福知山城は、亀山城とともに明智光秀の丹波経営の中心地として築城されたのですが、いわゆる「占領地」である丹波の国人と民衆に対して、光秀は常に穏やかに接していたと聞きます。光秀と言えば後年の「本能寺の変」の「天下の大逆臣」のイメージで語られることが多いのですが、領国経営には非常に熱心で、降将に対しても礼と仁を以って接し、民に対しても治水や灌漑などの善政を布いた事でも知られています。丹波は京都に近いこともあり、皇室領や将軍直轄領が多く、民衆も尊王精神が篤く温厚であったといいます。それが戦乱の時期に小豪族が割拠し、皇室領も簒奪され、高い租税率と戦乱に生活を圧迫された民衆は救世主の到来を待ち望んでいました。光秀は「占領者」であるにも関わらず、こうした民衆から絶大な支持を得ることに成功します。この頃、信長は天下布武の成就を目前にして、敵対する勢力を苛烈ともいえるやり方で粛清していた時期でもあります。反対勢力を徹底的に抹殺する信長と、常に礼を失わず慰撫に務める光秀。後年の「本能寺の変」に至る、ふたりの間のすれ違いは、この頃に始まっていたのかもしれません。
で、訪問してみてまず感じたのが「まるっきり住宅地の真ん中やんけ・・・」。まあ、都市化が進む現代のこと、仕方がないと思いましょう。次に感じたのは「全然要害になっとらん!」。いわゆる平山城で、城の東側は一応川と崖になってはいますが、比高もそれほど高くなく、ちょっとした丘程度です。市街地化が進んでいるため、掘割や全体の縄張りなどがどうだったかは詳しくは分かりませんが、少なくとも「要害」という言葉には程遠い印象でした。もしかしたらかつては土師川が城の直下を流れていたのでしょうか。これは想像ですが、その光秀にとって、難攻不落の要害を構えることよりも、領国経営に利便性が高く、また「占領者」としての印象を少しでも和らげるためにも、町に近い平場に城を構えることを優先させたのではないでしょうか。付近を見れば要害になりそうな山はいくらでもあるのに、ここに築城した光秀の心中が察せられるような気がします。そういう意味じゃ、光秀は信長、秀吉と並んで「近世城郭」への扉を開いた一人でもあったのですね。
現在の城は復興天守と石垣のみ、と言ってもいいでしょう。本丸以外の曲輪はことごとく公共施設や市街地になっていて、めぼしい遺構はありません。最大の見所は前述の復興天守と、それを支える石垣。石垣は「転用石」が多用されていて、石仏や墓石、五輪塔などがいたるところに見られます。これほど多くの転用石を使った城を僕は見たことがありません。寺社仏閣や墓、石仏を破却して石を転用するのは信長が二条城、安土城築城などで用いた方法ですが、光秀もそれに習ったのでしょうか。ただ、光秀は寺社に対し、「丹波平定が成就したら必ず再建する」ことを約束して石を集めたそうです。どこまでも篤実家な光秀サンです。これから行かれる方は、石垣の石を一個一個、見てみてください。
(※訂正)D-ONEさんからのご指摘で、再建された天守を「総木造で当時の技法で再建」と記載した記事が全く誤りであることがわかりました。実際は鉄筋コンクリート製、昭和六十一年十一月に「郷土資料館」として外観復原されたものです。「復興天守」というよりも「復原天守」と呼ぶ方が正しいかもしれません。何かの記事と混同して初歩的な間違いをしてしまいました。中に入れば間違うことも無かったんでしょうが。。。その前にちょっと調べればわかることですね。。。お詫びして訂正します。