山中城めぐり
一般に地味なイメージのある土塁と空堀の城。
しかし、この山中城はその土塁と空堀の組み合わせで
ここまで多彩な表情を見せてくれる。
北条流のハイテク築城術を惜しみなく駆使した堅城。
豊臣軍にも陥とされる事はない、そう安心していた北条氏を驚愕させたのは
わずか半日での落城劇でした。
そこに時代の波、天下を握る者がもつ勢いを感じます。
同時にそれは、五代百年に渡って君臨した小田原北条氏の
栄光の終焉の序曲でもありました。
復原された旧東海道の石畳の道。この東海道を敷地内に取り込むような縄張りで山中城が建てられていた。 | 秀吉軍来襲に備え急遽整備された岱崎(だいざき)出丸。普請半ばで小田原の役となり未完成、といわれますが、複数の曲輪や櫓台を備え、ひとつの城としても十分なほどの堅固さではないでしょうか? |
岱崎出丸の畝堀。この下が東海道。羽柴秀次らの攻城軍はこの方面から押し寄せてきました。 | 岱崎出丸の「擂鉢曲輪」。その名の通り擂鉢のように中央部が窪んでいます。岱崎出丸にはこの他、武者溜り、馬場、櫓台、虎口などが見られます。 |
三ノ丸の堀。二重の堀になっていて、外側を水路が通っています。 | 三ノ丸堀そばの南櫓跡。整備されていませんが、何かホッとするものがありますね・・・。 |
水の手の一つである田尻の池。斜面を流れる雨水や湧き水を土塁で囲った池に導き、溢れた水は三ノ丸堀に排水していた。 | 田尻の池の一段上にある箱井戸。自然の湧水を貯め、田尻の池に流すことで水の腐敗や鉄分による変色を防いだという。いや〜科学的ですねえ! |
西ノ丸周辺はこれでもか、というくらいの畝堀、障子堀が連続する。写真は西の丸堀。 | 西櫓周囲の畝堀。 |
同じく西櫓周辺の複雑な畝堀。この写真のあたりに曳き橋が架けられていた。 | 西櫓と西の丸の間の障子堀は最大の見所だ。 |
西櫓。低い土居に囲まれています。掘立て式の建物柱穴などが見つかったそうです。 |
模擬冠木門のある西ノ丸。写真中央部には見張台があり、各曲輪の出入りを監視した。 |
二ノ丸と西ノ丸の間の堀切。こういう「ふつう」の堀切を見ると妙な感じがする。 | 二ノ丸と本丸の間の堀切にも多くの畝堀が見られます。木製の橋が復原されています。 |
本丸周囲の堀も非常に深く、底部には何条かの畝が見えます。 |
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三段の曲輪が連続する本丸跡。兵糧蔵跡の礎石が展示されています。 |
本丸の天守櫓跡。山中城に天守と呼べるものがあったかどうかは疑問ですが、二層の望楼程度のものはあったのではないでしょうか? |
北ノ丸堀。畝堀ではありませんが、深さ・幅とも規模が大きく、北条系城郭の特徴をよく表しています。 | 最後の攻防の舞台となった北ノ丸跡。城将・松田康長は奮戦の末、戦死した。 |
本丸と二ノ丸を隔てる堀切底の非常に複雑な畝堀。 |
二ノ丸。この曲輪にも櫓台跡があります。 |
二ノ丸虎口。横矢の掛かった堀底状の登城路になっています。 |
三ノ丸跡に建つ宗閑寺。戦死した将兵の菩提を弔っています。 |
宗閑寺境内には、山中城の守将・松田康長、松田右兵衛太夫、間宮康俊、箕輪城主・多米出羽守らの墓とともの、寄せ手で討ち死にした豊臣方の武将・一柳直末らの墓が並んでいる。 | 城址を分断する国道一号線。山中城は昔も今も、東海道を取り込んで交通の要衝を守りつづけています。 |
城址はよく整備されているので(整備されすぎ?)夏でも安心して見学できます。国道一号は幹線道路で交通量が非常に多い(特に大型車)なので、行き帰りや見学中の事故には注意したいですね。 |