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思川大城砦ネットワーク

長福城

                                                  

ちょうふくじょう Choufuku-Jo

別名:長福寺城、新城

やはた公園の城址碑

<<2002年09月02日>>

所在地
栃木県小山市八幡町
埋もれた古城マップ:栃木編
交通アクセス

東北自動車道「佐野藤岡」IC車20分。

JR東北新幹線・東北線・水戸線「小山」駅から徒歩15分。

行き方・注意点

八幡町一丁目の「やはた公園」に城址碑。周囲のグラウンド・宅地・山林に遺構が散在するが残存状況は悪い。周辺の大半は宅地なので見学時に配慮が必要。

【基本情報】

築城年 永徳元(1381)年頃(?) 主要遺構 土塁、空堀の一部
築城者 小山義政(?) 標/比/歩 標34/比0/歩0m
主要城主 小山氏 現況 宅地・農地・山林

【歴史】

長福城の築城時期は明らかではない。三回に渡った小山義政の乱のうち、永徳元(1381)年の「第二次小山義政の乱」において、鷲城を拠点に抵抗する小山義政軍に対し、足利氏満軍の攻撃によって八月十八日には鷲城の外城および「新城」が陥落したという、この「新城」が長福城を指すと思われる。

この乱の平定後の長福城については不明。

【雑感】

小山氏が思川周辺にたくさん保有しているお城の中でも、長福城はその立地から、その使用目的や築城意図が自ずから推測できるお城です。なんといっても小山氏のふたつの重要拠点である祗園城鷲城のほぼ真ん中、どちらのお城にも700mほどしか離れていない上、「第二次小山義政の乱」において陥落した「新城」と見られることから、「第一次」の教訓を生かして、より堅固な城郭ネットワークを形成するために急遽取り立てたお城であろうということが伺えます。「第一次」では、宇都宮氏との抗争「裳原合戦」で二百名を超える戦死者を出した直後で疲弊していたこともあり、長期にわたる抗戦のためには鷲城をはじめ広域の城郭ネットワークを以って持久戦に持ち込もう、という意図があったのでしょう。特に「第二次」においてはあらかじめ鷲城を主戦場と想定し、重点的に鷲城の守りを固めていることから、寄せ手の背後を脅かし、糧道や連絡路を確保する、重要な砦であったと考えられます。祗園城鷲城の「つなぎの城」という見方もありますが、軍の移動・連絡を主目的とする「つなぎの城」というには距離が近すぎる気がします。むしろ鷲城祗園城と一体化した出城、あるいは思川東岸を要塞化する「思川大城郭群」構想のようなものが浮かんできます。

長福城の現在の保存状況は必ずしも良くはなく、遺構の大半はグラウンド建設や宅地化によって失われました。あるいは、思川の侵食によって消えた部分もあるかもしれません。遺構としてはグラウンドの西側に藪に埋もれて、わずかに土塁と堀の一部があるのみです。「長福城跡」の石碑はこの南側の小さな公園に建っています。

祗園城のすぐそば、思川に架かる観晃橋から見る長福城(ビル背後の森)。直線距離はおよそ700mほどです。 思川堤防から見る近景。背後に見える突き出た丘は鷲城です。
長福城付近から祗園城を見る。これらのお城の位置関係が何となくわかりますよね。 大半の遺構はグラウンドの下に。。。向こうのこんもりした丘付近の一角だけが、わずかに遺構を残しています。
錆びた遊具にネコ一匹。なんとなく侘しい「やはた公園」に「長福城跡」の石碑があります。 川沿いに一直線に残る土塁。長さは50mくらいでしょうか。
右上の土塁の南端付近。手前には堀の痕跡が伺えます。 土塁とグラウンドの間には大きな空堀があります。いこうとしては最大の見所ですが、藪に埋もれちゃっていますな・・・。
空堀の端の土塁はひときわ高く、櫓台だったような気がしますが、なんせ部分的なもので全体像はさっぱりわかりません。 さらに南側の畑の中に残る外堀の痕跡。どうやら二重の空堀で囲まれていたらしい。
訪城記録

(1)2002/09/02

参考サイト

余湖くんのホームページ日本を歩きつくそう!

参考文献

「那須の戦国時代」(北那須郷土史研究会 編)

「栃木の城」(下野新聞社)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「那須記」(『續群書類従第二十二巻上(合戦部)』/續群書類従完成会に所収)

推奨図書

鷲城・祇園城・中久喜城―小山の中世城郭 (ずいそうしゃ新書 (2))

小山氏の歴史と周辺の城郭を知る基本の一冊。

周辺地情報

祗園城鷲城は必見、時間と興味があれば曲輪(初期小山氏居館)中久喜城なども。

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