湖水に消えた光秀の名城

坂本城

さかもとじょう Sakamoto-Jo

別名:

 

滋賀県大津市下阪本

(坂本城址公園)

城の種別

平城(水城)

築城時期

元亀二(1571)年

築城者

明智光秀

主要城主

明智光秀、丹羽長秀

遺構

石垣の一部、移築現存門二基

坂本城址公園の石垣<<2001年11月25日>>

歴史

元亀元(1570)年六月、織田信長は北近江の浅井、越前の朝倉の連合軍と姉川で戦い勝利したが(姉川合戦)、浅井・朝倉軍はその後も抵抗を続け、八月には宇佐山城を攻めて守将の森可成を戦死させ、この年九月には琵琶湖南岸の比叡山に籠城した。信長は比叡山に中立・開城を呼び掛け、浅井・朝倉軍を匿うならば焼き討ちすると通牒した。この年は正親町天皇の勅命により一旦和睦し双方とも撤退したが、翌元亀二(1571)年九月十二日、信長は比叡山に向けて突如侵攻を開始、比叡山の門前町である坂本の町を焼き、学僧、僧兵をはじめ比叡山に逃げた住民など四千名を斬殺、約三千あったといわれる堂塔伽藍はことごとく焼き尽くされた(比叡山焼き討ち)。この後、坂本の治安と近江から京への街道確保のため、信長は明智光秀に志賀郡五万石を与え、宇佐山城から移り新たに坂本城の築城を命じた。坂本城は当時来日していた宣教師、ルイス・フロイスの「日本史」のなかでも、安土城に次ぐ美しい城と礼賛されている。

天正十(1582)年五月、安土城に伺候した徳川家康饗応のため、安土城にいた光秀は、信長より備中高松城攻めの羽柴秀吉に対し援軍として出陣することを命じられた。五月十七日に坂本城に戻った光秀は五月二十六日、坂本城を進発し丹波亀山城で軍備を整え、六月一日夜半に出陣したが、そこで軍を京都に進め、翌六月二日早暁、わずかな供廻りしかいない信長の宿所、本能寺を急襲、信長、信忠父子は自刃した(本能寺の変)。

変の後、光秀は坂本城に入城、安土城や近江の諸城を接収し、近隣土豪や自らの与力大名衆、反信長勢力に協力を呼び掛けたが、細川藤孝、筒井順慶など頼みとしていた武将たちの援軍が得られず、その間に毛利氏との講和をまとめ備中高松城から転進した羽柴秀吉と、六月十三日、山城の山崎付近で激戦となった(山崎合戦)。敗れた光秀は勝龍寺城に籠り、夜間に坂本城を目指して間道を撤退中、伏見郊外の小栗栖の森で土民に襲撃され落命した。光秀の甥、秀満(光春)は安土城でその報を聞き、六月十四日坂本城をめざして撤退を開始したが、陸路は羽柴軍に抑えられていたため、琵琶湖の浅瀬を騎乗で渡り(左馬助の湖水渡り)、坂本城に入城した。しかし、羽柴軍の武将、堀秀政らに包囲され、六月十五日、秀満は明智家の重宝を目録とともに寄せ手に渡した後、光秀の妻子らを刺殺、城に火を放って自らも自刃した。落城した坂本城は後に修復されて、丹羽長秀に与えられたが、天正十四(1586)年、大津城築城にあたり破却され、用材は大津城に移され、坂本城は廃城になった。

天魔の所業、信長の比叡山焼き討ち。信長の苛烈なまでの「破壊と創造」は、国家鎮護、王道仏法の山門にまで及び、堂塔伽藍はことごとく焼かれ、僧侶も避難民も、罪業に関わらず全てが斬り捨てられました。この信長の比叡山焼き討ちを「腐りきった中世的権威の打破」と評価するか、「狂人的な残虐行為」と捉えるかは意見の分かれるところではありますが、どちらも正しい評価といえるのではないでしょうか。当時、叡山の僧兵たちは魚肉を喰らい酒色に溺れ女人をかき抱き、俗人と何ら変わるところがないばかりか、浅井・朝倉連合軍を匿い、公然と信長に叛旗を翻す純武装勢力でもあったわけで、信長としてみれば何が何でも叩いておかなければならない存在であったに違いありません。ただ、それが「撫で斬り」という行為に及ぶにおいては僕個人も「虐殺行為である」という意見に賛同せざるを得ません。百歩譲って当事者たる比叡山の僧侶はいたしかたなし、としても、町を焼き討ちされて逃げ込んだ坂本の住民まで斬り捨ててしまったことは論外でしょう。敵対するものを叩くのは軍事上止むを得ない行為だとしても、非戦闘員と戦闘員は区別されて然るべきでしょう。異論はあると思いますが。

で、その悪夢の叡山焼き討ち後に近江坂本五万石を与えられた光秀の労苦はいかばかりだったでしょうか。城持ち大名に出世した喜びの反目、ことごとく焼かれた坂本の町と湊の復興、民衆の反発、都と琵琶湖の交通の要衝を守る重圧、畿内をめぐる反信長包囲網。すべてが光秀にとって「逆風」ともいえる状況であったはずで、その中で各地を転戦しつつ領国を治める労苦は想像を絶するものがあったにちがいありません。天正十年、信長の甲斐侵攻の際、光秀が「我らも長年の骨折りの甲斐がござった」との発言が信長の耳に入り、激しく殴打されたと伝えられます。これが史実かどうかは別として、「長年の骨折り」があったことは疑うべくもありません。しかし光秀は領国経営を怠ることなく善政を施し、やがて坂本の町衆からも愛される領主になってゆきます。本能寺の変を指して光秀を「天下の大反逆者」と罵るのは簡単ですが、その裏に秘められた人間性というか、苦悩の日々を想うと、どこか光秀に同情してしまうところがあるのです。

坂本城址公園は国道沿いにありますが、想像していたよりはるかに小さい公園で、うっかり通り過ぎてしまうほど。遺構はもはや望むべくも無い、とは思いつつも、せめてそこに城があったことを感じさせる「何か」を期待していたのですが、小さな公園と申し訳程度の解説板、そして妙にデフォルメされた光秀の銅像が建つのみ。湖岸に近寄ると、坂本城の石垣の一部だろうか、高さ1mにも満たない石積みが並んでいることが、わずかにそこに坂本城があったことを教えてくれるのみ。あるいはこれは出土した石垣の石材を並べているのかもしれない。しかし解説も無く、よしんば遺構の一部であるにしても、ルイス・フロイスが安土城に並ぶ美しい城と称賛した面影は全く見られない。琵琶湖の渇水時には湖底の石垣が露出することもあるそうですが、あいにく水は満々としていてその姿も見えず、せめて、静かな波が打ち寄せるわずかな浜辺から、霧に覆われた琵琶湖を眺め、在りし日の坂本城からの風景を心に描こうとするも、無駄な努力でした。残念だが、来るんじゃなかった。

比叡山麓の由緒ある寺、西教寺に残る坂本城移築城門。よくある薬医門形式ですが写真で見るよりはるかに大きいです。真新しく見えるのは、昭和五十九年に修復されているため。 西教寺には明智光秀、その妻煕子、一族郎党の墓がある。
聖衆院来迎寺、もうひとつの移築城門を見る。朝七時を過ぎていたが、門は開いていなかった。随分朝寝坊な寺である。境内には宇佐山城で戦死した森可成の墓もあるとのことですが、門が開いていないため見られませんでした。 坂本城址公園に建つ光秀像だが。。。ちょっとこれはイメージ違いすぎるんじゃないか?デフォルメにしてもあんまりだぞ。。。
坂本城址公園の石垣は往時の残欠か。琵琶湖の異常渇水時に、湖底に沈む石垣が姿を現したそうですが、今は当時を偲ばせるのはこのわずかな石垣のみ。 朝靄に煙る琵琶湖。ここに安土城と比肩する美麗な城が建っていたという。一心にその姿を想像してみたが、やはり僕の脳裏にはその姿は浮かんでこなかった。

 

交通アクセス

JR湖西線「比叡山坂本」駅より徒歩10分。

名神高速道路「大津」IC車20分。

周辺地情報

坂本周辺には比叡山延暦寺をはじめ、日吉大社、西教寺などの寺社仏閣がひしめいています。あくまで城が見たい人は森可成の宇佐山城や近世城郭、膳所城など。僕はまだ見てません。

関連サイト

 

 
参考文献 別冊歴史読本「織田信長その激越なる生涯」(新人物往来社)、「明智光秀」(学研「戦国群像シリーズ」)、「元亀信長戦記」(学研「戦国群像シリーズ」)、、「風雲信長記」(学研「戦国群像シリーズ」)、「ビッグマンスペシャル 織田信長」(世界文化社)、「歴史読本」各号(新人物往来社)、「歴史と旅」各号(秋田書店)、現地解説板
参考サイト 近江の城郭

 

埋もれた古城 表紙 上へ