「豊田城」というと、豊田地区に聳え立つ、異常なほどの大きさの模擬天守がすぐに浮かぶ人も多いでしょう。関東有数の怪しいお城じゃないかと思いますが、かくいうソレガシもはじめてこの附近に来たとき、遠方に巨大な天守が聳えているのを見て「なんじゃこりゃあ!?」と思ったひとりです。この現代の「豊田城」は正確にはお城と全く関係ない場所に建てられた「石下町地域交流センター」であって、中は郷土の作家、長塚節関連の資料や郷土史資料などが展示されています。まあ遺構の破壊とかは無いわけだし、「模擬天守!」って目くじら立てるようなモノでもないでしょう。ただただその巨大さに唖然と見上げればいいのですから。ちなみにこの「豊田城」、町のあちこちに出城(?)があって、ある種のシンボルになっていることが感じられます。展示内容は結構充実していますが、入館料400円はちとベラボーな気はします。
しかしこの「豊田城模擬天守」とは別に、ホンモノの豊田城もありました。かつては。このホンモノ豊田城は小貝川に架かる「長峰橋」の下流1kmほどの堤防上とその下の二箇所、ぽつんと城址碑が建っています。これで分かるとおり、豊田城は小貝川の河川改修と耕地整理によってすっかり消滅してしまったのです。
豊田氏も一時期は隆盛を誇りましたが、戦国期には豊田郷一帯を治める小領主として四苦八苦、特に結城氏から独立して独自の勢力拡大を目指す多賀谷氏の南進は大きな脅威となり、小田氏らと手を結んでこれを阻止しようとします。上杉謙信が小田城を攻めたときの小田氏の与力衆を調べ上げた「小田氏治味方覚書」なる古文書にも豊田氏の名が見えるそうです。しかし、位置的に下妻城のほぼ真南にあたる豊田氏の領地は強大化する多賀谷氏に蹂躙され、最後は家臣の寝返りによって謀殺、滅亡の憂き目を見ることになりました。やはり小領主の末路というのは、いかにも無情ですね。
遺構は何もありませんが、もし訪れるなら、本豊田集落を通り抜けて、小貝川の堤防上「川の一里塚」を目指すといいでしょう。そばに城址碑と解説板があります。またそこから200mほど西の高圧線の鉄塔の袂にも、城址碑と、「土地改良事業竣工記念の碑」があり、豊田氏の苦悩の歴史が刻まれています。