栖吉城はあの「越後の虎」上杉謙信の母、虎御前のふるさとと云われています。栖吉城主の長尾氏は古志長尾氏と呼ばれ、守護代職にあった府中長尾氏(もともとは蒲原長尾氏)とは縁が深く、謙信の父、長尾為景の代により同盟を強く固めるべく、虎御前の腰入れが行われました。虎千代、のちの謙信が生まれたのは享禄(1530)三年正月二十一日とされます。幼い日の虎千代は春日山城下の林泉寺に入り、天室光育のもとで薫陶を受け、仏門に帰依してその生涯を終えるはずでしたが、十八歳も年上の兄、晴景の跡を嗣いで守護代家を相続、やがて関東管領職をも相続して「上杉」姓を名乗ることになります。母・虎御前もビックリの運命の持ち主でした。
十四歳になった景虎青年は兄・晴景の命によって栃尾城に入城します。この栃尾城も栖吉城の有力支城であり、古志長尾氏もこの血気盛んな青年をよくサポートしたものと思われます。天正三(1575)年の軍役帳では上杉十郎景信が「十郎殿」として見え、上杉姓も与えられて、一門として重く用いられています。
そんな古志長尾氏でしたが、謙信の死後の「御館の乱」では小田原北条氏出身の三郎景虎を支援することとなり、上田長尾氏(坂戸城主)の景勝と対立します。この裏には、古志長尾氏と上田長尾氏の長年の対立関係があったものと思われ、単純に三郎景虎を擁立したと考えるよりも、こうした一門の対立関係が謙信の死後、表面化したものと捕えることもできます。しかし、上杉十郎景信(またはその子景満)は天正六(1578)年六月の御館城外、居多口に置ける戦闘で討ち死に、栖吉城も乱の平定後は「栖吉衆」と呼ばれる景勝直参の家臣団による持ち回りの番城になります。この栖吉衆の前身となった「古志衆」は、古志長尾氏とは切り離された、謙信の旗本集団であり、その統率には河田長親が充てられていました。御館の乱に際しては、古志長尾氏は景虎擁立に回ったのに対し、この「古志衆」は河田長親の指揮の下で景勝擁立に回ったようで、一族間の分裂も引き起こしていたようです。
その栖吉城ですが、麓の栖吉神社、および普済寺の二方向から登山道が伸びていて、急峻な道ながらも登山道がしっかり整備もされており、安心して歩けます(滑りやすいですが)。この道は途中の峠越えの鞍部で二方向に分かれますが、すでにそこは栖吉城の三曲輪の直下あたりになり、最後の急坂を登りきると広々した三曲輪に出ます。さらに土橋を越えて二曲輪、主郭へと向かいます。このあたりは草刈も行き届いていて、比較的楽に見学することができます。ここまででも畝状阻塞や馬出し状の主郭虎口、主郭を取り巻く横堀など、見所が結構あるのですが、本当にスゴイのはこの背後に隠れています。この背後、東側の尾根続きの先端附近に「古城」と呼ばれる出丸があるのですが、そこに至る堀切のでかいこと、でかいこと。上から見るとまるで谷です。さらにこれは栖吉城全体にいえることなのですが、とにかく切岸が高くて急峻なことに驚きます。切岸なんて、お城の遺構としてはアタリマエすぎて、普段はその有り難味を感じることもあまりないのですが、ここのはスゴイ、普通じゃない。赤土の切岸が10m以上、なんていう場所も珍しくなく、なまじっかの石垣などよりもよほど防御力があるでしょう。これらの堀切や切岸は「スゴイ」を越えてもはや馬鹿馬鹿しいほど・・・。とにかく力技の連続です。これらの切岸はまともに上り下りするのはもはや危険なレベルなので、かすかに残る道を頼りに迂回して歩くほうがいいでしょう。主郭裏の堀切以降はほどんどヤブですが、ここを見ずして栖吉城は語れない。覚悟して行きましょう!
【栖吉城の構造】
|
|
栖吉城平面図(左)、復元鳥瞰図(右)
※クリックすると拡大します。 |
栖吉城は長岡市街地東方の「城山(▲335m)」にある。麓の栖吉地区との比高差はおよそ270mほどである。栖吉城の城域はこの高峻な山一帯の東西約600m、南北約300mにもおよび、越後の中郡の中世城郭としては規模も堅固さも筆頭といってもよい。
栖吉城の遺構のうち、何と言っても驚嘆させられるのが曲輪周囲の見事な切岸である。通常、我々がお城めぐりをする際にはこの切岸を登ったり降りたりしながらあちこちを見て回るのであるが、栖吉城の場合、もともと急峻な山腹を極限まで削りたてており、その高さはゆうに10mを越える。上から見ると下段の曲輪がはるか下に見え、上り下りはほとんど不可能なほどである。これはT曲輪周囲よりもむしろ出丸にあたるY曲輪方面で著しい。
その出丸である、東側の「古城」は古い時代の栖吉城であるとも言われるが、山頂かつ麓に眺望が利いたであろうT曲輪を取り入れずに縄張りをしたとも思えないので、一応「古城」については出丸として考えてみる。ただ、背後の八方台方面への尾根続きの監視には適しているので、古い時代から城域には取り込まれていたかもしれない。
このT曲輪とY曲輪の間の尾根には、当城最大規模の遺構が連続する。なかでも堀4や堀7の巨大さは圧巻である。これらは切岸の下段の曲輪まで掘り下げられており、高いところで10mを越え、天幅も20mを超える。堀7は中央に土橋状の構造物があるが、ここに低い土橋を設けても通行の役には立たない。むしろ、XとYを繋ぐ橋台であったと考えたい。W曲輪側には低い土塁のような構造もあり、ここに橋が架かっていた可能性は高いと思う。ただしそれは目も眩むような高さの橋であろう。
それ以外の遺構面の特徴としては、主郭を取り巻く横堀1と虎口の外枡形、および城内の要所要所に設けられた畝状阻塞の存在である。堀1は主郭の西から南側を取り巻き、主郭の東南端で櫓台状の高まりにぶつかって終わる。深さはU曲輪側から1m、T曲輪側から5m弱程度ではあるが、こうした高峻な山城の上に横堀を伴う曲輪があること自体、越後の山城としては珍しい。山の上が比較的広く平坦であるので、それを補うための工夫だろうか。その主郭の西側に突き出すように、外枡形がある。その形状は外枡形というよりも馬出しの一歩手前、という感じである。いずれにせよ戦国後期の遺構だろう。畝状阻塞は越後の山城では比較的珍しくないが、栖吉城でも4箇所ほど認められる。いずれもかなりの急斜面を竪堀と竪土塁を連続させて、トタン状の城累形状となっている。急斜面なので必要ないような場所でも、念入りに防御している。
ところで、栖吉城の性格を考える上で、城域の南を走る道は非常に重要に思える。というのは、この道は八方台を経由して、栃尾と繋がっているからである。現在は長岡市域と栃尾市域を結ぶ幹線道路としては、新榎トンネル経由のルートが最も一般的であるが、当時は栖吉城と栃尾城を直結するルートが間違いなく存在したはずである。栃尾城は栖吉城の最有力支城のひとつであり、400m〜500m級の山々に遮られた街道(あるいは軍道)は両城の連携を考える上で欠かせないものであっただろう。この道は決して単なるハイキングコースなどではなく、上杉氏時代の軍事・経済両面で重要な道だったと考えられる。この道は栖吉城の東側に沿って伸び、尾根が最も細くなる東端では尾根を削って幅を狭めていると同時に畝状の堀切(竪堀)9が連続している。またV曲輪下方の鞍部はちょうど峠越え地点あたり、城内への道と八方台への道に分岐するが、城域とは反対側の南側方面にも切岸と削平地が認められ、この道を本城と挟み撃ちできるようになっている。この地点やZ曲輪周辺では木戸のようなものが設けられ、この道の通行を厳しく監視したことだろう。栖吉城は古志長尾氏の領域支配の城であると同時に、こうした陸路の交通監視、関所的な機能をも持っていたと考えられる。
[2005.01.10]