天正三(1575)年に織田信長に丹波平定を命じられた明智光秀が丹波攻略の拠点として天正五年(1577)に築城した。当時は三層の天守も築かれたという。光秀の丹波攻略は八上城の波多野氏らの頑強な抵抗に遭い難航するが、天正七(1579)年六月に八上城は落城、丹波は光秀に与えられた。
天正十(1582)年五月、光秀は安土城で徳川家康饗応の役を命じられていたが、備中高松城を攻めていた羽柴秀吉が信長に援軍を求めたことから光秀は信長に備中出陣を命じられた。光秀は五月十七日に坂本城、五月二十六日に亀山城に移り、翌二十七日愛宕山に参詣、連歌師・里村紹巴と愛宕百韻を催した。信長は五月二十九日に安土城を進発し、京都本能寺を宿所とした。
六月一日夜半、亀山城を進発した光秀は老ノ坂を東へ向かい、沓掛で全軍を小休止、ここで進路を京都に向かって東に取り、六月二日早暁に信長の宿所、本能寺を襲撃、信長は自刃した。信長の嫡子・信忠も妙覚寺に投宿していたが、これも光秀により攻められ、信忠は二条御所に立て籠ったが、これも抗戦の末自刃した(本能寺の変)。光秀は六月三日に坂本城に入り、五日には蒲生賢秀が放棄した安土城を接収、佐和山城、長浜城などを占領したが、備中高松城攻めの羽柴秀吉が城将・清水宗治の自刃で毛利氏との講和をまとめ、電撃進攻で京へ向かった(中国大返し)。六月十一日には秀吉隊の先鋒、中川清秀が天王山を、高山重友が山崎を占領し、明智軍先鋒と小競り合いとなる。六月十三日、丹羽長秀・織田信孝隊が秀吉隊と合流、両軍は山崎で明智軍と激突したが(山崎合戦)、明智隊は総崩れとなり勝龍寺城へ撤退、光秀は坂本城に撤退する途上、山城国伏見郊外の小栗栖で落武者狩りの土民に襲われ落命した。亀山城は六月十四日に高山重友・中川清秀らに攻められ落城した。
光秀死後は、天正十四(1586)年に羽柴秀勝、文禄二(1593)年には小早川秀秋が城主に任じられ、秀秋は五層の天守を建設した。その後は城代として石田三成、前田玄以などが入城した。慶長五(1600)年、関ヶ原合戦に際して、亀山城主の前田玄以・茂勝は西軍に属したが、石田三成の挙兵に従わなかったことで亀山城を安堵された。
慶長十四(1609)年、岡部長盛が城主に任ぜられ、翌十五(1610)年徳川家康の命により豊臣包囲網の一環として天下普請による修築が行われた。岡部氏の後は大給松平氏、菅沼氏、久世氏などが城主に任じられたが、寛延元(1748)年、松平信岑が五万石で入城し、以後八代続いて明治維新を迎え廃城となった。亀山は明治に入ってから、伊勢亀山との混同を避けるため「亀岡」と改名された。現在は宗教法人「大本」の聖地「亀岡天恩卿」となっている。