一宮町から睦沢町に抜ける丘陵地帯に残る古城です。上総権介・平広常の居城と伝えられていますが、広常伝説はこの地方に数多くあり、この高藤山城も有力な候補のひとつ、と考えた方が良さそうです。広常は頼朝の有力な重臣として活躍しますが、その振舞いに不遜な点があり、梶原景時に謀殺されています。景時は鎌倉幕府創生期に重要な地位にいた人物ですが、権勢に任せて専横の振舞いも多く、この手の事件を度々起こしては、他の有力御家人に恨みを買っていたようです。頼朝も猜疑心が極端に強い性格だったので、景時の讒訴を鵜呑みにしてしまったのでしょう。後に頼朝は、広常が源右府の天下泰平と源家隆昌の願文を納めていた事を知り、広常の忠誠を疑ったことを悔い、その一族を釈免しました。反対に景時は、頼朝の死後、他の御家人の総スカンを食らって鎌倉を落去する途中の駿河で惨殺されます。因果応報、ということでしょうか。。。
山上の曲輪には、急な山道を登ってたどり着きますが、意外なほど広々した曲輪があり、曲輪の中央部には小規模な堀切があって曲輪を二分しています。僕はこの主郭付近しか見ていないのですが、大多喜城の総南博物館で購入した「長生の城(1991年)」(小高春雄氏著)という調査書によると、尾根上に堀切や馬蹄段などの多くの遺構を残しているそうで、技法と規模から見れば戦国末期まで使われていた可能性が高いということです。この本の筆者、小高氏は金田氏、正木氏などの可能性を指摘しており、また山上の解説板には一宮城主・鶴見甲斐守が自刃した地がここであるとし、「・・・天正十七年一宮城主鶴見甲斐守は高藤山で自刃している。その頃の一宮城は高藤山にあったのではないか」と記載されていますがこの年代はどうでしょう?天正十七年と言えば小田原の役は勃発しておらず、かといってこの地での里見氏や正木氏をめぐる戦闘も僕が知る限りありません。これは天正十八年の間違いでは?勝手に推測すれば、小田原の役で本多忠勝の軍勢に攻められた鶴見甲斐守が、一宮城では大軍を支えきれないとして城を脱出、あらかじめ詰の城として整備していた高藤山の古要害に立て篭もったが、衆寡敵せず自刃した、と解釈すれば筋道がとおるような気がします。根拠はなし。
私の個人的な意見としては、やっぱり正木氏の属城だったのかな、と思っております。位置的に大多喜正木氏の本拠・大多喜城と、その正木氏にとっての重要な海への玄関口であった一宮との間の道を守る城として考えれば、立地的には納得できます。大多喜の正木憲時は、里見義頼と対立し、後に家臣の寝返りにより謀殺されますが、その後、義頼が一宮城主に任じた鶴見甲斐守の属城となった、と考えれば辻褄も合うでしょう。鶴見甲斐守がここで自刃したかどうかは不明ですが、一宮城の詰城的な位置付けであったかもしれません。
一宮城から万木城へ向かう途中に寄ったのですが、かなり道に迷いました。もう一度行け、と言われても自信がありません。これから行ってみようとする人は、地元の人に聞くのが賢明だと思います。道路沿いに大きな看板があるので、これを探しましょう。