諏訪大社の上社にはNHK大河ドラマ「風林火山」でも重要な位置づけを演じる名族・諏訪氏がいたこともあり、諏訪氏そのものやその居城である上原城、桑原城などが比較的有名ですが、下社大祝の金刺氏系となると知名度もイマイチ、その城郭も地味でほとんど知られていません。ここで紹介する桜城はこの金刺氏の詰めの城にあたる山城なのですが、非常に地味な存在です。
金刺氏は本来、諏訪氏よりもさらに古い時代の名族とされます。平安末期頃から武士団としての活躍も見られるようになり、鎌倉時代には金刺盛澄のように弓の名手として名を馳せる者も輩出します。しかし室町期に上社大祝の諏訪氏との間が険悪化し、たびたび衝突を繰り返すようになります。 さらにその後、上社諏訪氏で惣領家と大祝家が争うようになり、ついには大祝・諏訪継満による惣領・諏訪政満の斬殺事件が発生、上社は内訌状態に陥ります。そのとき下社金刺興春は漁夫の利とばかりに上社に侵攻しますが、逆に撃退された挙句に下社にも放火され、当の本人の興春も戦死するという大打撃を蒙ります。
クライマックスは永正年間の上・下の対立で、下社金刺氏は荻倉要害(山吹城とされる)に立て籠もるのですがそれも敵わず、結局は甲斐の武田信虎を頼って亡命します。金刺氏は武田氏の庇護のもと、旧領回復を狙いますがそれも敵わなかったようで、結局歴史の表舞台から姿を消してゆきます。
桜城はこの金刺氏衰亡の過程の中でその名が出てきませんが、おそらくはこの滅亡劇のあった永正年間頃までには金刺氏の中心的城郭として成立していたものの、結局ほとんど実戦に寄与することもなく歴史の中に埋没していったものと思われます。その後、諏訪が武田氏の支配下に入ってから、下諏訪の押さえとして桜城を改修した、ともされていますが、遺構面からは直接的に武田氏が手を入れているようには見えませんでした。
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桜城概念図
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桜城は下社秋宮北側背後の山の突端に築かれており、麓からの比高差はおおよそ80mほどです。ちなみにこの下社秋宮附近には平時の居城である霞ヶ城があったとされます。桜城は基本的には単郭に近い構造のお城で、50m×30mほどの比較的広い曲輪が主郭、その他の曲輪は居住性のほとんどない腰曲輪ばかりです。主郭背後の尾根続き方面は三重の堀切がありますが、主郭に建つ鉄塔建設の際の改変か、かなり埋められているようです。また北西山腹に長い竪堀のようなものがありますが、これも城郭遺構ではなく、木材や石材の搬出路であったように見えます。総じて遺構面ではピリッとしません。ただ同じ下社系とされる山吹城や上の城・下の城あたりの山奥の城砦に比べると立地的には一歩進んでいるようにも思えます。
見学にあたっては周辺の道路が狭く駐車スペースもありませんので、下社秋宮の駐車場に置かせてもらい歩くことをオススメします。なお霞ヶ城の看板は下社駐車場から「長生橋」を渡った場所にあります。
[2007.06.12]