「八重、わしは水軍を持つぞ。山国甲斐が水軍を持つ。その水軍で京に攻め上る。」
映画「天と地と」で、信玄が側室・八重の方(実在不明・たぶん架空)に夢を語るワンシーン。そして信玄は、甲相駿三国同盟を破棄して駿河に乱入することにより、念願の水軍をも手に入れます。この持舟城はそんな水軍の基地であった城のひとつです。しかしその切り札である武田水軍は活躍の場を与えられることもなく信玄の死を迎え、その後は長島一向一揆や本願寺十年戦争などの「ここぞ」という時に投入されることもなく、駿河湾周辺で北条水軍と小競り合いに終始します。持舟城の最後の役割は、落城した高天神城の城兵収容で、結局、武田氏の滅亡によってその使命を終えます。上洛の切り札であった水軍の基地が、落日の武田氏の最後の1ページを飾ってしまったこの不運。ここも、戦国の世の無常を今に伝えてくれる場所です。
水軍基地、といっても、僕が今まで見てきた安房水軍や北条水軍の城とは異なり、やや内陸に寄っている上、駿河湾岸の海岸線は起伏の少ない穏やかな砂浜で、舟溜りになりそうな天然の良港は丸子川河口くらいしかなさそうです。現在の用宗漁港はこの丸子川河口を人工的に開削してつくったもので、たぶん武田氏が水軍を手に入れた当時の地勢とは全然違っているでしょう。もしかしたら、地震等で海岸線の位置も変化しているかもしれません。
持舟城はJR用宗駅の背後、蜜柑畑になっている小高い丘の上にあり、同じくらいの標高の丘が続く最も北東の端にあります。尾根続きは堀切で断ち切っただけのシンプルな城で、もともとここでの戦闘をあまり意識しない、海上交通・河川交通の番城的な位置付けでしょう。ただ、大した高さではない割には現在の静岡市主要部全域をほぼ見渡すことができ、それなりの戦略的価値はあったと見ました。もしかしたら現在畑になっている尾根続きの丘陵上にも、曲輪などがあったかもしれません。
主郭跡には「持舟城跡」の石碑と、なんとも言えない荒れ果てた廃寺があります。いかにもなんかありそうな廃寺、夏の夜の肝試しに最適です(笑)。ところどころに古びた石積があるのが気になります。この寺を建てたときのものなのか、遺構なのか不明ですが、蒲原城などにもこうした石積がありました。遺構なのかどうか、ご存知の方、教えてください。