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小山氏初期の居館の名残り

曲輪

                                                  

くるわ Kuruwa

別名:小山義政屋敷、宿城

JR東北線線路脇の土塁】

<<2003年06月15日>>>

所在地
栃木県小山市神山一丁目
埋もれた古城マップ:栃木編
交通アクセス

東北自動車道「佐野藤岡」IC車20分。

JR東北新幹線・東北線・水戸線「小山」駅から徒歩10分。

行き方・注意点

小山パレスホテルの東約100m、第二境街道踏切の東南側に土塁と石碑がある。

【基本情報】

築城年 平安時代末期 主要遺構 土塁の一部
築城者 小山氏 標/比/歩 標37/比0/歩0m
主要城主 小山氏 現況 宅地・線路

【歴史】

小山氏初期の居館と考えられるがその成立時期は不明。小山氏は藤原秀郷に発し、その五代後の兼行・行尊の代に足利大夫(藤姓足利氏)・大田大夫(小山氏の祖)の二家に分かれた。当初小山氏は武蔵大田荘を本拠とし、大田姓を名乗ったが、行尊の孫に当たる政光の代に小山四郎と名乗っていることから、平安末期に小山に本拠を移したと考えられる。

小山氏は当初、藤姓足利氏と対立していたが、寿永二(1184)年の「志田義広の乱」の野木宮合戦において小山氏を中心とした源頼朝軍が勝利し、木曽義仲と結んだ志田義広は敗退、藤姓足利氏も没落し、小山氏の基盤が固まった。小山政光は妻が頼朝の乳母だったこともあり、頼朝の信頼を得て下野守護職に任じられ、平氏攻めや奥州藤原氏討伐にも戦功を挙げた。

南北朝期初期には、小山秀朝は足利尊氏に与していたが、建武二(1335)年、北条高時の遺児・時行が反乱を起こし鎌倉に攻め入った際に、武蔵府中でこれを迎え撃ったが戦死した(中先代の乱)。その子朝氏も足利尊氏に与していたが、延元二(1337)年、奥州から攻めてきた南朝の北畠顕家に敗れて生け捕えられ、その後南朝に与していたため、弟の氏政と対立、貞和二(1346)年に朝氏が死去するまで対立が続いた。その後は氏政が小山氏を嗣いで家中の統一を図った。小山氏政は終始北朝軍として足利尊氏に従い活躍した。

康暦二(1380)年五月十六日、小山義政は下野裳原(茂原)で宇都宮基綱と戦い、小山軍は二百三十名を超える戦死者を出したが、宇都宮軍は大将の基綱はじめ弟、重臣など八十名が討ち取られ敗走した(裳原合戦)。事態を重く見た鎌倉公方・足利氏満は六月一日、関東八カ国および奥州に布令して、関東管領上杉憲方を総大将に、上杉朝宗、木戸法季らを命じ祗園城を攻めさせた。八月十二日に大聖寺にて陣取り合戦、八月二十九日には小山義政屋敷西木戸口、鷲城で合戦となり、九月二十一日、義政は宇都宮氏との争いで兵力を損耗していたため降伏した。鎌倉府の軍勢は九月二十九日に撤退した(第一次小山義政の乱)。この後、二度にわたる小山義政の乱、その子若犬丸による「小山若犬丸の乱」ではこの屋敷は出てこない、おそらく第一次の小山義政の乱での鎌倉府軍の攻撃によって落城し、廃城となったものであろう。

【雑感】

しかしまあ「曲輪」ってのはまたざっくりした。大雑把な名前ですなぁ(笑)ここは小山氏の初期の居館、平時の居館であったようで、いざ事があると祗園城鷲城に立て籠もるらしいですが、祗園城鷲城も、普通に居住してても何の不都合もなさそうに見えるけどなぁ。。。まあ、ある時期まで平時の居館だったことは間違いなさそうです。「小山義政の乱」では「小山義政屋敷西木戸口」での合戦が伝えられ、その小山義政屋敷がここだということでもあります。おそらく、初期の方形居館に過ぎないこの場所では、攻防といってもそれほどの防御力はなかったでしょうね。多分この時に焼き払われて、そのまま廃城になったでしょう。

小山氏は藤原秀郷の後裔であり、もともとは武蔵大田荘が本拠であったそうです。いつの頃からかこの小山に本拠を移し、同族である藤姓足利氏との対立を経て、「志田義広の乱」平定でその地盤を揺るぎないものとしました。小山政光の妻、寒川尼は源頼朝の乳母であったこともあり、小山氏は頼朝の信頼を得て下野守護としてその磐石の地位を固めて行きます。小山氏に暗雲が立ち込めてくるのは鎌倉幕府お得意の権力闘争「二月騒動」あたりからで、時の執権・時宗の庶流の兄である北条時輔が小山長村の娘を娶っていた関係で、北条得宗家の権力争いにも巻き込まれてしまったようです。小山氏がどのように振舞ったかはわかりませんが、断絶したり追討されているわけではなさそうなので、この難局をなんとか乗り切ったのでしょう。時代が変わって南北朝時代に移ると、北条時行の反乱(中先代の乱)で小山秀朝が武蔵府中で討ち死に、南朝に与した小山朝氏と北朝に与した弟・氏政の兄弟の争いなど、だんだんキナ臭くなってきます。これらのゴタゴタが後の「小山義政の乱」の伏線になってくるのです。

現状は「曲輪」の中はほとんどが市街地している上、JR東北線が分断していることもあり、方形のプランの全貌を見ることはほとんど不可能です。が、JRの踏切脇には高さ3m以上はあろうかと思われる土塁が一直線に50mほど残っていて、ここだけが往時の姿を残してくれています。ここだけ、といっても、鎌倉〜室町時代初期の居館で、しかも市街地化が激しい都市の中で残ってくれたのですから、むしろこれほど残っていることの方が奇跡みたいなものです。一応きちんと標柱も建っていますし。敢えて遠くから見に来るほどではないかもしれませんが、小山駅の南、「小山パレスホテル」東側の踏切付近になりますのでご参考までに。

踏切の東南、住宅地の中に建つ「史跡曲輪跡」の碑。小山市って結構まじめにこういう標柱建ててるんですね。感心しました。 民家と線路の間に延びた土塁。間は堀跡でしょうか。初期の居館といっても、土塁の高さはなかなか見事なものです。
訪城記録

(1)2003/06/15

(2)2009/07/12

参考サイト

 

参考文献

「鷲城・祗園城・中久喜城」(鷲城・祇園城跡の保存を考える会/随想舎)

推奨図書

鷲城・祇園城・中久喜城―小山の中世城郭 (ずいそうしゃ新書 (2))

小山氏の歴史と周辺の城郭を知る基本の一冊。

周辺地情報

祗園城鷲城は必見、時間と興味があれば長福城中久喜城なども。

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