仁科領の南の固め

西山城

にしやまじょう Nishiyama-Jo

別名:

長野県北安曇郡松川村川西〜大町市常盤

 

城の種別

山城

築城時期

不明(室町時代?)

築城者

仁科氏

主要城主

矢口氏?

遺構

曲輪、堀切、竪堀、土塁

「二の曲輪」背後の連続堀切<<2005年09月17日>>

歴史

築城時期は明らかでない。仁科氏が館之内仁科氏館から天正寺仁科氏館へ移った後に南方に備える内城として使われたという。城主は仁科氏家臣の矢口氏と伝えられ、明応十(1501)年二月十一日の「三宮穂高社御造宮定日記」に造営奉行として矢口備後守知光の名があるが、西山城との関係は定かではない。近世松本藩による「信府統記」においては矢口筑前が在城していたとされる。

西山城は大町市と松川村の境にあり、西から東へ長〜い峰が突出しているのが遠目でも印象的です。ここは山麓から自然遊歩道がついており、山の中の下草も比較的少なく、歩きやすいお城ではあります。

この西山城、仁科氏の一族である矢口氏の居城ということですが、単なる一族・家臣のお城とは思えぬほどの大規模なもので、もしかしたら仁科氏の本家直轄だったのか?とも思わせるものがあります。仁科氏の直轄領は高瀬川沿いの現在の大町市域あたりで、ちょうどこの西山城はその「仁科帝国」の南側の入口を固める位置にあり、突出した尾根は仁科領の防衛線として、戦略的にも戦術的にも重要な位置にあると考えられます。

その遺構は大雑把に分けて、ふたつの城域に分かれます。山麓に近い東側の標高790m附近の尾根先端部の山城は現地では「二の曲輪」とされています。さらにここから緩やかな尾根筋を西へ800mほど歩くと、標高870mの「城山」山頂に至ります。この間の尾根はダラダラ坂が続くのですが、城郭遺構らしきものはほとんどありません。この城山山頂付近の遺構が「一の曲輪」とされる山城で、北向きの尾根を正面として築かれています。この二つの「曲輪」は、曲輪などというレベルのものではなく、それぞれが完全に独立・完結した縄張りを持っているもので、「別城一郭」に近い考え方を持っています。「一の曲輪」「二の曲輪」というよりは「東城」と「西城」あるいは信濃に多い「上の城」「下の城」とか「大城」「小城」などの呼び名のほうが適切と思われるほどです。

東城(二の曲輪)の方は段郭と堀切主体の縄張りで、東側の山裾を正面とし、「二の曲輪」(図では東城のT)を「主郭」としています。このあたりまでで東城の縄張りとしては立派に完結しています。これはこの曲輪の背後の土塁や二重堀などを見れば納得してもらえる筈です。

これに対する西城は、竪堀や横堀を配置した、この地方ではやや異色な縄張りを持つお城で、「武田氏の手が入っている」という説もあります。武田氏がわざわざこの高い山に新城を作る意味があったのかどうかは疑問もありますが、動向のあやしい仁科氏を牽制するための「目付」的な意味合いのあるお城であったかもしれません。現に仁科氏は一族の反武田敵行動があり、仁科盛政は永禄十(1567)に甲府で殺害されています。武田氏は占領地において、もともとの領主の居城のすぐそばに目付的な新城を作るケースが他にもあり、そういう意味でも興味深いものがあります。こちらは敵の攻撃正面を北側の尾根に想定しており、この点でも東城とは明らかに築城意図が違うことを感じさせます。

登山ルートは北側の尾根から登るルートと、東側の山の先端から登るルートがありますが、ソレガシは後者をとりました。県道沿いに案内があるので、登城口はわかりやすいです。このルートはつづら折の急坂を経てVへ至るのですが、これが本来の大手口と思われます。途中道が分岐して、「いもり池」なる水の手もあります。「三の曲輪」まで登ってしまえばあとは比較的楽な尾根道が続きますが、「一の曲輪」までの道のりは結構遠く、ダラダラ登りは意外に時間がかかります。一帯は自然遊歩道として整備されていますが、やはりというか、クマの出没があるようで、主郭の神社の社殿はなんと木の上からダイブしたクマによって、屋根が壊されてしまったそうです。ここに限らず、信濃の山城めぐりの際は最低限、クマベルやラジオなどのクマ対策は必須のようです。

[2005.12.04]

西山城西側遺構群平面図(左)、東側遺構群平面図(中)、鳥瞰図(右)

※クリックすると拡大します

平地に突き出した長い尾根が印象的な西山城。「一の曲輪」を中心とした西側の山城、「二の曲輪」を中心とした東側の山城の複合山城です。 東側の山の先端から登山道があり、看板などもあってわかりやすい。このつづら折の坂道は本来の大手道でしょう。
登山道途中で分岐すると、「いもり池」が。水の手なんでしょうが、イモリが泳ぐ池の水は飲む気がしないなあ・・・。ちなみにこの日はイモリはいませんでした。 山の先端、三の曲輪」(東城のV)。物見を兼ねた前衛陣地といったところでしょうか。
三の曲輪背後には早速堀切(東城の堀1)が。堀そのものは2.5m程度ですが、鋭さはあります。 東城のU曲輪、といってもあまり削平状態はよくありません。小さな段々が何段も続きます。
東城の主郭にあたる「二の曲輪(東城のT)」の手前の堀切3。こちらもなかなか鋭い。 「二の曲輪」とされる東城のT。土塁や背後の大堀切を見る限り、この東城はここまでで立派にひとつの山城として完結しています。
「二の曲輪」に井戸、といっても何だかよくわかりませんでしたが・・・。 「二の曲輪」から見下ろす連続堀切(堀4・5)。10mほどの高さがあり、圧巻です。このお城の最大の見所かも。
堀4の堀底から。堀の断面は急峻かつ生々しく、迫力満点です。 さらに西へ向かうと小さな堀6が。このあたりまでが東城で、ここから暫くダラダラ登りの自然の尾根が続きます。
尾根の途中のピークにある鎧懸松。地形的には何かあっても不思議ではないのですが、城郭遺構らしきものはありません。 暫く歩いてやっと見えてきた西城の堀切1。ここから一気に急坂と小段郭を登ると、西城の主郭「一の曲輪」に達します。
「一の曲輪」の神社。屋根が修理中ですが、これは社殿の中の蜂の巣を狙ったクマが木の上からダイブして壊してしまったんだとか。クマの生態を知る上でも面白い話ですが、ひとりで修理していたオジサン、どうかお気をつけて。 西城の縄張の特徴の一つでもある横堀(堀5)。主郭の西側は三段の横堀があります。しかしヤブが・・・。
主郭南側の段郭。竪堀などもあります。 西側の尾根続きの堀4。あまり深いものではありません。このお城は西側の尾根続きには意外と無防備です。
主郭北側の堀6。横堀状の堀5と合流します。 西城の北側のU曲輪。ここは段々の曲輪がずっと続いています。
北側の堀7。急峻な斜面を竪堀がずっと先まで伸びています。 さらに北側の段々。この西城は北側に対する備えが厳重です。

 

 

交通アクセス

長野自動車道「豊科」ICより車30分。

JR大糸線「安曇沓掛」駅から徒歩20分で登り口。バス等は不明。  

周辺地情報

城址公園になっている小岩嶽城、雄大な岩原城などが近い。市街地には天正寺仁科氏館もあります。なおこの近辺の山は止山(入山禁止)区域が多いので山に入る前に地元の人に確認を。クマ対策も。

関連サイト

 

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「信州の山城」(信濃史学会編/信毎書籍出版センター)

参考サイト

 

 

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