西山城は大町市と松川村の境にあり、西から東へ長〜い峰が突出しているのが遠目でも印象的です。ここは山麓から自然遊歩道がついており、山の中の下草も比較的少なく、歩きやすいお城ではあります。
この西山城、仁科氏の一族である矢口氏の居城ということですが、単なる一族・家臣のお城とは思えぬほどの大規模なもので、もしかしたら仁科氏の本家直轄だったのか?とも思わせるものがあります。仁科氏の直轄領は高瀬川沿いの現在の大町市域あたりで、ちょうどこの西山城はその「仁科帝国」の南側の入口を固める位置にあり、突出した尾根は仁科領の防衛線として、戦略的にも戦術的にも重要な位置にあると考えられます。
その遺構は大雑把に分けて、ふたつの城域に分かれます。山麓に近い東側の標高790m附近の尾根先端部の山城は現地では「二の曲輪」とされています。さらにここから緩やかな尾根筋を西へ800mほど歩くと、標高870mの「城山」山頂に至ります。この間の尾根はダラダラ坂が続くのですが、城郭遺構らしきものはほとんどありません。この城山山頂付近の遺構が「一の曲輪」とされる山城で、北向きの尾根を正面として築かれています。この二つの「曲輪」は、曲輪などというレベルのものではなく、それぞれが完全に独立・完結した縄張りを持っているもので、「別城一郭」に近い考え方を持っています。「一の曲輪」「二の曲輪」というよりは「東城」と「西城」あるいは信濃に多い「上の城」「下の城」とか「大城」「小城」などの呼び名のほうが適切と思われるほどです。
東城(二の曲輪)の方は段郭と堀切主体の縄張りで、東側の山裾を正面とし、「二の曲輪」(図では東城のT)を「主郭」としています。このあたりまでで東城の縄張りとしては立派に完結しています。これはこの曲輪の背後の土塁や二重堀などを見れば納得してもらえる筈です。
これに対する西城は、竪堀や横堀を配置した、この地方ではやや異色な縄張りを持つお城で、「武田氏の手が入っている」という説もあります。武田氏がわざわざこの高い山に新城を作る意味があったのかどうかは疑問もありますが、動向のあやしい仁科氏を牽制するための「目付」的な意味合いのあるお城であったかもしれません。現に仁科氏は一族の反武田敵行動があり、仁科盛政は永禄十(1567)に甲府で殺害されています。武田氏は占領地において、もともとの領主の居城のすぐそばに目付的な新城を作るケースが他にもあり、そういう意味でも興味深いものがあります。こちらは敵の攻撃正面を北側の尾根に想定しており、この点でも東城とは明らかに築城意図が違うことを感じさせます。
登山ルートは北側の尾根から登るルートと、東側の山の先端から登るルートがありますが、ソレガシは後者をとりました。県道沿いに案内があるので、登城口はわかりやすいです。このルートはつづら折の急坂を経てVへ至るのですが、これが本来の大手口と思われます。途中道が分岐して、「いもり池」なる水の手もあります。「三の曲輪」まで登ってしまえばあとは比較的楽な尾根道が続きますが、「一の曲輪」までの道のりは結構遠く、ダラダラ登りは意外に時間がかかります。一帯は自然遊歩道として整備されていますが、やはりというか、クマの出没があるようで、主郭の神社の社殿はなんと木の上からダイブしたクマによって、屋根が壊されてしまったそうです。ここに限らず、信濃の山城めぐりの際は最低限、クマベルやラジオなどのクマ対策は必須のようです。
[2005.12.04]
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西山城西側遺構群平面図(左)、東側遺構群平面図(中)、鳥瞰図(右)
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