中世本庄城の姿を探る |
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のっけから他力本願で恐縮だが、近世村上城の考察に関しては、ワタナベ殿が運営する渾身のバーチャル村上城復元サイト「ビジュアル再現村上城」という素晴らしいWebサイトがあり、遺構の現況と同時にCGや写真合成で復元された建物などを見ることができるので、ぜひそちらを見て頂きたい。ここでは主に、東側斜面を中心とした中世期と想定される遺構群と、その他いくつか気づいた点をもとに、『中世本庄城の姿を探る』という観点から考察してみた。といっても、はっきりいって全く想像というか、妄想である。 村上城=中世本庄城は、近世城郭化に伴う整備拡張によって、中世期の姿をそのままとどめている部分は少ない。中世的な雰囲気を残している東側遺構群も、北側半分については近世に武家屋敷(「田口屋敷」)が置かれたことが確実で、どこまで中世期遺構かを判別するのは相当に難しい。ここではわずかな手がかりを元に、あくまで推測、試案としての中世本庄城の姿を探ってみたい。 まず、現在の村上城の遺構を見ると、山上には堀切が一切無い。村上城はほぼ独立丘であり、尾根続きに攻められるということがないから、堀切の重要性は峰続きの山城に比べて低いかもしれない。また、堀切がない城というのも珍しくはないのだが、村上城の場合、「本庄繁長の乱」などのように戦国後期に直接実戦を経験している城である。その都度改修が加えられていたはずで、中世本庄城の段階で堀切がない(=段郭主体の防備)ということはあり得ないだろう、と考えた。実際に、『上杉家御年譜』の永禄十年十二月二十八日の条にも「一方ハ山岳相續キ本丸ノ際ヲ堀切テ隍塹トス」と記載されている。ではこの堀切とはどこにあったのか。 堀切の存在が想定される場所としては、村上城の丘陵の幅が狭まる「四ツ御門」と、「出櫓」附近ではないかと考えてみた。現地で見る限り、四ツ御門附近は若干周囲より低くなっている点が確認できるだけで、堀切があったという確証は得られなかったが、村上城は堀直竒の時代に、削平面をさらに掘り下げて曲輪の面積を広くしたとのことである。この追加削平を行ったのがどこなのかはわからないが、慶長期に描かれた「越後国絵図」の「村上ようがい」では、近世三ノ丸にあたる曲輪がもっと狭く描かれているように見える。近世三ノ丸と二ノ丸の間には現在よりも高く切岸があるようにも見えるが、この部分に堀切があったかもしれない。 もうひとつの堀切は明瞭に痕跡と思われるものがあった。場所は出櫓石垣附近の「黒門」想定地である。ここは上下二段の通路があり、門扉がふたつ並ぶ特異な構造の門であった(「ビジュアル再現村上城」、「越後の虎 越後勢の軌跡と史跡」参照)が、調査した日には出櫓附近の石垣改修工事が行われていたため、普段の通路となっている「上の道」が閉鎖され、普段は藪化している「下の道」が迂回路に充てられていた。その「下の道」から見ると、「上の道」の黒門附近に、U字型の石垣があるのに気づいた。これは、堀切を石垣で埋めたものであろうと思う。「上の道」を通るだけでは気づかない遺構である。また「下の道」は「上の道」と再び合流するが、かなり無理やりな合流のしかたである。これは、「下の道」は本来道ではなく、「上の道」とは別な削平面、つまり帯曲輪であったのではないかと考えた。「上の道」はいわゆる尾根道であり、近世黒門附近で掘り切られていたことと、「下の道」はその尾根の下を通る帯曲輪であったことが想定された。
本丸は、前述の絵図によると大別して二段にわかれていたようである。その名残が出櫓の付け根のやや広い腰曲輪(帯曲輪)であろう。さらに、現在石垣が積まれている場所を見ると、周囲を取り巻く帯曲輪の削平面よりもやや高い盛り土の上に積まれていることが分かる。このことから、本丸は帯曲輪を含め、二〜三段程度の段郭で形成されていただろうと推測する。あるいは石垣の基壇になっている盛り土は、土塁の痕跡かもしれない。
Wの曲輪は近世においては「鉄砲蔵」とされる場所である。ここも中世にどうなっていたかは分からないが、後述する居館の位置の関係から、居館を曲折防衛できる出丸として用いられていたのではないかと思う。X曲輪は北側の出丸である。先端の一段下がった曲輪には、尾根を掘り残した大型の土塁がある。ただここも、純粋に中世遺構と呼べるかどうかは微妙なところである。 最も中世期の遺構を濃厚に残しているのは国道七号に面した東側山腹・山麓である。ここは国道に面して大型店舗なども並んでいるため、旧状を失った部分も多い。全体的に植林地となっていて、どこまでが遺構なのかわかりにくい部分もあるが、全体的に中世的な遺構をよく留めている。近年「中世散策コース」が整備され、本丸冠木門前の埋門から山腹、山麓を通る小径がなかなかいい雰囲気ではある。 東側は西側に比べて山の傾斜が緩やかで、かつ深い沢が入り組んで地形も複雑である。ここには多くの腰曲輪・馬蹄段や長大な竪堀、土塁虎口などがある。このうち、上段の比較的大きい腰曲輪は近世も使われていたらしい。これはおそらく、本丸冠木門脇の埋門との関係上のことであろう。曲輪自体は中世期から存在したと思われる。 竪堀は、堀4が最も明瞭かつ大規模であるが、どうやらこの周囲には四本の竪堀があったようである。この最も南側の竪堀は山麓附近で沢を利用した外堀(堀6)に繋がっている。この外堀は自然地形を利用したものであろうが、規則性のある折れを持っていることや塁壁に掻き下ろしの痕跡がみられることから、外堀の一部とみていいだろう。竪堀はそれぞれ山麓附近で緩やかに屈曲して帯曲輪に変化する。堀4以外の竪堀はあまり明瞭ではなく、竪堀とみるか自然地形とみるかはかなり微妙である。しかし、越後の城郭に連続竪堀がよくみられる事を考えれば、竪堀である可能性は高い。位置的にも合理性がある。竪堀については三ノ丸の北東(堀3)、北西(堀2)、および西側の七曲の途中(堀1)にも認められる。とくに竪堀3は非常に規模が大きく、竪土塁を伴っている。竪堀1と2は、近世の居館である「御屋敷」との一体化のために築かれたものであるという見方もあるが、どうも近世城郭と竪堀という手法は個人的にはやや違和感がある。一応これらの竪堀は中世期から存在したものと考えてみたい。近世に居館と一体化した防衛ラインを築いていたかどうかについてはここでは結論を保留したい。
東南側山麓の曲輪群には、小規模な枡形虎口(南虎口)がある。これは間違いなく中世本庄城の遺構であろう。枡形は切岸と土塁に囲まれていて、土塁の間の虎口の前には浅い堀(堀5)をまたぐ土橋がある。この堀は北東側では大きな竪堀に変化する。南側へは堀というより溝程度の深さで30mほど続くが、堀単独の防御力は乏しくとも真上の塁壁を高める効果は発揮している。 これらの東南の遺構群に比べ、東北側の削平地群は中世期の遺構なのかどうか、判断に迷う。削平面は異様に広く、特に防御を意識したつくりにもなっていない。この方面は近世に家臣団の屋敷があった場所でもあるから、そのときにかなり改変されているかもしれない。ただし、近世の「田口中門」「坂中門」へと向かう深い侵食谷に築かれた土塁虎口(仮称・田口坂下門・近世の「田口坂口御番所」)は間違いなく中世の所産であろう。 中世本庄城の根古屋がどこにあったかは判断が難しいが、一説にこの東側の遺構群がそれであるとする説もある。その根拠となっているのが『永禄年中北越村上城軍認書』にある「東の根小屋を責める・・・」という記述である。また、大家健氏は著書「図説中世の越後」の中で、慶長絵図の村上ようがいが、実際には表裏を逆に描かれているのではないか、と示唆し、やはり東側に根古屋があったという説を唱えている。しかし、近世に居館が設けられた「御屋敷」附近にあった、という説もあり、なお断定しがたい。地形的に見れば、西側の近世の大手道(「七曲」)のある斜面は相当に急斜面であり、曲輪などの防御遺構は一切見られない。仮に西側に根古屋を設けたとすると、根古屋区画と要害区画の連携が取りづらい地形にある。逆に東側は比較的緩斜面が多いことと地形が複雑なことから、多段的な防御が可能な地形である。この場合、本庄城の立地はいわゆる「後堅固」ということになるだろう。その方がより戦国期の城郭としては自然な姿である。やはり戦国期の根古屋としては東側の方が相応しいと思える。 さらに、『上杉家御年譜』では、「飯野原」の合戦のことが記載されている。飯野というのは村上城の西南山麓にあたる地区である。この地区は「原」つまり町屋ではなく未開の地であったのである。農業生産地としても、三面川河口に近く氾濫原が広がっていただろう現在の市街地よりも、東側の狭い平地や丘陵の南側(神納集落方面)の方が農耕に適していただろう。さらにこの方面は、岩舟潟とも水運で繋がっていたはずである。また、通常中世城郭の居館は南向きの台地先端や、南に開口する谷戸の奥に設けられることが多い。これは日当たりを考慮したものである。しかし本庄城では南側にこれに該当する地形が無い。そこで東向きか西向きの位置を選ばざるを得ないのであるが、やはり朝日の射し込む東向きの方が居館としては相応しい気がする。西向きでは日照時間が短い上、夏は西日の暑さが夜まで残るであろう。 では西側には何も無かったかというと、そうでもないと思う。近世村上城の居館部分はわずか数mではあるが、河岸段丘上に位置しているのである。ここには搦手を守るための屋敷群が置かれていたはずである。『永禄年中北越村上城軍認書』に出てくる「村上西ノ町口ヲシマキリ(閉め切り)・・・」とはこのあたりを指しているのかもしれない。近世の居館は城郭としての立地よりも、新たに計画整備した城下町との関係を重視したものではないか。なお、この「認書」には「村上」という地名が多く出てくるが、永禄年間にはまだこの地名はない。これは、この「認書」が近世初頭に書かれたものであるからである。
長々と書き綴ってはみたが、以上、まったくの想像の産物である。 [2004.06.29] 【参考文献】
【参考サイト】 SPECIAL THANKS TO ワタナベ殿 |
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