実に全く、なんにもありません。浜大津駅の真ん前、歩道橋の袂に「大津城跡」の石碑がポツンとあるのみです。何年か前までは、この石碑付近まで琵琶湖の湖水が来ていたようですが、いまは100mほども埋め立てられています。この工事の際に石垣などが出土したそうですが、埋め戻されたのでしょうか?
ここは関ヶ原の前哨戦で攻防があった城でもあります。ご存知のとおり、徳川家康は会津の上杉景勝討伐を名目に奥州に向けて諸将を率いて出陣しますが、それを待っていた石田三成が上方で挙兵、上杉景勝らと東西から家康を挟み撃ちにする戦略でした。しかし、家康はこの事態も計算の上で、いやむしろ、そうなるべく筋書きを整えており、上杉討伐に参陣の諸将を小山評定で一気に自らの「私兵」として西上、九月十五日の美濃関ヶ原での一大会戦となるのは、これまたご存知のとおりです。
この関ヶ原での大会戦の陰に隠れていますが、伏見城や田辺城、そしてこの大津城でも戦闘が行われています。大津城を守るのは、近江源氏の名門の末裔、京極高次。寄せ手は名将として知られる立花宗茂ら。高次は当初は西軍に属し、大谷吉継の求めに応じて北陸方面に参陣する途上、突如道を変えて大津城に戻り籠城します。この高次は姉(妹?)の龍子を秀吉の側室として差し出しており、豊臣の姓まで与えられた豊臣家の子飼い大名でありますが、同時に浅井長政の二女、お初を正室に迎えていることから去就に悩んだのでしょう。お初の姉は長政の長女、茶々、そう、秀吉側室で秀頼生母の「淀殿」、そしてお初の妹はのちに二代将軍となる徳川秀忠の正室、「お江(小督・江与)の方」。徳川にも豊臣にも血縁があり、板ばさみとなりましたが、おそらくあらかじめ家康に言い含められていたのでしょう、結局西軍を裏切って東軍についています。結局大津城は十日ばかりの攻防の後、長等山から放たれた大砲が本丸天守に命中、高次は開城を余儀なくされますが、この戦いにより戦意の盛んな西軍一万五千を大津城に釘付けにし、中でも猛将・立花宗茂の足を停めさせた功を賞されて、高次は若狭小浜を与えられます。この高次、どうにも間の悪い男で、本能寺の変では明智光秀に着いたため一時期は断絶の危機に立たされます。が、前述の妹のおかげで一命を取り留めたばかりか、「従三位参議」の官位を得て「大津宰相」と呼ばれるまでになりました。この関ヶ原でも西軍と東軍の間で揺れた挙句、大津城を開城してしまったことから家康の不興を恐れて高野山へ隠遁しようとします。しかし、前述のとおり西軍の大軍を曳き付けたことを買われ、若狭小浜城主として八万五千石(のち九万二千石)を得ることになります。この、名門意識だけで生きてきたような男の頭では、自らの軍功すら知るよしも無かったのでしょうが、間の悪さを運の良さでカバーした幸運な人物と言えます。「蛍大名」という呼び名も、自らの力ではなく、妹や妻の「尻の光」で出世した、という揶揄でしょう。
しかし、三成の作戦というのはどんなもんなんでしょう?関ヶ原の役における西軍の作戦方針は、上杉討伐に向かった家康軍を東西から挟み撃ちするという、主力決戦にあったはず。だったら、端々の小城など東軍に「くれてやる」位の気持ちで、なぜもっと迅速に進撃しなかったのか。三成クンの構想での予定戦場、尾張・美濃の奥深くに主力を固めて配置すれば、あるいは結果は?それが、この大津城やら田辺城やら、北陸、伊勢やらの大局に影響しない周辺地域に兵力を分散してしまい、むしろ戦意に乏しい長束正家や長宗我部盛親らを前線に出して、逆に立花宗茂のような勇猛果敢な武将を全く本戦の勝敗に影響しない、こんな場所に釘付けにされてしまうなんて。三成も、太閤秀吉のいくさぶりをさんざん見てきただろうし、迅速さというか、小の勝ちを捨てて大の勝ちを得るような戦術をなぜとれなかったのか。三成クンは個人的に嫌いではありませんが、この作戦の支離滅裂さを見るとイライラします。負けるよ、これじゃ。いや、結果論なんかじゃないですよ。「スピード」と「戦意盛んなものを前線に配置する」は現代においても軍事の鉄則ですよ。この大津城の戦いを思うにつけ、そんなじれったさを禁じ得ません。あ〜イライラ。
そして関ヶ原の後、家康はこの大津城で諸将を引見、捕らわれの身となった石田三成を検分しています。さらに、真田昌幸に翻弄されて信州上田城で無為に時間を過ごし、木曾の山越えで難渋して関ヶ原に遅参した、高次にとっては義弟にあたる秀忠が家康にやっとのことで追いつき、一喝されたというエピソードもあります。この後、新たに徳川の天下普請によって膳所城が築かれ、大津城は廃城となります。わずか十五年で消えていった大津城は、関ヶ原の裏面史を飾るために生まれ、消えていったような城に思えます。