永禄十一(1568)年、織田信長は第十五代将軍となる足利義昭を奉じて入洛を果たした。当初、義昭は本圀寺を仮御所としていたが、永禄十二(1569)年一月五日、信長不在の隙を突いて三好三人衆が本圀寺を包囲、明智光秀、池田勝正らの奮戦と、岐阜から電撃的な速さで救援に駆けつけた信長によって攻撃を撥ね返した。しかし信長はこの事件の教訓から、より堅固な居館を造営することを決め、二月二日から普請に入り、四月十四日に御所を移転、わずか二ヵ月半の普請で完成させた。普請に当たっては洛中の公家屋敷や寺社から庭石や墓石を強奪して建材に充てた、作業中に通りすがりの女性にちょっかいを出した男を信長が一刀のもとに斬り捨てた、ルイス・フロイスが初めて信長に謁見した、などのエピソードがある。この年正月に、信長は義昭に対し「殿中御掟」を突きつけ、将軍の傀儡化を謀った。義昭は信長懐柔のために朝廷を介して、三月二日、正親町天皇の勅使万里小路惟房と広橋兼勝を派遣して、織田信長に副将軍への就任を要請したが、信長は辞退、官位昇進も辞退した。将軍の権威を剥奪された義昭は信長討伐の御教書を密かに各地の有力大名、寺社に送り、越前朝倉氏、近江浅井氏、甲斐武田氏、比叡山延暦寺、本願寺一向一揆などと同盟し暗躍した。しかしこれらの動きを漏らさず察知していた信長は元亀二(1571)年「五ヶ条の条々」を認めさせた。しかし義昭の暗躍は止まらず、信長は最後通牒として「異見十七ヶ条」を突きつけた。
義昭はそれでも抵抗をやめず、天正元(1573)年二月、甲斐武田信玄の上洛開始に呼応して挙兵、近江石山・今堅田などに砦を築き、二条城の堀を深くして籠城した。信長は二月二十日に岐阜を進発し、石山・今堅田を陥として京に迫り、信長は洛外に放火、講和に応じなければ洛中にも放火すると脅したが、義昭は和議に応じなかったため、信長は上京を焼き討ちにした。京都が焼け野原になる事を恐れた正親町天皇は、翌五日、勅使を信長に派遣し、講和を求め、二十八日講和が成立し、信長は一旦二条城の囲みを解いた。
しかし義昭は七月三日、二条城に幕臣の三淵藤英(細川藤孝の兄)を守将に任じて二条城を脱出、宇治槙島城に立て籠り信長に再度叛旗を翻した。しかし頼みの綱の武田信玄は四月十二日すでに病死していた。七月七日に上洛した信長は三淵藤英の守る二条城を囲み降伏させ、十六日から槙島城の攻撃にかかった。信長勢はこの日全軍をあげて槙島城を攻撃し、義昭は実子を人質に差し出し降伏、義昭は命は助けられたものの京都より退去を命じられ、事実上足利幕府は滅亡した。
幕府滅亡後は一時期、信長の宿所に充てられていたが、天正七(1579)年に誠仁親王の居館として新たに二条新御所を造営し、二条城は解体され新御所の建材、石材となった。