鎌倉時代に三浦氏の一族である筑井為行(筑井太郎二郎義胤)によって築城されたといわれる。戦国初期には北条早雲が家臣、内藤左近将監景定を城主として送り込み整備、「津久井衆」といわれる家臣団を組織して主に甲斐からの侵攻に備えた。大永四(1524)年、北条氏綱が江戸城奪取のために高輪原でに布陣し扇谷上杉朝興と対峙したときに、上杉氏の呼び掛けに応じた武田信虎が津久井城を攻めている。その後も武田氏による度々の侵攻を受け「敵半地」と呼ばれて北条・武田両氏が入り組んだ支配を行っている。
永禄十二(1569)年の武田信玄による小田原城攻めでは、小田原の守りが固いと見るやすぐさま撤兵、津久井城の南方3kmの三増峠経由での帰路についたが、北条氏照・氏邦兄弟が迎撃し山岳地帯での激戦となった(三増峠合戦)。その際に武田氏は後詰の遮断と帰路の確保を目的に小幡氏の手勢に津久井城を囲ませたため、城主・内藤景豊は籠城を余儀なくされた。
天正十八(1590)年の小田原の役では城主・内藤景豊は小田原城に籠城し、津久井城には老臣ら百五十騎が籠城したが、徳川勢・本多忠勝、平岩親吉ら一万一千の攻撃を受け降伏開城、その後廃城となった。山頂には江戸末期の文化十三(1813)年建立の古城碑が建っている。