信長、元亀騒乱の緒戦に辛勝

姉川古戦場

あねがわこせんじょう

滋賀県東浅井郡浅井町野村 付近

姉川の流れ<<2000年10月22日>>
合戦の日時 元亀元(1570)年六月二十九日
当事者

◎織田信長(23000)・徳川家康(5000)

●浅井長政(8000)・朝倉景健(10000)

合戦の経緯

永禄年間、尾張の織田信長は北近江を支配する浅井長政と同盟を結び、妹のお市を娶らせた。永禄十一(1568)年、越前の朝倉氏に庇護されていた足利義昭が信長に上洛への協力を求めてきた。九月七日、信長は足利義昭を奉じて上洛戦を開始、浅井長政と佐和山城で合流し、南近江の六角氏を排除、九月二十六日に上洛を果たした。

永禄十三(四月に元亀に改元・1570)年正月、信長は足利義昭に対し五ヶ条の条々を認めさせ、将軍の実権を奪った。信長は諸大名に対し、将軍義昭の名の元に上洛を発令するが、かねてより敵対する越前の朝倉義景が上洛に応じなかったため、元亀元(1570)年四月二十日、京都を進発、越前に雪崩れ込んだ。浅井氏は先々代の亮政の代より朝倉氏と誼を通じており、信長との同盟に当たっても、朝倉氏への不戦、いざ事を構えるときには浅井氏に事前に通告することを条件としていたが、信長の電撃侵攻により浅井氏は両陣営の間で苦境に立たされた。義昭はこれより先、浅い久政に対して御教書を送り、信長包囲網を布くことを画策、浅井氏は苦悩の末、信長に叛旗を翻すことを決断した。信長はこの時朝倉氏の本拠、一乗谷へ向けて越前深く侵攻していたが、浅井氏の離反を知ってすぐに反転、朽木谷を抜けて京都へ抜け、千草越えで本拠岐阜城へ帰還した。

織田軍は姉川南岸、竜ヶ鼻に本陣を置き坂井政尚を先鋒に十三段の構えで布陣、これに対して浅井軍は磯野丹波守員昌を先鋒に五段構えで布陣した。徳川家康は織田軍の左翼に展開し朝倉景健の援軍と対峙した。

午前五時、日の出とともに徳川軍の酒井忠次、小笠原長忠が朝倉軍に突入し合戦の火蓋が切られた。磯野員昌隊を先陣に浅井軍は渡河し織田軍の本陣めざして深く突入、織田軍は坂井政尚、池田恒興、木下藤吉郎らが次々と破られ、坂井政尚の子、久蔵は戦死、十三段構えの十一段まで破られ、本陣前で辛うじて森可成らが支える展開となったが、徳川軍と闘う朝倉軍が乱れ始め、家康の命で榊原康政らの別働隊が迂回して右翼を衝いたため、朝倉軍は総退却となった。織田軍には横山城の押さえとして配置されていた氏家卜全、安藤守成、徳川軍の援軍として派遣されていた稲葉貞通(一鉄)隊が合流し体勢を立て直したため、浅井軍も支えきれず小谷城をめざして総退却した。浅井の武将遠藤喜右衛門は討ち死にした友軍の三田村左衛門の首を携えて単騎信長の本陣に突入、味方を装い「御大将によき首級見参」と信長に近寄って刺し違えようと謀ったが、竹中半兵衛の弟、竹中久作重矩に見破られて討ち取られた。朝倉軍の真柄十郎左衛門直隆・十郎三郎隆基父子は敗軍の中で奮戦、直隆は太郎太刀と呼ばれる五尺三寸の大刀を振り回して暴れまわったが、徳川軍の匂坂式部、五郎次郎、六郎五郎兄弟、郎党の山田宗六らに囲まれ、六郎五郎の鎌槍で脇腹を衝かれ落馬、「わが首級を挙げて家門の誉れとせよ」と首を差し出した。十郎三郎隆基は父の死を知って引き返すところ、青木所左衛門と奮戦し首を討たれた。浅井の将、安養寺三郎左衛門は捉えられ信長本陣に曳きたてられた。安養寺はわが首を刎ねよと信長に迫ったが、信長は安養寺から小谷城の備えが堅いことを聞き出し、安養寺を放免、小谷城への追撃を切り上げて岐阜城に帰陣した。

織田・徳川勢はこの合戦を「姉川合戦」と呼ぶ。浅井勢は「野村合戦」、朝倉勢は「三田村合戦」と呼ぶ。

第十五代将軍となる足利義昭を奉じて上洛を果たした信長。しかし、義昭との蜜月も永くは続かず、実質的な権力を奪われた義昭は各地の有力者に御教書を乱発、信長包囲網を敷くことに暗躍する。そして元亀元年四月、越前へ電撃侵攻した信長を待っていたものは、妹・お市を娶り上洛戦をともに勝ち抜いた盟友、浅井長政の離反だった。越前の陣で長政謀叛の報を受け取った信長は「虚説たるべし」と一笑に附す。しかし続々と入る長政謀叛の報。ついに信長は窮地に陥り、木下藤吉郎を殿軍に、疾風の如く近江朽木谷を駆け抜けて京に戻り、九死に一生を得た。このままでは収まらない信長、二ヵ月後の六月十九日に岐阜を進発、二十一日に浅井長政の本拠、小谷城下を焼き払い、横山城を攻めて浅井をおびき出そうとする。六月二十九日、日の出と同時に両軍は遂に激突、半日に及ぶ合戦で姉川の河原は血に染まり、長政は小谷城へ敗走、信長は天下布武に立ちはだかる包囲網との大事な緒戦を辛くも拾った・・・。

信長と反信長包囲網の闘い、その第一幕がこの姉川合戦です。単なる浅井・朝倉との決戦であるだけではなく、信長と、反信長陣営が総力を挙げて血を流し合った、長く、重く、苦しい戦いの始まりでした。それは信長にとって、従来の中世的な制度や権威をことごとく破壊することになる、「日本を変える」戦いの序章でもありました。

十三段の陣を構える信長に対して、寡兵の浅井軍は猛烈な突撃を敢行、十三段のうち十一段までが切り崩される乱戦となり、緒戦は浅井軍優勢に始まりました。しかし、信長援軍の徳川軍別働隊による浅井軍援軍の朝倉軍に対する横撃や、氏家卜全、安藤守就などの横山城の抑えの軍の参戦により形勢逆転、浅井・朝倉軍は総崩れとなり小谷城へ退却します。信長は、徳川軍の活躍によってこの元亀・天正の騒乱の緒戦を辛くも拾いました。残されたものは、姉川の河畔を埋め尽くす、浅井・朝倉軍千七百、織田・徳川軍八百の兵卒の死骸だけでした。

今思えば、この合戦でもしも信長が敗れていたら、日本の歴史は大きく塗り変わっていたことでしょう。いかに尾張・美濃・伊勢を抑える信長とて、近江を得ずして京への道は開かれません。この一線で浅井・朝倉軍が勝利していたら、足利義昭の暗躍も実を結び、信長は外敵と内応によって殲滅されていたかもしれません。

もし浅井が虎御前山と小谷城の間を遮断して、姉川への南下を食い止めたら、あるいは不破の関を固めて信長の近江侵攻を関ヶ原で食い止めていたら、あるいは長島の一向一揆が一斉蜂起したら、はたまた徳川の援軍出陣の呼応して武田が遠江・三河に電撃侵攻したら、信長には防ぎ様も無かったことでしょう。いや、それ以前に浅井氏が織田氏との盟約を破棄したあの「金ヶ崎退き口」で、織田軍が越前で敵中深くに孤立した段階で迅速に後方を遮断することができれば、織田軍は袋の鼠になっていたことでしょう。浅井長政が凡愚だとは思いませんが、信長が拙速とも思えるほどの果断さで金ヶ崎からの撤退を断行したのに比べると、いかにも鈍重な行動が悔やまれます。やはり天才とそうでない者の差なのでしょうか。結局、易々と小谷城下まで進撃を許し、味方に倍する敵に姉川河畔の広々した平原での野戦を挑んだ段階で、軍事的には既に浅井軍の敗北の条件が整ってしまったのではないでしょうか。

姉川に掛かる野村橋の袂に建つ姉川古戦場の石碑。姉川合戦は信長にとって、天下をその手に収めるための最初の試練でした。

石碑の近くにあった陣立て図。陣立て・戦力には諸説あるようですが、「浅井VS織田」「朝倉VS徳川」の図式であるようです。信長は背後に横山城の城兵を控えて、結構リスキーな陣立てです。

静かに流れる姉川の流れ。合戦の後、信長は細川藤孝に「山も川も死骸ばかりにて候、見せたく候」を戦勝を知らせています。この河原に、両軍合わせて二千五百もの兵どもが眠っています。

姉川から小谷城を見る。小谷城の堅固さ、籠城の備えの堅さを見た信長は深追いせず、岐阜に帰陣しています。このあたりの軍事的なバランス感覚の鋭さが信長の天才と言われるところなのでしょうか。

 

交通アクセス

JR北陸本線「長浜」駅よりバス。

北陸自動車道「長浜」IC車5分。

周辺地情報

関係の深い小谷城、横山城や秀吉出世の地、長浜城など。

関連サイト

 

 
参考文献 別冊歴史読本「織田信長その激越なる生涯」(新人物往来社)、ビッグマンスペシャル「織田信長」 (世界文化社)、「元亀信長戦記」(学研「戦国群像シリーズ」)、小説「下天は夢か」(津本陽)ほか

参考サイト

 

 

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