矢文に込められた信玄の戦略

深沢城

ふかざわじょう Fukazawa-Jo

別名:

静岡県御殿場市深沢

城の種別

崖端城

築城時期

不明

築城者

不明(深沢氏?今川氏?)

主要城主

駒井氏、北条氏、三宅氏

遺構

曲輪、空堀、馬出し、土橋、移築門

馬出し周囲の三日月堀<<2002年10月13日>>

歴史

十六世紀の初頭に、今川氏親の命によって築かれたといわれるが、それ以前に葛山氏の庶流と推測される深沢氏の城館があったとも言われる。永正十一(1514)年には今川氏親が甲斐の内紛に介入し、葛山氏、庵原氏、朝比奈氏らを甲斐に派兵しており、その前後に駿河・甲斐・相模の国境地帯と足柄街道を守る城として整備されたと考えられる。

駿河の今川氏、甲斐の武田氏、相模の北条氏は甲相駿三国同盟を結んでいたが、永禄十一(1568)年に武田信玄が駿河府中に乱入し今川氏真を遠江掛川城に追い落とすと三国同盟は解消され、武田氏と北条氏も交戦状態に入った。

元亀元(1570)年四月、北条氏康・氏政父子の兵三万八千が武田方の駒井右京之進昌直が守る深沢城を攻めて奪取、北条氏は北条綱成を城代に任じたが、この年六月より武田側の反撃が始まった。武田勢は一旦は甲斐に引き上げたが、この年の暮れに再度武田軍は深沢城を包囲、翌元亀二(1571)年正月三日には城代の北条綱成に向けて深沢城の開城と北条氏との主力決戦を勧告する「深沢矢文」が射ち込まれた。綱成は開城勧告を蹴って抵抗したが、武田軍は「金堀衆」を投入して城を掘り崩しにかかったため、綱成は援軍を待たずに開城し玉縄城へ退却した。北条氏も奪回を試みたがかなわず、以後は再び武田勢の駒井右京之進昌直が入り、武田氏の駿河支配の一支城となった。
天正十(1582)年二月、織田信長・徳川家康らの甲斐侵攻によって武田氏が滅亡すると、駒井昌直は深沢城を自焼して退去、深沢城は徳川家康の領土となった。

天正十二(1584)年、徳川家康・織田信雄が豊臣秀吉と対峙した「小牧・長久手合戦」において、家康は北条氏への押さえとして深沢城に三宅惣左衛門康貞を置き、以後は北条氏に対する境目の城として機能したが、天正十八(1590)年の小田原の役で北条氏が滅亡し、家康が関東に移封となると、深沢城も廃城となった。

武田・今川・北条の三国が軍事同盟を結んだ「甲相駿三国同盟」は、天文二十三年から永禄十一年まで、約十五年の間機能していましたが、群雄割拠の時代から統一へ向けての戦国末期のうねりの中で、この三国同盟も瓦解していきます。このころ、上杉謙信との長年に渡る信濃の支配を掛けての争いも一段落し、信玄の目はすでに遠く京の都を向いていました。そのためにはなんとしても海に繋がる駿河を手中に収める必要がありました。今川氏は義元の死後跡を継いだ氏真に器量無く、また信玄も迫り来る病魔を感じはじめていた時期でもありました。こうして信玄の駿河侵攻により三国の同盟と同時に武田と北条のお隣付き合いも破棄されるのです。この深沢城の地は、甲相駿三国に国境を接し、足柄道や酒匂川沿いの隘路を抑える交通の要でもあることから、必然的に攻防の舞台となっていく運命にありました。

関東や駿東の各地を転戦していた北条の勇将、「地黄八幡」北条左衛門大夫綱成は動ぜずに抗戦しますが、信玄はその綱成に有名な「深沢矢文」を射ち込んで開城を迫ります。信玄は北条にこれまで度々援軍を出してきたこと、今川氏真追討の正当性の主張、当時北条と同盟を結んでいた上杉謙信が北条にとって頼みとするに足りないこと、三増峠の合戦をよもや忘れていないだろう、と述べた後、
「今度信玄、この表に向い出張、当深沢の地取り詰めらるる儀、あながちに当城を競望するにあらず」として、主力決戦を望み小田原城の援軍要請を勧告します。要するに、「情」に訴え「理」と「利」に訴え、最後に「恫喝」するという、実に信玄という希代の戦略家らしい書状です。この裏では、すでに病で死の床にあった北条氏康と、駿河を事実上ほぼ併呑することに成功し、心は上洛に向いていた信玄の利害が一致し、甲相和睦への道が探られていました。こうした政治的な戦略戦、心理戦でもあったことと思います。

深沢城は抜川と宮沢川が合流する台地突端に築かれており、周囲は急崖というほどではありませんがそれなりに要害地形です。かつては河川の水量ももっと多かったでしょう。各曲輪の虎口には必ず馬出しが設けられ、大規模な三日月堀が見られるなど、武田氏流の築城術が堪能できる貴重な城でもあります。突端部が主郭とされていますが、標高は二郭の方が高いです。「日本城郭大系」では「深沢城の中心は本丸ではなく、むしろ二ノ丸で、本丸は捨て曲輪的性格を持っていたようである」とありますが、本丸が捨て曲輪、というのはあまり聞いたことが無いので、現在二郭と伝えられている場所の方が主郭だった、と考える方が自然なのかも知れません。

城跡はほど農地と化していますが、心ある所有者の方のおかげで遺構はよく残り、見学路も整備されて要所要所に標柱や解説が建っています。ただ、史跡公園などの整備がなされているわけではありませんので、せっかくの大規模な堀が山林化しているのが惜しい気がします。ちょっと不思議だったのが、この手の城では必ずあるはずの土塁がほとんど見られないことでしたが、これは農地化の際に削られたのかもしれません。

ふたつの川の合流点に築かれた深沢城。急崖、というほどではありませんが、川を要害とした典型的な中世城館の立地にあります。 大手口のそばに建つ深沢城址の碑。簡単な解説板もあります。周囲は宅地と農地になっています。背後には山林化した三日月堀が横たわっています。
城址碑の向って右手が大手口。左手に堀があり、直進すると三日月堀を伴う馬出し曲輪に出ます。 馬出し曲輪背後、三郭との間に横たわる三日月堀。この写真の右手が馬出しで、「詩歌の碑」があります。
振り返って三日月堀と大手口を見る。馬出しを伴う三日月堀は武田氏系城郭の特徴のひとつでもあります。 馬出しから三郭へ向う土橋。細かいことですが、こうした土橋などもよく残っております。
三郭以上の曲輪はすべて農地化されています。この三郭には八幡宮の小さな祠があります。 三郭から二郭へ向かう。「下馬溜」と標柱が建っていますが、実質的には二郭虎口を防御する馬出しです。深沢城では主要な曲輪には必ずこうした馬出しが伴います。
下馬溜の馬出しから見る空堀。周囲の谷底まで切り下げられていて、実に規模が大きい。 二郭には「二鶴様式の堀」との標柱が建ちますが、「二鶴様式」とはどのようなものなのかはよくわかりませんでした。堀は残念ながら藪化していてよく見えません。。。

二郭の片隅に建つ「食料庫跡」の標柱。 主郭よりやや標高の高い二郭。考えようによっては、こちらの曲輪の方が主郭だったのでは?とも思います。

二郭から主郭前の馬出しへ向う土橋。両側は藪化していますが深い堀で、その形はよく残っています。 振り返って主郭前の馬出しから二郭を見る。二郭の方が若干高い場所にあることがわかりますね。

主郭前の馬出しはその形状が非常によく見て取れます。周囲は深い堀に囲まれています。 主郭とその馬出し付近の堀。非常に規模が大きく深いのですが、残念ながらここも藪化しています。
広々とした農地になっている主郭。周囲には袖曲輪があります。 主郭の片隅に建つ「城櫓跡」の標柱。なんらかの櫓が建っていたのでしょう。
主郭の西に張り出した曲輪。物見や通信などの役割を持っていたでしょう。 主郭から見る雄大な富士山の姿。この付近から見る富士山、箱根の山々はとても美しいです。

大手門近く、城址碑から道路を挟んだ反対側にも非常に大きな三日月堀があります。ここも見所のひとつですのでお見逃し無く。 城下の曹洞宗の古刹、大雲院に移築された深沢城大手門。関東大震災の時に倒壊し昭和二十五年に再建されました。朝の見学で見逃していたのに気づき、夕方の帰り道に立ち寄りました。
朝からの見学だったのですが、強い朝日の日差しと草木の朝露の乱反射で写真を撮るのに苦労しました。

 

交通アクセス

東名高速道路「御殿場」ICより車10分

JR御殿場線「御殿場」駅より徒歩30分

周辺地情報

裾野市側だと葛山城、県境を越えて神奈川方面では河村城、足柄峠越えルートなら足柄城など。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)、別冊歴史読本「武田信玄の生涯」 (新人物往来社)、小説「武田信玄」(津本陽)、現地解説板

参考サイト

北条五代の部屋日本のお城

 

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