天魔の所業、信長の比叡山焼き討ち。信長の苛烈なまでの「破壊と創造」は、国家鎮護、王道仏法の山門にまで及び、堂塔伽藍はことごとく焼かれ、僧侶も避難民も、罪業に関わらず全てが斬り捨てられました。この信長の比叡山焼き討ちを「腐りきった中世的権威の打破」と評価するか、「狂人的な残虐行為」と捉えるかは意見の分かれるところではありますが、どちらも正しい評価といえるのではないでしょうか。当時、叡山の僧兵たちは魚肉を喰らい酒色に溺れ女人をかき抱き、俗人と何ら変わるところがないばかりか、浅井・朝倉連合軍を匿い、公然と信長に叛旗を翻す純武装勢力でもあったわけで、信長としてみれば何が何でも叩いておかなければならない存在であったに違いありません。ただ、それが「撫で斬り」という行為に及ぶにおいては僕個人も「虐殺行為である」という意見に賛同せざるを得ません。百歩譲って当事者たる比叡山の僧侶はいたしかたなし、としても、町を焼き討ちされて逃げ込んだ坂本の住民まで斬り捨ててしまったことは論外でしょう。敵対するものを叩くのは軍事上止むを得ない行為だとしても、非戦闘員と戦闘員は区別されて然るべきでしょう。異論はあると思いますが。
で、その悪夢の叡山焼き討ち後に近江坂本五万石を与えられた光秀の労苦はいかばかりだったでしょうか。城持ち大名に出世した喜びの反目、ことごとく焼かれた坂本の町と湊の復興、民衆の反発、都と琵琶湖の交通の要衝を守る重圧、畿内をめぐる反信長包囲網。すべてが光秀にとって「逆風」ともいえる状況であったはずで、その中で各地を転戦しつつ領国を治める労苦は想像を絶するものがあったにちがいありません。天正十年、信長の甲斐侵攻の際、光秀が「我らも長年の骨折りの甲斐がござった」との発言が信長の耳に入り、激しく殴打されたと伝えられます。これが史実かどうかは別として、「長年の骨折り」があったことは疑うべくもありません。しかし光秀は領国経営を怠ることなく善政を施し、やがて坂本の町衆からも愛される領主になってゆきます。本能寺の変を指して光秀を「天下の大反逆者」と罵るのは簡単ですが、その裏に秘められた人間性というか、苦悩の日々を想うと、どこか光秀に同情してしまうところがあるのです。
坂本城址公園は国道沿いにありますが、想像していたよりはるかに小さい公園で、うっかり通り過ぎてしまうほど。遺構はもはや望むべくも無い、とは思いつつも、せめてそこに城があったことを感じさせる「何か」を期待していたのですが、小さな公園と申し訳程度の解説板、そして妙にデフォルメされた光秀の銅像が建つのみ。湖岸に近寄ると、坂本城の石垣の一部だろうか、高さ1mにも満たない石積みが並んでいることが、わずかにそこに坂本城があったことを教えてくれるのみ。あるいはこれは出土した石垣の石材を並べているのかもしれない。しかし解説も無く、よしんば遺構の一部であるにしても、ルイス・フロイスが安土城に並ぶ美しい城と称賛した面影は全く見られない。琵琶湖の渇水時には湖底の石垣が露出することもあるそうですが、あいにく水は満々としていてその姿も見えず、せめて、静かな波が打ち寄せるわずかな浜辺から、霧に覆われた琵琶湖を眺め、在りし日の坂本城からの風景を心に描こうとするも、無駄な努力でした。残念だが、来るんじゃなかった。