盆地地形の長野市周囲は比高400m前後の山々がぐるりと囲んでいるのですが、まったく呆れるほど山城の多いところでもあります。お城が多いということはそれだけ城主、領主が割拠していることの裏返しでもあり、「これじゃ治まるものも治まらないよなあ」という感を強くします。
その中のお城のいくつかは、上杉VS武田の宿命の対決の中で構築されたり、あるいはもともともの土豪の居城が大改修を受けたりしているわけですが、この若槻山城もそんな甲越の緊張状態の中で生まれたお城のひとつではないかと思います。
ここを訪れるきっかけとなったのが三池純正氏の説、「上杉謙信の妻女山布陣はなかった」という説で、これによると妻女山とは「西条山」(にしじょうさん)が正しく(たしかに『甲陽軍鑑』でも「西条山」と記されている)、この西条山は千曲川右岸ではなく、左岸の善光寺方面にあった、とするものです。この「西条山」が「さいじょうさん」と誤読されたことから「上杉軍の妻女山布陣」が定説化してしまった、といくつかの傍証を示し、実際に妻女山に上杉軍が布陣したこともあるがそれは天正十(1582)年の上杉景勝の陣である、などと考証、そして氏はいくつかの山城の名を挙げ、この若槻山城こそが謙信が布陣した「西条山」ではないか、との仮説を提唱されています。
この説を読んで以来、この「若槻山城」という名前が気になって仕方がなかったのですが、近年、長野市でハイキングコースが整備されたということを耳にして、長駆ナガノシティーまで行ってきました。事前に長野市の文化財担当窓口に場所を聞いていったので迷いはしませんでしたが、なかなかわかりにくい場所にあります。遊歩道はよく手入れされ、城内の主要部はきちんと下草も刈られているため、場所さえわかれば安心して見学できます。
若槻山城は確かに規模が大きく、その様式から見ても「信濃流」山城を上杉氏がさらに改修していることはほぼ間違いないでしょう。しかし果たして例の「第四次川中島合戦」でここに布陣したかどうか、と言われれば「わからん」としか言い様がありません。というのも、地理的に見て上杉軍の集結基地であった善光寺ともやや距離がある上、主戦場とされる川中島中央部、八幡原や海津城とはさらに距離があり過ぎるのです。もしここに布陣したとしたら、通説で語られている合戦の模様は根底から覆ることになります。つまり、雨宮の渡しを渡るのも、信玄の啄木鳥戦法も、それどころか八幡原での遭遇戦もあり得ず、取り得る選択肢は「長期対陣」だけになってしまうのです。上杉軍が関係した城郭としては善光寺の真裏に葛山城や大峰山城などもあるだけに、わざわざ少し奥まった若槻山城に布陣する、というのも疑問が残ります(もちろん部隊を割いた可能性は否定できない)。むしろ、200日にもおよぶ対陣となった「第二次川中島合戦」における、糧道確保を目的とした上杉側の陣地のひとつ、とも思えます。通説で語られる川中島合戦の模様がどれだけ正しいか、というのもかなり疑問ではあるのですが、若槻山城布陣説は一切の合戦の経緯が根底からひっくり返ってしまう話なだけに、もう少し慎重に考えてみたいと思います。
とはいえ若槻山城そのもの自体、かなり魅力のある山城ですので、一見の価値はあります。長野市街地から坂中峠へ向かう県道の南側中腹から「若槻林道(砂利道です)」が分岐しており、道なりに10分弱ほど進むと入り口の標柱が見えてきます。ここから主郭までは緩やかな登りを10分程度です。この主郭から更に比高差150mほどの急斜面を登ったところには「番所(ばんどこ)」と呼ばれる物見の曲輪があるのですが、こちらも単なる「物見」では片付けられないほど立派な遺構があり、必見です。ちょっと山道が大変ですが、ぜひこちらも押さえておきたいところではあります。訪れた時期が六月中旬と、山城シーズンとはいえない時期ではありましたが、手入れのされた山の中は緑がとても美しく感じました。
[2005.03.22]
【若槻山城の考察】
若槻山城は、三登山の支尾根が坂中峠方面にせり出した峰の支尾根中腹、標高687mほどの場所にある。浅川西条集落からの比高差はおよそ250m程度であるが、城の位置は集落からかなり引っ込んだ場所にあり、領域支配の城というよりは完全に詰城に徹した感がある立地である。
若槻山城の背後の峰続きには「番所」(ばんどこ)と呼ばれる場所がある。名前の響きからすると単なる見張台のようであるが、実はなかり大規模な施工を施した山城そのものである。つまり、若槻山城は、本城と番所の二つの要害を持つ複合城郭であると言える。さらにこちらは見ていないが、麓にも出城と見られる小城砦があるようで、そうだとすれば山の麓から峰までに及ぶ、かなりの規模の山城ということができる。
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若槻山城(本城)平面図(左)、番所平面図(中)、鳥瞰図(右) ※クリックすると拡大します。 |
若槻山城の本城は三登山の主尾根から東南に向かって降りる支尾根の中腹に築かれており、大別して五段〜七段ほどの綺麗に削平された曲輪群から成り立っている。曲輪群の間に堀切はなく、切岸のみによって区画されている。最上段のT曲輪は低い土塁がほぼ全周している。この手の山城としては面積も広い。曲輪の中、および周囲の土塁上のところどころに川原石が積まれている。これはおそらく投石用のものだろう。U曲輪も面積が大きく、低い土塁が取り巻いている。高い山の上の曲輪で土塁がほぼ全周している曲輪がふたつ並んでいるのも珍しい。「あ」の部分は現地の解説板によれば井戸とされているが、それらしい痕跡はなかった。むしろ形状から見て、枡形虎口であったのではないかと思う。また「い」の虎口は、U曲輪の土塁上を進む通路が一旦竪堀6の底を通り、小規模な段を経て虎口に至る構造であるが、本来の虎口かどうかはなんともいえない。しかしこのあたりも川原石が散乱しており、虎口を意識した投石陣地であったと考えることもできる。この竪堀6は南側の腰曲輪を横切って山腹に落ちてゆく。X曲輪まではまとまった広さの曲輪が続くが、その先は急峻な痩せ尾根となり、大きな切岸に達する。この切岸は堀切にはなっていないが、南側に向けて竪堀7が延びており、登山道を横切っている。その先端の痩せ尾根上も小規模な段郭が続いている。
T曲輪の背後には大堀切3と堀2の連続堀切があり、長大な竪堀として山腹に続いている。北側斜面には小規模な竪堀4も附随する、連続竪堀の様相である。これだけでも構築主体がある程度想像できる。番所に向かう尾根の先にはさらに堀切1があり、これも長大な竪堀となっている。この先はつづら折の急坂が続き、番所へと向かう。若槻山城の本城はこの堀切1までと見ていいだろう。
「番所」は堀切1から20分ほど登りつめた峰上にある。比高差は150mほどある。「番所跡」の標示の立つ曲輪Tは涙型の長さ20m、幅8mほどのもので、周囲は土塁で囲まれている。とくに背後の尾根続きに備えた土塁は高い。こうした技法は小笠原氏系統や村上氏などの山城で定番として見られるものである。案の定、背後には深さ4mほどの堀切1があった。ここまでで城域は終わりかとも思ったが、念のため尾根続きを進んでみると、小規模な堀切2、さらに5mほどの深さの堀切3があり、そこを越えると番所よりも標高が若干高い場所に、ほぼ同じ規模の曲輪Uがあった。この曲輪も背後に大土塁を背負っている。むしろこちらの方を番所、あるいは狼煙台としたいところである。さらに尾根続きを確認してみると、四連続の堀切が深々と尾根を断ち切っている。中でも堀切6は高さ10m以上ある巨大なものである。この先はしばらく平坦な尾根が続いた後、三登山へ向けての登り道となっていた。この四連堀切までを城域と見ていいだろう。
この番所は山城としては大変狭く、とうてい籠城に耐えられるものではない。その名の通り、普段は見張り場や狼煙台として使われたものであろう。ただし背後の大規模な堀切群を見ると。地形上どうしても弱点となる尾根続きに最大限の警戒を払ったものであるともいえる。そういった意味では単なる見張というよりも、やはり一個の山城としての機能を持っていると考える方がよい。
若槻山城の性格を考えると、鎌倉時代の土豪若槻氏との関連はほとんどなく、少なくとも現存遺構は戦国時代のものであることは明瞭である。本城と番所の関係を考えるとこの地方特有の築城手法に合致することから、高梨氏の支族が築いたというのも納得できる。しかし、堀切や竪堀を見る限り、上杉氏流の技法が用いられているのは明白である。おそらく、善光寺平から春日山城に至る防衛線の一旦として、大規模に拡張されたものであろう。
ただし、ここから川中島では遠すぎて、直接対陣の場所とはなり得ないという気がする。海津城との位置関係などを考慮しても、仮にここに対陣するとしたらそれは完全に長期対陣の構えであり、川中島をめぐっての直接対決にはなり得ない。当然、通説で語られている川中島合戦の経緯は成り立たない。通説の決戦の模様を考慮に入れなくとも、上杉謙信という武将の性格を考えた場合、わざわざ遠征して、討ち果たすべき長年の宿敵の主力を目の前にしながら、遠く離れた安全地帯に陣を張って様子を伺うことなどあり得ないという気がする。この人物は基本的に決戦主義者なのである。若槻山城布陣の仮説は大変興味深いが、「西条山」を若槻山城に比定することはもう少し慎重でありたい。
[2005.03.22]