「ときは今」光秀の心の闇を想う

丹波亀山城

かめやまじょう Kameyama-Jo

別名:亀岡城

 

京都府亀岡市古世町、荒塚町

城の種別

平山城

築城時期

天正五(1577)年

築城者

明智光秀

主要城主

明智光秀、豊臣秀勝、小早川秀秋、前田氏、岡部氏、菅沼氏、松平氏 他

遺構

曲輪、石垣、水堀

本丸石垣<<2001年11月24日>>

歴史

天正三(1575)年に織田信長に丹波平定を命じられた明智光秀が丹波攻略の拠点として天正五年(1577)に築城した。当時は三層の天守も築かれたという。光秀の丹波攻略は八上城の波多野氏らの頑強な抵抗に遭い難航するが、天正七(1579)年六月に八上城は落城、丹波は光秀に与えられた。

天正十(1582)年五月、光秀は安土城で徳川家康饗応の役を命じられていたが、備中高松城を攻めていた羽柴秀吉が信長に援軍を求めたことから光秀は信長に備中出陣を命じられた。光秀は五月十七日に坂本城、五月二十六日に亀山城に移り、翌二十七日愛宕山に参詣、連歌師・里村紹巴と愛宕百韻を催した。信長は五月二十九日に安土城を進発し、京都本能寺を宿所とした。

六月一日夜半、亀山城を進発した光秀は老ノ坂を東へ向かい、沓掛で全軍を小休止、ここで進路を京都に向かって東に取り、六月二日早暁に信長の宿所、本能寺を襲撃、信長は自刃した。信長の嫡子・信忠も妙覚寺に投宿していたが、これも光秀により攻められ、信忠は二条御所に立て籠ったが、これも抗戦の末自刃した(本能寺の変)。光秀は六月三日に坂本城に入り、五日には蒲生賢秀が放棄した安土城を接収、佐和山城、長浜城などを占領したが、備中高松城攻めの羽柴秀吉が城将・清水宗治の自刃で毛利氏との講和をまとめ、電撃進攻で京へ向かった(中国大返し)。六月十一日には秀吉隊の先鋒、中川清秀が天王山を、高山重友が山崎を占領し、明智軍先鋒と小競り合いとなる。六月十三日、丹羽長秀・織田信孝隊が秀吉隊と合流、両軍は山崎で明智軍と激突したが(山崎合戦)、明智隊は総崩れとなり勝龍寺城へ撤退、光秀は坂本城に撤退する途上、山城国伏見郊外の小栗栖で落武者狩りの土民に襲われ落命した。亀山城は六月十四日に高山重友・中川清秀らに攻められ落城した。

光秀死後は、天正十四(1586)年に羽柴秀勝、文禄二(1593)年には小早川秀秋が城主に任じられ、秀秋は五層の天守を建設した。その後は城代として石田三成、前田玄以などが入城した。慶長五(1600)年、関ヶ原合戦に際して、亀山城主の前田玄以・茂勝は西軍に属したが、石田三成の挙兵に従わなかったことで亀山城を安堵された。

慶長十四(1609)年、岡部長盛が城主に任ぜられ、翌十五(1610)年徳川家康の命により豊臣包囲網の一環として天下普請による修築が行われた。岡部氏の後は大給松平氏、菅沼氏、久世氏などが城主に任じられたが、寛延元(1748)年、松平信岑が五万石で入城し、以後八代続いて明治維新を迎え廃城となった。亀山は明治に入ってから、伊勢亀山との混同を避けるため「亀岡」と改名された。現在は宗教法人「大本」の聖地「亀岡天恩卿」となっている。

ときは今 天が下知る 五月哉

本能寺の変に先立って、連歌師・里村紹巴と愛宕百韻を催した際に明智光秀が発句したといわれる有名な歌です。「ときは今」とは、信長がわずかな供廻りだけで本能寺に投宿している、あるいは織田軍の主力は各地を転戦していて、京都はがら空きである、今こそ事を起こすに適した時である、というような意味合でしょうか。あるいは美濃源氏を自称する光秀にとって「とき」とは「土岐」にかけたのかもしれません。「天が下知る」とは、五月にかけて「雨が下しる・降る」の意味と。「天下に下知する」を引っ掛けたものでしょうか。とにかく、日本の歴史を大きく動かす「本能寺の変」直前の光秀の決意のほどを伺う事ができる歌として有名です。そして六月一日夜半、光秀は備中高松城攻めへの援軍をこの亀山城から進発させます。しかし、向かった先は備中ではなく京都本能寺。「信長公が馬揃えを所望している」という表向きの理由でした。そして翌二日未明、光秀は重臣たちにその本心をはじめて明かします。斎藤利三をはじめとした重臣たちは諫言しますが、「事ここに至った以上、もはや天命を仰ぐしかない」と覚悟を決め、桂川にさしかかる頃、全軍に下知します。「敵は備中に非ず、本能寺にあり」。そして、一万三千の明智軍はわずかな供廻りの者しか持たない信長の宿所、本能寺に押し寄せます。「是非に及ばず」信長は本能寺で業火の中に果て、天下布武の夢はその最終段階で突然に終焉を迎えてしまいます。しかしその光秀もわずか11日後、山崎合戦で敗れ、坂本城をめざして敗走中に落武者狩りの土民に竹槍で脇腹を突かれて、その命を落としてしまうのです。信長と秀吉、このふたりの「歴史的英雄」の狭間で、世代交代、政権交代の「触媒」として突如現れ、露のようにはかなく消えていった男、光秀。彼に与えられた「天命」は、そんな歴史的役割だったのかもしれません。

丹波攻略に奔走した光秀がふたたびこの丹波亀山城に還って来る事はありませんでした。光秀が叛旗を翻した真相は、今もって謎とされています。怨恨説、危機感説、天下獲り説から、家康・秀吉共謀説、朝廷黒幕説まで、様々な説が渦巻いていますが、おそらく永遠にその光秀の心の闇を解き明かされることはないでしょう。ただ、光秀がこの丹波亀山城で悶々と思い悩んでいたであろう日々、そしてこの城門を出て重臣たちにその心中を明かすまでの葛藤、そんな苦しい光秀の心中をわずかに想像することができるのみです。

苦心の末の丹波攻略後、光秀は丹波の領民の人心把握と経営に努めました。その際の本拠となったのが、この亀山城福知山城です。地形的にはやや微高地にはなっていますが、ほぼ平城といってもいいでしょう。軍事的要害よりも、あくまで治世を重んじた平城を構築したところに、光秀の丹波経営に対する思いが伝わってくるようです。保津川を通じて京都の街に水運が開けていたことも城地選定のポイントの一つでしょう。江戸期には層搭型の天守が築かれ、近世城郭として幕末まで存続しました。貴重な古写真が残っています。亀山城は現在、宗教法人「大本」の聖地になっていますが、受付で見学希望の申し込みをすればOK、写真の石垣や堀を見ることができます(その前に簡単なお祓いを受けます)。なんとなく入りづらいような気がするかも知れませんが、決してそんなことは無く、親切に対応してもらえますのでご心配なく。本丸は大本の禁足地になっているために立ち入ることはできませんが、周囲の石垣を見ることができます。石垣は大本がこの土地を買った時には崩れ果て、荒れ放題になっていたものを、大本が積みなおしたそうです。大本に感謝です。光秀の当時を偲ぶものは光秀手植えと伝えられる大銀杏くらいしかありませんが、光秀が「変」に及ぶ直前の居城を訪ねてみるのもまた、いいのではないでしょうか。

外堀。外郭には石垣は使われていなかったらしい。周囲との比高差はほとんど感じられず、平城と言ってもいい地形です。 燃えるような紅葉が美しい三ノ丸の内堀と石垣。
同じく三ノ丸内堀。現在は「万祥池」と呼ばれています。もとは空堀だったらしい。 二ノ丸、三ノ丸の堀は通路に。三ノ丸には大本の「万祥殿」が建ち、見学にあたってはここでお清めのお祓いを受けます。
本丸の高石垣。本丸天守台方向を望む。ここから先は大本の禁足地になっていて入ることは出来ない。 同じく本丸石垣。大本が土地を入手した頃は、荒れ果てて石垣も崩れ落ちていたのを、復原整備したらしい。素晴らしい!感謝!
本丸の一角にある、明智光秀のお手植えと言われる大銀杏。この銀杏だけが、光秀の心の動きを知っているのかも。 外堀に浮かぶ「中ノ島」から見た本丸の石垣。石垣が光秀の当時に築かれたものか、近世城郭として整備された時のものかはわかりませんでした。おそらく豊臣包囲網の一環として天下普請で整備された時のものでしょう。

 

交通アクセス

JR嵯峨野線「亀岡」駅徒歩10分。

京都縦貫道「亀岡」IC車10分。

周辺地情報

京都府内では園部城、福知山城、県境を越えて兵庫県側では篠山城、八上城など。

市内桂林寺、千代川小学校には移築城門があるそうです。また足利尊氏が北条得宗家に叛旗を翻し願文を捧げた篠村八幡宮などもあります。光秀も戦勝祈願をしたそうです。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「明智光秀」(学研「戦国群像シリーズ」)、「風雲信長記」(学研「戦国群像シリーズ」)、「ビッグマンスペシャル 織田信長」(世界文化社)、「歴史読本」(新人物往来社)、「歴史と旅」(秋田書店)、「大本」パンフレット、亀岡歴史資料館配布資料
参考サイト  

 

埋もれた古城 表紙 上へ