天下布武の最終章、そして謎の終焉

安土城

あづちじょう Aduchi-Jo

別名:

 

滋賀県蒲生郡安土町下豊浦

城の種別

平山城

築城時期

天正七(1579)年

築城者

織田信長

主要城主

織田信長

遺構

曲輪、大手道石敷き、石垣、天主台、礎石、虎口、総見寺三重塔・惣門 他

威風を示す大手道<<2001年11月25日>>

歴史

天正四(1576)年、丹羽長秀を普請奉行として着工し、天正七(1579)年に完成、それまでの本拠地・岐阜城を嫡子・信忠に与え居を移した。安土城に移った信長は、石山本願寺との十年戦争を終結させ、甲斐の武田氏を滅ぼすなど、天下布武に向けて邁進したが、天正十(1582)年六月二日、羽柴秀吉の要請で備中高松城の陣に向かう途上、京都本能寺で明智光秀の襲撃を受け自刃する。安土城に残った女房たちは、蒲生賢秀により日野城に逃れ、安土城には光秀の甥、明智秀満が入ったが、山崎合戦で光秀が秀吉に敗れ、敗走中に小栗栖で土民により殺害されると、秀満は安土城を捨てて坂本城に入城した。この後、安土城は炎上するが、炎上にいたる経緯は謎のままである。ルイス・フロイスの「日本史」によれば、信長次男の信雄が火を放った、とされている。安土城はその後すぐに廃城になったわけではなく、焼失を免れた部分を使って、信忠の遺児・三法師(秀信)の居城となった。

戦国史を研究する者にとって避けて通れぬ人物、織田信長。中世的な権威の一切を否定し、徹底的な現実主義のもと、「天下布武」を旗印に天下統一に向けて邁進していた信長の、ほんの一瞬の油断により、その夢も野望もすべて業火の中に消えてゆきました。天正十年六月二日、「本能寺の変」。早暁に本能寺を取り巻いた水色桔梗の旗指物、鬨の声。信長の最後の言葉は「是非に及ばず・・・」。「いまさら何を言おうとどうしようもない・・・」という意味なのか、「光秀め、あれほど目をかけてやったのに、論外な奴!」というような意味であったのか、とにかく掴みかけた野望が指の隙間からこぼれていった信長の、万感の思いがこの言葉に秘められていたのでしょう。

安土城はその「信長の野望」が最も強烈な形で具現化した存在、と言えるでしょう。これまでの城郭の概念を完全に覆す異形の天主(安土城に限って天守ではなく天主と表記します)、幅6m、長さ180mもの直線的な大手道、自らを神格化し祀り神とした總見寺の建立・・・。そのどれもが常識をはるかに超えて、信長という存在を世に示したものと言えるでしょう。それまでの「戦いの場所としての城郭」から、近世城郭へ繋がる「権威を示す城郭」「見せる城郭」への転換点がこの安土城だったのですね。

よく安土城を「全山要塞化した大城郭」みたいな言い方をしますが、僕はむしろ、非常に防備の薄い城であると思います。それは前述の「見せる城郭」であることを優先したためで、そうでなければ延々と続く直線の大手道や、さほど急峻でもない小山に築城したことへの説明がつかないのです。信長としては、ここで籠城、などという戦い方は頭の中にも毛頭なかったのでしょう。

見学当日は晴れ渡った秋の空に、紅葉がとても美しく映えていました。立ち入り禁止区域もたくさんあるので、すべてを見ることは出来ませんが、整備された大手道を中心に、安土城の特異な遺構を堪能することができます。また城下には「セミナリヨ跡」や「安土城城郭資料館」「信長の館」などもあり、観音寺城のある繖(きぬがさ)山もすぐ隣なので、時間さえあれば一日中、戦国時代の歴史が堪能できそうです。「信長の館」には安土城天主の最上階(5、6階部)が復原されているので一見の価値あり。

安土城めぐり

 

 

交通アクセス

JR安土駅より徒歩、レンタサイクル

大手門付近に駐車場有り。

周辺地情報

となりに見える(実は尾根続き)気の遠くなるほどでかい山全体が観音寺城

関連サイト

 

 
参考文献 別冊歴史読本「織田信長その激越なる生涯」(新人物往来社)、「元亀信長戦記」(学研「戦国群像シリーズ」)、「風雲信長記」(学研「戦国群像シリーズ」)、「ビッグマンスペシャル 織田信長」(世界文化社)、別冊歴史読本「戦国古城」 新人物往来社、「日本の城 ポケット図鑑」(西ヶ谷恭弘/主婦の友社)、「歴史読本」各号(新人物往来社)、「歴史と旅」各号(秋田書店)、現地解説板、安土町観光協会パンフレット他
参考サイト 近江の城郭

 

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