低地と丘陵が複雑に交錯する長生郡の中にあって、ひときわ高い標高60mほどの丘陵に勝見城は築かれています。現在は「睦沢町やすらぎの森」として整備されており、さほど険しい道も無く、見学しやすい城址になっています。
初代城主と目される金田氏は、房総桓武平氏の頭領であった上総広常の弟という、最高の出自を持っていましたが、広常の謀殺や宝治合戦に巻き込まれ、千葉氏の庇護下で下総鏑木氏、上総蕪木氏としてその血脈を保っていました。そうして戦国期にようやく旧領の金田郷復帰を果たすのです。復帰したのがいつごろであるか詳しいことはわかりませんが、里見氏との抗争の軍功で、ということらしいので、大永年間から享禄・天文年間ごろでしょうか。いずれにしても約200年にわたる流浪の末、ようやく父祖伝来の地にたどり着いた感慨はいかばかりだったでしょうか。もっとも、この復帰した居城はこの勝見城とは断定できないようですが。
戦国期には庁南武田氏の配下で、西の池和田城とともに庁南城の一宮方面への進出拠点となっていたようです。そのためか、庁南城にも相通じる築城手法が随所に見られます。しかし庁南城よりもむしろ遺構ははっきりしており、よく整備された歩道とも相まって見学しやすい、見ごたえのある城でえあると言えます。
「図説・房総の城郭(千葉城郭研究会)」で小高春雄氏が述べられているように、長生郡の丘陵地帯は痩せ尾根地形が多く、山上に大きな空間が作れないため、複雑な支峰に守られた谷津を積極的に城域に取り込む、独特の築城様式が見られます。この谷津は「七井戸郭」「小屋ノ谷」「沖小屋谷」などといわれ、家臣団の屋敷や一族の居館などがあったものと思われます。「小屋ノ谷」には現在、湿性植物園がありますが、もともと低湿地で、この屋敷群の前面の水堀として機能していたかもしれません。歓喜寺の裏手、城主居館と推定される観音曲輪は尾根上で唯一広大な空間があり、ここは現在、展望台を伴う広場として整備されています。痩せ尾根上尾根上には小規模な曲輪や堀切が連続し、ところどころ削崖によってさらに傾斜を急にされています。とくに妙見碑のある曲輪の南は二重の堀切と高い削崖が見られ、なかなか迫力があります。ここには木橋と吊り橋がかかっており、ちょっとした山登り気分が味わえます。
全体に遺構の残存度も良好だし、案内表示や解説板設置なども含め整備も行き届いていて、印象の良い場所でした。