大国の狭間で苦労した駿東の在地領主
葛山城
かずらやまじょう Kazurayama-Jo
別名:
静岡県裾野市葛山
(仙年寺裏山周辺)
山城
築城時期
不明
築城者
葛山氏
主要城主
遺構
曲輪、堀切、土塁、居館跡
葛山城遠景<<2002年10月13日>>
歴史
築城時期は定かではないが、室町期に駿東一帯を支配した大森氏が小田原城に本拠を移した際に、一族の葛山氏が居住したと言われる。 葛山氏は国人衆として駿河守護職の今川氏の被官となっていたが、富士川以東は今川氏の直接支配は及ばず、葛山氏は半独立勢力であった。応永二十三(1416)年の上杉禅秀の乱に際しては、今川範国の軍勢に組み入れられ、永享十(1438)年の永享の乱に際しても、今川範忠の配下で足利持氏攻撃の先方として出陣している。 延徳三(1491)年、興国寺城にいた伊勢新九郎(北条早雲)が伊豆に討ち入り堀越御所を急襲、足利茶々丸を討った際も、今川氏に命じられて援軍として参加している。その後、葛山氏は早雲の次男、氏時を養子として迎えている。永正十一(1514)年には今川氏親が甲斐の内紛に介入し、葛山氏も甲斐に出陣した。大永六(1526)年に北条氏綱と武田信虎が籠坂峠で争った際も北条方に与していたと見られる。葛山氏元はのちに北条氏綱の息女を娶っている。天文五(1536)年、今川義元が武田信虎と和睦したことに怒った北条氏綱が駿東に侵出(河東一乱)した際には、北条に与していたと思われる。 永禄十一(1568)年、武田信玄が駿河に侵攻すると、葛山氏元は朝比奈・三浦・瀬名氏らとともに武田に内通した。翌永禄十二(1569)年には北条方の富士兵部少輔信忠の大宮城を包囲し、開城させている。その後の蒲原城攻撃でも先方の一翼を担ったが、恩賞に不満を持った氏元は武田氏に兄謀反を企てたのを武田に察知され、幽閉の後諏訪の地で斬られたという。氏元の死後は信玄の六男・信貞が葛山氏を嗣いだが、天正十(1582)年二月に武田氏は滅び、信貞も甲斐善光寺で自刃、葛山氏は断絶し葛山城も廃城となった。
葛山城主の葛山氏は大森氏の一族で、今川氏に仕えながらも富士川以東を領する半独立領主でした。この大森氏とは、のちに北条早雲に小田原城を奪われる、あの大森氏です。今川氏と北条氏が甲斐の武田信虎と対抗していた時代には、この両者に挟まれてそれなりに安泰だったのですが、今川義元と武田信虎が和睦し、これに怒った北条氏綱が駿東に侵出しはじめると、葛山氏も苦しい立場に追い込まれます。やがて今川氏が衰退すると葛山氏は武田信玄と北条氏康の間で二股を掛けますが、やがて信玄により誅殺されたといわれます。この経緯については諸説あり、はっきりしない面もあるのですが、いずれにせよ名門とはいえ、強大な勢力に挟まれた在地土豪の立ち回りの難しさ、末路の哀れさを感じます。
葛山城はもうちょっと高い山かと思っていましたが、山と言うよりも小丘陵で、麓の仙年寺から約5分で尾根上の城域に到達します。この仙年寺は葛山氏の菩提寺で、葛山氏の墓所もあります。すぐ近くには葛山氏の平時の居館や重臣の居館などがあり、中世の在地土豪の居館、菩提寺、要害がそれぞれよく残っている、貴重な地区と言えるでしょう。方形の居館も周囲の土塁が非常によく残っており(一部復元)、居館と要害がセットになった「根古屋式城郭」の特徴を非常によく見ることができます。要害部は決して規模は大きくないものの、主郭の東西の尾根をそれぞれ二重の堀切で断ち切っていたり、連続竪堀が見られるなど、小ぢんまりした中にも様々な技法を見ることができ、中世城郭の様相を要領よく見ることができます。派手さはないもののお勧めの一城です。
交通アクセス
東名高速道路「裾野」ICより車10分
JR御殿場線「岩波」駅より徒歩40分
周辺地情報
深沢城がなかなか良かった。
関連サイト
参考サイト