甲斐武田氏への備えの要塞

河村城

かわむらじょう Kawamura-Jo

別名:戸張城、猫山城

神奈川県足柄上郡山北町山北

(河村城址歴史公園)

城の種別 山城

築城時期

平安時代末期(?)

築城者

河村秀高

主要城主

河村氏、上杉氏、大森氏、北条氏

遺構

曲輪、堀切、畝堀、土塁

主郭から見た畝堀<<2002年04月29日>>

歴史

平安時代末期に秀郷流藤原氏の一族、波多野遠義の次男・河村秀高によって築かれたと伝承されるが、これは山麓の居館を指すのであろう.。秀高の子、義秀の代に源平の騒乱が勃発、河村氏は平氏に属したため、鎌倉幕府により一時所領を没収された。しかし建久元(1190)年、鎌倉の鶴岡八幡宮での流鏑馬で義秀は技量を頼朝に認められ、本領河村郷に復帰を許され、さらに文治五(1189)年には奥州平定で義秀の弟・四郎秀清が軍功を立てて奥州岩手・志和・名取に所領を得た。

南北朝争乱期の文和元(1352)年、河村一族は新田義興、脇屋義治の軍勢四千騎とともに河村城に立て籠り、畠山国清を総大将とする足利尊氏の北朝軍と足掛け二年に渡る籠城戦を闘った。しかし、翌文和二(1353)年三月、南岸の合戦で南朝軍は惨敗、河村秀国、秀経をはじめ一族のほとんどは討ち死にし、新田義興は越後に逃れた。

永享十(1438)年に勃発した「永享の乱」では、長尾実景、大石重仲が、鎌倉公方足利持氏と将軍足利義持の朝廷に奔走したが、持氏との関係が悪化した関東管領・上杉憲実に対し、河村城への避難を勧めている。憲実は結局上州平井城に向かい、河村城は持氏に味方する大森伊豆守憲顕によって攻め陥とされた。

明応四(1495)年頃、伊豆韮山城を居城としていた伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原城の大森藤頼を急襲し小田原城を奪取してからは、北条氏の属城となったと考えられる。

永禄十一(1568)年、甲相駿三国同盟が崩壊し、翌永禄十二(1569)年には小田原城が武田信玄の包囲を受ける。また、元亀元(1570)年には駿河深沢城をめぐる対立が発生すると、国境にあたる河村城は大規模な改修を受け、甲斐武田氏の侵攻に備えた。

天正十八(1590)年の小田原の役では守備兵を配置していたであろうが、河村城の戦闘を伝える史料はない。河村城が廃された後は、江戸期には関所が設けられ、人馬の往来の規制を受けた。

僕はこの河村城の沿革をほとんど知らず、たまたま足柄城のことなどを調べていて情報を発見、足柄城のついでに見学したのですが、実は結構中世城郭ファンの間では有名な城で、「隠れた人気城郭」であるようですね。

河村城の起こりは古く、平安時代にまで遡るそうです。その後の南北朝期の動乱では、足掛け二年にわたる攻防を繰り広げ、その堅城ぶりを天下に知らしめたそうです。当時の「管領記」には「河村の城へ人数を遣し責られけれども山嶮にして苔滑らかに人馬に足の立つべき処もなし」と記されているそうです。館は南側山麓の河岸段丘上、谷津の狭まった場所にあり、これが必ずしも河村氏時代のものとは限らないようですが、南北朝期にありながら、根古屋の背後に要害を構えた根小屋・要害一体のスタイル、それも比高が高いだけではない独立丘を用いるところなど、来たるべき戦国時代の様式を先取りしたような当時としては先進的な城郭だったのではないかと思います。

一番興味のある、北条氏の支配下でのこの城の位置付けが気になるところですが、その支配の実態は記録が少なくほとんど分っていません。ただ、元亀年間に大改修が施されていることは注目に値します。この直前、武田信玄の駿河討ち入りによって甲相駿三国同盟は崩壊し、北条氏と甲斐武田氏は緊張状態に突入します。永禄十二年には小田原城は武田信玄の包囲を受けており、またこの元亀元(1570)年には駿河深沢城をめぐる攻防が行われています。こうした緊張状態の中、酒匂川沿いに甲斐・駿河を経て侵攻が可能なこのルートの防備を固めたのは当然と言えば当然なことで、近辺には足柄峠を守る足柄城のほか、浜居場城、新城などの甲斐・駿河方面への境目の城が集中しています。現在でも、御殿場方面に抜ける東名高速道路が走り抜ける要衝です。

地勢としては、蛇行する急流の酒匂川、皆瀬川などに守られた独立丘で、比高は130mほどながら複雑に浸食する谷と急斜面に守られて、パッと見た目よりもかなりの要害という印象でした。城域そのものの規模も大きく、主要な城域のほかに、尾根続きの浅間山(アンテナのような物が建っている)、谷津を挟んだ丸山なども出城として使われていたかと思います。遺構として何といっても目立つのは大きな畝堀。山中城のような複雑な技巧はありませんが、規模の大きい堀切と畝堀はなかなかの見応えがあります。この畝堀のある茶臼曲輪、小曲輪、本城曲輪周辺は非常に整備の行き届いた公園になっています。反面、周囲の馬出曲輪、蔵曲輪などは山林化して、遺構をはっきり確認することはできません。蜜柑畑になっている大庭曲輪方面への歩道もありますが、ここで注目したのは近藤曲輪と蔵曲輪の間の大堀切。かなり規模が大きく、かつ堀底は湿地状になっています。馬出曲輪周辺の通称「馬洗場」付近も湿生植物の繁殖が見られ、山城では困難な水の手の確保が豊かな湧水によってまかなわれている事がわかります。この主要部の遺構を見る限り、かなり大々的に北条氏の手が入っていることが伺われます。

この日、山北の駅前にある交番で登城口を聞くつもりでいたのに、お巡りさんは巡回中。交番の中の電話を使って場所を聞くが、本当に場所を知らないのか、それともめんどくさいだけなのか、曖昧な返事でまともな回答が帰ってこない。最後には「あんた、そんなところ行ったって何もないよ」だと。結局スッタモンダの挙句、南側の蜜柑畑方面からの道を聞き出したのですが、あとで地元のおばあさんに聞いたら駅の真裏に遊歩道があり、案内板もたくさん建っているとのこと。一応電話で応対してくれたお巡りさんも嘘を言っていたわけではないと思うし、それなりに調べてはくれたんでしょうが、何となく「いろいろな話題を振りまく県警の仕事のやり方」に触れてしまったような気がしました。一所懸命頑張ってる大多数のお巡りさん、気を悪くしないでくださいね。でも率直な感想です。

で、その教えてもらった道は大手口に繋がる道で、途中の道端で古い館跡なども見れて、決して「ハズレ」ではないのですが、もともと蜜柑畑の農道なもんだから、狭い・カーブがきつい・急斜面の連続、車の底をこするほどの急斜面との闘いとなりました。なにせ車をどこかに停めようにも停める場所すらない狭さ。一応大手コースではありますが、素直に駅前からのハイキングコースを歩くことをオススメしておきます。

山北駅の跨線橋から見上げる河村城。東西に長い丘は、この距離からじゃとても全景は写真に収まりません。独立丘の尾根全体を城郭化した、大城郭です。 主郭付近は木々に遮られ、あまり眺望が良くなかったので、途中の蜜柑畑から。蛇行する酒匂川が天然の外堀として、堅固な城をさらに堅固にしています。
南麓の段丘上の谷津にあった館跡。「土佐屋敷」であるらしいですが、城主のなかに「土佐」を名乗った人物がいたかどうかは分りません。 曲がりくねった急な農道を登ると、大手口。何の変哲も無い畑の道みたいなもんですが、この坂を登ると大庭曲輪(畑ですが)に出ます。
畑の中を縫って歩いて、主郭へ。よく整備されていて、ゴルフができるくらい広いのですが、ホントに練習しているオヤジがいたのには驚いた。やめなさいって一応公園なんだから。 主郭周辺は模擬木戸や石碑、解説板が建ち、よく整備されています。解説板も充実。これで主郭周囲だけじゃなく、全部整備されてたら言うことありません。
主郭と、北の尾根筋の小曲輪の間の堀。写真ではやや分りづらいですが、キレイな畝堀です。近くで写真を撮ろうとして、畝堀の中に滑落しました(笑)。 こちらは小曲輪と茶臼曲輪の間の畝堀。水が溜まっています。本来畝堀は、こういう風に水や泥、ヘドロが溜まることでさらに防御力が増すんですね。

その畝堀の端にある「姫井戸」。井戸と言うよりも畝堀の一部にしか見えません。これって湧水なんでしょうか?

主郭西側のちょっとした谷津は「馬洗場」と言われています。山の頂上に近い場所ながら、湿地のような場所です。この写真は土橋でしょう。

馬出曲輪、蔵曲輪などは山林化していて遺構の全体像は掴めません。「馬出」という表現が適切なのかどうか、多少疑問もありますが、なにせ藪なのでよくわかりませんでした。 蔵曲輪と近藤曲輪の間の大堀切。深さ4m、幅24mという、ちょっとした曲輪並みの広さ。ここも湿地の面影を残していて、この山の湧水の豊富さがわかります。
駿河との国境方面を望む。河村城はこの方面からの武田氏の侵攻に備える、重要な要塞だったのでしょう。 取り立てて驚くほどの景色ではないのですが、富士山。ちょっとガスってますね〜。空気が澄んでいれば絶景なんでしょうね。

 

 

交通アクセス

東名高速道路「大井松田」IC車10分。

JR御殿場線「山北」駅徒歩10分。

周辺地情報

同じ町内の新城、ちょっと足を伸ばして足柄峠を抑える足柄城など。

関連サイト

山北町のサイトに「河村城跡〜洒水の滝ガイドマップ」という素晴らしい散策マップがあります。しっかり縄張りも出ています。

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、現地解説板

参考サイト

北条五代の部屋山北町のサイト「河村城跡〜洒水の滝ガイドマップ

 

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