鳥坂山に古要害はあったのか

古鳥坂城

ことっさかじょう Ko-Tossaka-Jo

付:下赤谷城

 

新潟県北蒲原郡中条町羽黒〜

北蒲原郡黒川村下赤谷

城の種別

中世山城

築城時期

平安末期(治承四・1180年頃)

築城者

城氏

主要城主

城氏

遺構

曲輪?堀切?

黒川集落付近から見上げる鳥坂山全景<<2002年05月03日>>

歴史

桓武平氏の一族、城氏が平安末期に奥山荘周辺を支配した。治承四(1180)年に越後守に任じられた城資永によって、鳥坂城が有事の要害として取り立てられた。その頃、源頼朝、木曽義仲らが平氏に対抗して旗揚げしたが(治承の乱)、資永・資職(のち長茂に改名)は平氏方として、木曽義仲、甲斐武田氏、浅利氏、逸見氏らを討つために出陣するが破れ、文治四(1188)年、資職は梶原景時を仲介に自ら囚人として鎌倉に赴き、頼朝に降り、翌年許されて幕臣となった。

建仁元(1201)年、城資盛は平氏復興のため鳥坂城で挙兵、幕府は佐々木盛綱を越後御家人の総大将として追討軍を派遣した。このときに城資盛の叔母、板額御前は大岩を投げ落とし、強弓で敵方を射倒す大奮闘をしたといわれる。資盛は出羽に逃れ、板額は捕らえられ鎌倉に護送された。のちに甲斐源氏の一派、浅利与一のもとに嫁いだといわれる。このときに立て籠った鳥坂城は現在、鳥坂城址として知られる白鳥要害ではなく、鳥坂山頂に築かれていたとの見方もあるが、明瞭な遺構に乏しいことや地形が険阻すぎることから否定的な見解もある。

通説における鳥坂城は、櫛型山脈北端に当たる鳥坂山の支峰である白鳥山に築かれた「白鳥要害」であると言われます。しかし、鎌倉初期に平氏復興を夢見て挙兵した城氏の鳥坂城は鳥坂山頂に築かれていた、という説もないわけではありません。鳥坂山頂にはごく狭い平坦地しかないことから否定的な見解もありますが、僕は城氏の時代の鳥坂城はまぎれもなく鳥坂山全体に渡っていたのではないかと想像しています。その理由として、

@白鳥要害は戦国期の城郭としては妥当な立地であるが、鎌倉〜南北朝期の要害としては山麓線から近すぎる

A鎌倉〜南北朝期の要害は比高差3-400mの高峰の尾根上に展開される例が多い

B従って自然の天嶮をフル活用するため、広い郭や大規模な堀等がなくても城郭として立派に通用する

C事実、櫛形山脈にはわずかの平坦地と堀切を伴なうだけの小規模な古要害が多数知られている

D子供の頃からの登山経験で、尾根上に不自然な地形があったことを体で覚えている

E白鳥要害から見た場合の鳥坂山頂付近は明らかに比高が高く傾斜も急で、要害の詰の城として申し分がない、もっと言えば、敵に山頂を取られたら白鳥要害の軍事的価値に確実にダメージを与える、よって山頂付近は軍事的な価値が高く、城砦化しない理由が考えられない

などの考察によります。さらに、鳥坂山の登山道のうち最も利用者の多い「樽ヶ橋ルート」では、急な山腹を直登すると広い平坦地があり、そこに現在は休憩所兼展望台があるのですが、地形的にも地勢的にも、城郭として十分価値の高い場所にあることから、山頂だけでなくこの支峰も城郭の一部だった可能性を持っているはず、と考えました。この支峰は眼下に胎内川が狭まる激流(現在の景勝地、樽ヶ橋付近)を見下ろし、天嶮の要害であるとともに、奥山荘最大の生産地の一つでもあった熱田坂集落(黒川村熱田坂)と胎内川下流の平坦地(現在の黒川村黒川集落付近)を結ぶ唯一の街道を押さえる場所でもあります。しかも、戦国期に鳥坂城主の中条氏たびたび小競り合いを起こした黒川氏の居城はこの支峰から川を挟んで1kmに満たない距離にあり、黒川城の要害はこの支峰から「丸見え」であることから、戦国期後半に至っても小規模な砦として利用されていた可能性は十分にあると考えます。

で、今回の調査でわかったことは、

@山頂付近には記憶どおり二段の削平地がある。これは規模こそ小さいが、明らかに自然地形ではなく、かつハイキングコース整備のための改変でもない

A記憶どおり、樽ヶ橋から山頂に至るルートには堀切らしき地形がある。ただし、記憶にある地形と若干異なっており、記憶違いの可能性もあるが、登山道整備による改変か、大雨等による崖崩れで尾根筋が崩れた可能性もあり、堀切遺構については明らかに人為的な普請によるものかどうかは断定できない

Bただし黒川村鼓岡に向かう尾根上には堀切も腰郭もなく、城郭としては疑問もある

C白鳥要害へ向かう尾根筋は非常に傾斜が急で、岩石と赤土が露出していて、とてもまともに歩けず未調査。しかし、この道はあまりに傾斜が厳しく、恐らく堀切等の遺構は何もない。これは城砦がなかった、ということではなく、その必要がない地形だった、とも考えられる

D白鳥要害と山頂の中間に位置するマイクロウェーブアンテナの建つピークは、地形的に城郭の一部だった可能性が高いが、アンテナ設置のため地形が改変されて断言できない

E樽ヶ橋ルート上の支峰はあきらかに城郭として取り立てられていた。事実、「板額峰、下赤谷城跡」の標柱が建っていた。

ということで、個人的に「山頂から板額峰にかけては鳥坂山の古城と推測できる」という結論に達しました。このあたりの事情についてはまだまだ現地での考察が足りないことや参考となる文献が少ないことで、あくまで推論に過ぎません。しかし、誰かがわざわざ「下赤谷城」の標柱を建てていることを考えれば、ここが古城であると推測する人は他にもいるはずだし、もしかしたら文献にめぐり合えるかも知れません。ややウヤムヤな結論で申し訳ないのですが、今後も継続調査するつもりです。

中条町側から見た鳥坂山。左の峰が白鳥要害、マイクロウェーブ塔の建つ峰を挟んで右が屹立する鳥坂山頂。要害として申し分ない地形です。 胎内川大橋付近から見る支峰の「板額峰」(右)と川を挟んでにらみ合う黒川城の要害山。

胎内川上流から見た板額峰。この板額峰に「下赤谷城」に標柱がありました。鳥坂山頂方面とは一筋の尾根で結ばれており、周囲は切り立った岩山。この半独立峰も城郭として最適の立地。 その板額峰から黒川城要害山を見下ろす。指呼の間どころの近さではない。石を投げれば届きそうなほどの近さ。しかも板額峰からは丸見え。

板額峰から胎内川沿いに下赤谷集落、坪穴集落方面を見る。山の間が狭まって隘路になっているのがよくわかるでしょう。この奥には黒川村熱田坂の肥沃な台地があり、奥山荘の最大生産地であったと言われます。 「板額峰・336.6m、下赤谷城跡」の標柱。下赤谷城という城郭があったかどうかはともかく、実質的に鳥坂城の一部と見るべきでしょう。「板額」というのは鎌倉期に滅亡した城氏の叔母(鳥坂城参照)。もしかしてこの板額峰が主戦場だったのか??

まるで天守台のような石垣の休憩所兼展望台がある板額峰の頂上。この休憩所は遺構と全く関係ありません。比較的広い削平地と思われる広場が二段ありました。

板額峰付近から見上げる鳥坂山山頂。ここでの比高差は100m程度ですが、非常に急峻で、天嶮の要害に見えます。

記憶の中の「不自然な地形」はやはりどう見ても堀切でした。記憶ではもう一箇所。同じような地形があったと思うのですが、明確にはわかりませんでした。もしかして改変や崩落によって消えてしまったか?それとも僕の思い違いか?

板額峰から山頂への尾根上から見た白鳥要害。白鳥峰も戦国城郭、根古屋式城郭としては適切ですが、やはり板額峰、鳥坂山頂に比べれば天嶮の度合いは落ちます。

わが故郷、黒川の美しい風景。ちょうど田植えの時期で、水田に張られた水がキラキラ輝いて綺麗でした。僕の実家も当然写っています。十六年前に離れた故郷。僕の原風景のひとコマ。

標高438.8mの山頂に到着。一時間弱の登山でした。子供の頃はもっと早く登っていた気がします。狭いながらも二段の平地があり、やはり僕はこここそが古い鳥坂城と信じています。

今回は城巡りというよりも、自分の中の原風景を探ってきたようなものです。しかし、「板額峰、下赤谷城」という呼び名が示す通り、やはりここに古要害があったことは疑いない事実と思っています。この櫛形山脈には、こうした「伝・古要害」が沢山あります。いつの日か、櫛形山脈全体を縦走調査してみたいものです。

 

交通アクセス

JR中条駅よりバス

越後胎内観音付近より登山口あり

周辺地情報

中条町内の江上館は「奥山荘歴史の広場」という素晴らしい施設として整備されました。尾根続きには戦国期の中条氏の本拠である鳥坂城(白鳥要害)。これはセットで見学。金山城館遺跡黒川城も時間に余裕があれば見ていってやってください。宿泊・家族サービスは黒川村で。

関連サイト

中条町 黒川村

奥山荘の頁を作りました。こちらもご覧下さい。

 
参考文献 「黒川村誌」、「図説中世の越後」(大家健/野島出版)、「村民史跡探訪」(黒川村教育委員会)
参考サイト  

 

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