったかもしれません。

ちなみに軍道はこのあと栃窪峠を越えて樺野沢城荒戸城浅貝寄居城と続き、三国峠を越えて宮野城、そして沼田城へと到ります。個々の遺構を見ることも楽しみですが、街道や軍道という視点からお城を眺めてみるのもまた何か新しい発見があるかもしれません。

琵琶懸城平面図

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[2006.11.20]

城址の北側、ほくほく線の鉄橋附近から見た琵琶懸城とその周辺。現在は信濃川は堤防によって遠ざけられていますが、往時は直下で逆巻いていたことでしょう。対岸には高島城があり、ここから舟で渡ったものと思われます。軍勢が渡り終わる頃は、ご覧のような夕照があたりを包み込んでいたでしょう。
南側から見る琵琶懸城。新潟県中越地震の影響か、崖の一部が崩れています。 北端附近はかつての舟着場への道であったことでしょう。
北側の神社脇から入城します。なんといっても黒々とした水堀が素晴らしい。 この水堀(堀2)の南側には水はありませんが、堀底は平らで湿地になっています。おそらく泥田堀であったのでしょう。
舟着場を直接監視する北側の櫓台。平時は河川交通の監視、渡河時には舟艇の指揮にあたっていたことでしょう。 城域をぐるりと囲む土塁。一部は墓地で切り崩されて痛々しい断面を見せていますが、概ね残っています。
U、V、W曲輪は一面の畑になっています。空堀で区画されていたようですが、現在ではよくわからなくなっています。 埋められた堀3の痕跡と思われる低地。ただこの場所に堀というのも縄張り的には少し変な気もします。
南側の虎口を側面から狙っていたであろう櫓台。上には小さな石仏が祀られています。 宅地化などで明瞭ではありませんが南側虎口は馬出しであったようです。接続は土橋ではなく曳き橋であった可能性も・・・?
主郭の周囲を囲む堀1。こちらも途中で埋められているようです。本来はU曲輪の東側まで繋がっていたらしい。 主郭の虎口はあまり何の仕掛けも変哲も無い平入りの虎口です。
土塁の上から見る主郭。西側は崖ですが、川に削られている可能性もあります。本来はもう少し広かったのかもしれません。 夕陽が差し込む主郭。赤い鳥居と小さな祠があります。渡河を終えた上杉軍団は夕照の中で夕餉の時間を迎え、翌日に向けて爆睡したでしょう。
主郭から見る信濃川。現在は堤防で仕切られていますが本来は直下を流れていたでしょう。ちょうど対岸に高島城があります。奥の山地はおそらく昼頃に越えたであろう薬師峠です。 城之古集落内の旧道。毘沙門軍団はここから秋葉山の山麓を通り、険しい六箇越え(栃窪峠)へと向かいます。

 

交通アクセス

関越自動車道「六日町」IC30分。

北越急行ほくほく線・JR飯山線「十日町」駅徒歩30分。

周辺地情報 附近には土市城、かたがり城や高島城などの小規模崖端城が密集。もっとちゃんとしたのを見たい人は西へ向かって犬伏城、または東へ向かって樺野沢城坂戸城。南朝の雄、大井田氏の大井田城や信越国境の今井城、赤沢城なども要チェック。
関連サイト  

 

参考文献

「図説中世の越後」(大家健/野島出版)

「疾風 上杉謙信」(学研「戦国群像シリーズ」)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

 

※この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、数値地図50000(地図画像)および数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。

(承認番号 平15総使、第342号)

なお地図画像の作成にあたっては、DAN杉本氏作成のフリーの山岳景観シミュレーションソフト「カシミール3D」と国土地理院発行の数値地図(1/5万および1/20万)を使用した。

参考サイト  

埋もれた古城 表紙 上へ