天文元(1532)年に豊田城主・豊田四郎政親が下妻城主・多賀谷氏の南下に備え築城し、次子の次郎政重を石毛城主に任じたという。
このころ豊田城主・豊田政親は下妻城主・多賀谷氏の侵攻を防ぐため、小田城主・小田氏治と縁戚になり同盟している。弘治〜永禄年間頃には多賀谷氏の侵攻が激しく、永禄元(1558)年には豊田城主・豊田治親と石毛城主・石毛政重の兄弟は多賀谷軍を長峰原・蛇沼で迎撃し、小田氏の援軍を得て撃退した。
永禄四(1561)年には石毛城主・石毛政重は豊田・石毛の連合軍500余を率いて宍戸入道と謀って加養宿より古沢宿へ進撃したが負傷し、下妻城を目前にして退却した。
永禄六(1563)年多賀谷軍が岡田、猿島に侵攻、石毛政重は古間木城主・渡辺周防守らをはじめとする岡田・猿島軍を三千四百を率いて五家千本木に布陣し多賀谷勢と激戦の末、勝利のうちに結城城主・結城晴朝の仲裁によって和睦した。
天正元(1573)年、再び攻め寄せる多賀谷軍を金村台で迎え撃ち、小田勢の援軍を得て勝利した。しかし石毛政重は天正三(1575)年九月十三日、石毛城内で脳卒中のため急死、その一ヵ月後、豊田城主・豊田治親は多賀谷政経の家臣・白井全洞の調略により家臣の飯見大膳に毒殺され豊田氏は滅亡、多賀谷軍は機を見て七百余の兵を率いて石毛城を攻撃した。豊田氏の遺臣は石毛城に立てこもって抗戦するが逆臣の身柄引渡しと石毛政重の遺児太郎正家の助命を条件に多賀谷に降伏した。
石毛城は多賀谷氏のものとなったが、天正十三(1585)年に多賀谷氏に内紛が発生し、後顧の憂いを除くため破却された。