子を失った幻庵の悲しみ

蒲原城

かんばらじょう Kanbara-Jo

別名:

静岡県庵原郡蒲原町蒲原

 

城の種別

山城

築城時期

南北朝期

築城者

蒲原氏

主要城主

蒲原氏、佐竹氏、北条氏等

遺構

曲輪、土塁、堀切、石積 等

善福寺曲輪と富士山<<2002年10月13日>>

歴史

築城時期は明らかではないが、鎌倉期に入江清定の三男、清実が蒲原荘に居住し蒲原氏を名乗ったとされるが、築城は南北朝期と推定される。
天文四(1535)年ごろには蒲原氏徳が在城し、今川氏領国に対する富士川以東への備えとなった。天文十四(1545)年頃には飯尾豊前守が在番していた。この頃は駿東地区での北条氏との騒乱の中で、度々城将が替わっていたらしい。氏徳は永禄三(1560)年五月の田楽狭間合戦で討ち死にし、子の徳兼は駿府で今川氏家臣の高林源兵衛が今川氏真に謀反を企てた際にこれを討伐し感状を受けている。永禄四年九月頃には佐竹雅楽助高貞が城番であった。

永禄三(1560)年の今川義元の戦没後、衰退した今川氏を援ける為、北条氏が駿河に駐屯し、永禄十一(1568)年には北条氏家臣の布施佐渡守康則が鉄砲隊とともに守備を命じられている。永禄十一(1568)年、武田氏は甲相駿三国同盟を破棄し駿河へ侵攻、これに対し北条氏康、氏政父子は四万五千の大軍を伊豆半島に進軍させ、海上では水軍三百隻を沼津から清水に展開したが、武田軍一万八千は薩捶峠に布陣し、四月まで対峙した末、双方兵を退いた。この戦いで蒲原城の重要性を認識した北条は、北条幻庵長綱の子、北条新三郎氏信(綱重)、箱根少将長順兄弟を蒲原城に派遣、城郭を改修させた。同年七月、信玄は再び駿河へ侵攻するが暴風雨により富士川が増水して混乱、夜襲を受けて敗走した。永禄十二(1569)年十二月、信玄は三たび蒲原城を攻撃、十二月五日夜から翌六日未明にかけて武田勝頼、武田典厩信豊を総大将に蒲原城に攻めかかり、城将北条新三郎・長順兄弟以下、清水・笠原・狩野氏らの将兵一千はことごとく討ち死にした。武田軍は小幡弾正左衛門が討ち死にした。信玄の配下では山県三郎兵衛昌景が江尻城代として庵原郡を支配したが、蒲原城将の名は明らかではない。天正十(1582)年の織田信長・徳川家康の甲斐・駿河への侵攻の際、蒲原城は三月四日、朝比奈駿河守信置が守備していたが徳川軍の攻撃により落城したと言われる。

東海道の難所、由比ガ浜と薩捶峠を眼下に控え、「海道一の堅城」と呼ばれました。由比ガ浜は現在も東名高速が海へ張り出し、台風や高波のときなどは通行止めになってしまうという、交通の難所です。「城山」と称される山は周囲と比べて飛びぬけて高い山、というわけではありませんが、南側は急な崖、他の三方も深い谷に守られた堅固な要害でした。
甲相駿三国同盟が信玄の駿河侵攻によって破られた後、駿東一帯は武田氏と北条氏による激しい抗争が続きます。そんな中でも、北条の長老格であった幻庵長綱の子ふたりが討ち死にしたこの蒲原城の攻防戦は最も激しかった戦いのひとつでしょう。幻庵の長子、三郎は小机城将でしたが永禄三(1560)年に死去、そして新三郎氏信(綱重とも)、長順のふたりの息子をこの蒲原城で失います。乱世の定めとは言え、幻庵はこの悲報をどのような思いで受け止めたのでしょうか。逆に信玄は書状で「例式四郎、左馬助信豊聊爾故、無紋に城へ責め登り候、まことに恐怖候の処、不思議に乗り崩し候」とし、勝頼と信豊の後先省みない猪突猛進振りをたしなめつつも、なんとなく息子と甥の武勇を誇らしそうに披露している心情が伺えます。

蒲原城はJR「新蒲原」駅の北西に聳える標高149mの山城で、地元では「しろやまさん」と呼ばれているそうです。北条氏が進駐した時代に大規模な改修・拡張が加えられましたが、残念ながら大手口、根古屋などは東名高速道路建設により消失しました。主郭と背後の善福寺曲輪周辺はよく整備されていますが、その他は深い草の中に埋もれてしまっていました。特徴としてはところどころに小規模ながら石積みが見られること。持舟城を見学した際に、遺構なのかどうかわからない石積みをいくつか見ましたが、そこでの石積みに似ている気がします。土塁やこの石積みは一部復元、といった感じでした。主郭付近からは駿河湾が一望のもとに見下ろされ、前述の薩捶峠、由比ガ浜や富士川河口を見下ろせる、戦略上絶好の立地と見ました。

見学路は直接麓から上る道もあるらしいですが、城址の東側に道路が走っていて、山の中腹に駐車場があります。そこからだと主郭まで緩やかな坂道を10分程度。わりと見学もしやすい場所でした。この日は麓でお祭りをやっていて、多くの人で賑わっていました。もしかして蒲原城も人だらけじゃ・・・なんて思っていましたが、行ってみると人っ子ひとり居らず、とうとう誰にも会わないまま見学終了。いや、僕にはその方がいいんですが。。。

Choukanzu.jpg (62537 バイト)

蒲原城鳥瞰図

<<現地解説板より>>

中腹の駐車場から攻めるとすぐに搦手に。本当は大手から堂々と入城したいところだが、大手口が消失した今となってはいたし方なし。 搦手から少し登ったところに解説板があります。その背後には巨大な大空堀があります。ちょっと大きすぎて、自然地形に見えないこともありません。

搦手からさらに登ると、このような石組みが見えてきます。 主郭には「本郭南曲輪」の看板があります。地元で「しろやまさん」と愛称されている神社があります。
蒲原城址の碑。近くには、城将北条新三郎を偲ぶ石碑もあります。 由比ガ浜と薩捶峠を見る。この城を抜かずしては、東海道を抜けることはできないでしょう。
主郭先端部から整備されていない崖のような斜面を降りて井戸曲輪へ。肝心の井戸はわかりませんでしたが、写真の堀切がありました。 主郭から見下ろす善福寺曲輪。こちらは復元整備されて、物見櫓風の展望台などもあり、ちょっと児童公園に見えないこともありません。
主郭と善福寺曲輪を断ち切る大堀切。岩盤をくり抜いた豪快な堀切です。崩れてはいますが石組みらしきものの跡もあります。 善福寺曲輪から堀切越しに一段高い主郭を見る。善福寺曲輪は土塁が復元され、発掘物などについての解説もあります。

善福寺曲輪には写真のような、ちょっと珍妙な逆茂木があります。ちょっとしたシャレですかね(^^) 堀切を通り抜け、帯曲輪を歩くと、写真のような石積みが見られます。
善福寺曲輪北端の斜面下には腰曲輪があり、土塁や石積み(一部復元)があります。土塁のある腰曲輪は、ちょっと横堀みたいに見えます。 腰曲輪の石積み。高石垣ではありませんが、戦国期らしい粗々しさがあります。

 

交通アクセス

東名高速道路「富士」ICより車20分

JR東海道線「新蒲原」駅より徒歩15分。

周辺地情報

 

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、別冊歴史読本「武田信玄の生涯」 (新人物往来社)、「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)、現地解説板

参考サイト

 

 

埋もれた古城 表紙 上へ