第十五代将軍となる足利義昭を奉じて上洛を果たした信長。しかし、義昭との蜜月も永くは続かず、実質的な権力を奪われた義昭は各地の有力者に御教書を乱発、信長包囲網を敷くことに暗躍する。そして元亀元年四月、越前へ電撃侵攻した信長を待っていたものは、妹・お市を娶り上洛戦をともに勝ち抜いた盟友、浅井長政の離反だった。越前の陣で長政謀叛の報を受け取った信長は「虚説たるべし」と一笑に附す。しかし続々と入る長政謀叛の報。ついに信長は窮地に陥り、木下藤吉郎を殿軍に、疾風の如く近江朽木谷を駆け抜けて京に戻り、九死に一生を得た。このままでは収まらない信長、二ヵ月後の六月十九日に岐阜を進発、二十一日に浅井長政の本拠、小谷城下を焼き払い、横山城を攻めて浅井をおびき出そうとする。六月二十九日、日の出と同時に両軍は遂に激突、半日に及ぶ合戦で姉川の河原は血に染まり、長政は小谷城へ敗走、信長は天下布武に立ちはだかる包囲網との大事な緒戦を辛くも拾った・・・。
信長と反信長包囲網の闘い、その第一幕がこの姉川合戦です。単なる浅井・朝倉との決戦であるだけではなく、信長と、反信長陣営が総力を挙げて血を流し合った、長く、重く、苦しい戦いの始まりでした。それは信長にとって、従来の中世的な制度や権威をことごとく破壊することになる、「日本を変える」戦いの序章でもありました。
十三段の陣を構える信長に対して、寡兵の浅井軍は猛烈な突撃を敢行、十三段のうち十一段までが切り崩される乱戦となり、緒戦は浅井軍優勢に始まりました。しかし、信長援軍の徳川軍別働隊による浅井軍援軍の朝倉軍に対する横撃や、氏家卜全、安藤守就などの横山城の抑えの軍の参戦により形勢逆転、浅井・朝倉軍は総崩れとなり小谷城へ退却します。信長は、徳川軍の活躍によってこの元亀・天正の騒乱の緒戦を辛くも拾いました。残されたものは、姉川の河畔を埋め尽くす、浅井・朝倉軍千七百、織田・徳川軍八百の兵卒の死骸だけでした。
今思えば、この合戦でもしも信長が敗れていたら、日本の歴史は大きく塗り変わっていたことでしょう。いかに尾張・美濃・伊勢を抑える信長とて、近江を得ずして京への道は開かれません。この一線で浅井・朝倉軍が勝利していたら、足利義昭の暗躍も実を結び、信長は外敵と内応によって殲滅されていたかもしれません。
もし浅井が虎御前山と小谷城の間を遮断して、姉川への南下を食い止めたら、あるいは不破の関を固めて信長の近江侵攻を関ヶ原で食い止めていたら、あるいは長島の一向一揆が一斉蜂起したら、はたまた徳川の援軍出陣の呼応して武田が遠江・三河に電撃侵攻したら、信長には防ぎ様も無かったことでしょう。いや、それ以前に浅井氏が織田氏との盟約を破棄したあの「金ヶ崎退き口」で、織田軍が越前で敵中深くに孤立した段階で迅速に後方を遮断することができれば、織田軍は袋の鼠になっていたことでしょう。浅井長政が凡愚だとは思いませんが、信長が拙速とも思えるほどの果断さで金ヶ崎からの撤退を断行したのに比べると、いかにも鈍重な行動が悔やまれます。やはり天才とそうでない者の差なのでしょうか。結局、易々と小谷城下まで進撃を許し、味方に倍する敵に姉川河畔の広々した平原での野戦を挑んだ段階で、軍事的には既に浅井軍の敗北の条件が整ってしまったのではないでしょうか。