ここ最近(2003.08)行った城館のなかでもかなり印象深いのがこの磯部館、通称「土手のうち」(いい響き!)です。ここは水海城を本貫地に置き、のちに関宿城に入ることによって関東戦国史に多大な影響を与えた簗田氏の城館のひとつで、「第三次関宿合戦」で簗田氏が関宿城を北条に明渡し、水海城へ退去してからは関宿系簗田氏の準本拠であったようです。この「第三次」ののち、関宿系簗田氏は一時逼塞し、かわって傍流の水海系簗田氏が北条の配下として表舞台に出るのですが、これも天正十八(1590)年の小田原の役で没落、ふたたび関宿系の簗田本宗家が表に出てきます。水海系の簗田氏は関宿系よりも早期に北条氏に与していたらしく、想像するに、水海城に退去したはいいけれど、なんとなく居心地の悪かった関宿系簗田氏が築いて(あるいは家臣の岩瀬氏の館に厄介になって)移り住んだんじゃないか、そんな風に感じます。
しかし、大坂の陣への従軍によって簗田氏父子揃って討ち死、簗田氏はその息女に養子を迎え入れて現代まで続くことになります。この、大坂の陣に出陣する際に、簗田氏は父祖伝来の阿弥陀像をこの磯部館の岩瀬豊前なる人物に預け置いたといい、それが結局、形見の品になってしまいます。この仏像は岩瀬家代々に伝えられ、現在も岩瀬家が所有しています。
さて、ソレガシが見学に出かけた日、何人かに場所を聞いてようやくたどり着いてみると、完全に民家の敷地となっておりました。しかし、ダメもとで見学を申し入れると、たまたまお庭にいた岩瀬家のおじいさんが快く見学を許可してくれた上に、家の裏手に残る見事な土塁や堀まで案内して頂き、さらになんとくだんの仏像まで拝観させて頂きました。しかも、おじいさんのお話の面白いこと!
前述の岩瀬豊前のお話、おじいさんが子供の頃、土塁と堀が屋敷地を完全に囲んでいたこと、それを三代前の当主が崩して畑にしたこと、竹薮に覆われていた当時の屋敷内部の様子、新しい井戸を掘ったら、たまたま古井戸が出土した話、明治四十年の利根川決壊で、近隣が完全に水没する中で「土手のうち」にみんな近所の人が避難してきた話、名刹・勝願寺との関係、数代前の当主が博打好きで、屋敷が「山(賭場)」になってしまった上にすっかり身上を減らしてしまった話、関宿城博物館の学芸員の方の調査のエピソード・・・どの話も面白い面白い。しかもおじいさんの大戦中のエピソードなども聞かせてもらい、一時間以上もお邪魔してしまいました。アポなしで訪ねたにもかかわらず、こんなに親切に、しかも貴重なお話が聞けるなんて、感謝感激です。なにより、この岩瀬家のおじいさんが簗田氏のことをずっと「簗田様、簗田様」と呼んでいたのがすごく印象に残りました。
磯部館の構造はおそらく方形単郭の館形式、往時はおそらく南北200m、東西120mくらいはあったと思われますが、現在は大半が畑と宅地になっています。主な遺構としては「土手のうち」の屋号のもとになった土塁が屋敷の裏手二方向にあり、その外側には空堀が残っています。残っている範囲は全体から見たらわずかな部分でしょうが、それでもなかなか見事なものです。
英雄だけが主人公ではない、一地方の片隅の歴史と遺跡を、ずっと語り継ぎ、残して欲しいものです。岩瀬さん、ありがとうございました。