僕はこの河村城の沿革をほとんど知らず、たまたま足柄城のことなどを調べていて情報を発見、足柄城のついでに見学したのですが、実は結構中世城郭ファンの間では有名な城で、「隠れた人気城郭」であるようですね。
河村城の起こりは古く、平安時代にまで遡るそうです。その後の南北朝期の動乱では、足掛け二年にわたる攻防を繰り広げ、その堅城ぶりを天下に知らしめたそうです。当時の「管領記」には「河村の城へ人数を遣し責られけれども山嶮にして苔滑らかに人馬に足の立つべき処もなし」と記されているそうです。館は南側山麓の河岸段丘上、谷津の狭まった場所にあり、これが必ずしも河村氏時代のものとは限らないようですが、南北朝期にありながら、根古屋の背後に要害を構えた根小屋・要害一体のスタイル、それも比高が高いだけではない独立丘を用いるところなど、来たるべき戦国時代の様式を先取りしたような当時としては先進的な城郭だったのではないかと思います。
一番興味のある、北条氏の支配下でのこの城の位置付けが気になるところですが、その支配の実態は記録が少なくほとんど分っていません。ただ、元亀年間に大改修が施されていることは注目に値します。この直前、武田信玄の駿河討ち入りによって甲相駿三国同盟は崩壊し、北条氏と甲斐武田氏は緊張状態に突入します。永禄十二年には小田原城は武田信玄の包囲を受けており、またこの元亀元(1570)年には駿河深沢城をめぐる攻防が行われています。こうした緊張状態の中、酒匂川沿いに甲斐・駿河を経て侵攻が可能なこのルートの防備を固めたのは当然と言えば当然なことで、近辺には足柄峠を守る足柄城のほか、浜居場城、新城などの甲斐・駿河方面への境目の城が集中しています。現在でも、御殿場方面に抜ける東名高速道路が走り抜ける要衝です。
地勢としては、蛇行する急流の酒匂川、皆瀬川などに守られた独立丘で、比高は130mほどながら複雑に浸食する谷と急斜面に守られて、パッと見た目よりもかなりの要害という印象でした。城域そのものの規模も大きく、主要な城域のほかに、尾根続きの浅間山(アンテナのような物が建っている)、谷津を挟んだ丸山なども出城として使われていたかと思います。遺構として何といっても目立つのは大きな畝堀。山中城のような複雑な技巧はありませんが、規模の大きい堀切と畝堀はなかなかの見応えがあります。この畝堀のある茶臼曲輪、小曲輪、本城曲輪周辺は非常に整備の行き届いた公園になっています。反面、周囲の馬出曲輪、蔵曲輪などは山林化して、遺構をはっきり確認することはできません。蜜柑畑になっている大庭曲輪方面への歩道もありますが、ここで注目したのは近藤曲輪と蔵曲輪の間の大堀切。かなり規模が大きく、かつ堀底は湿地状になっています。馬出曲輪周辺の通称「馬洗場」付近も湿生植物の繁殖が見られ、山城では困難な水の手の確保が豊かな湧水によってまかなわれている事がわかります。この主要部の遺構を見る限り、かなり大々的に北条氏の手が入っていることが伺われます。
この日、山北の駅前にある交番で登城口を聞くつもりでいたのに、お巡りさんは巡回中。交番の中の電話を使って場所を聞くが、本当に場所を知らないのか、それともめんどくさいだけなのか、曖昧な返事でまともな回答が帰ってこない。最後には「あんた、そんなところ行ったって何もないよ」だと。結局スッタモンダの挙句、南側の蜜柑畑方面からの道を聞き出したのですが、あとで地元のおばあさんに聞いたら駅の真裏に遊歩道があり、案内板もたくさん建っているとのこと。一応電話で応対してくれたお巡りさんも嘘を言っていたわけではないと思うし、それなりに調べてはくれたんでしょうが、何となく「いろいろな話題を振りまく県警の仕事のやり方」に触れてしまったような気がしました。一所懸命頑張ってる大多数のお巡りさん、気を悪くしないでくださいね。でも率直な感想です。
で、その教えてもらった道は大手口に繋がる道で、途中の道端で古い館跡なども見れて、決して「ハズレ」ではないのですが、もともと蜜柑畑の農道なもんだから、狭い・カーブがきつい・急斜面の連続、車の底をこするほどの急斜面との闘いとなりました。なにせ車をどこかに停めようにも停める場所すらない狭さ。一応大手コースではありますが、素直に駅前からのハイキングコースを歩くことをオススメしておきます。