下社大祝・金刺氏の戦国城郭

桜城

さくらじょう Sakura-Jo

別名:

長野県諏訪郡下諏訪町横町

城の種別

山城

築城時期

不明

築城者

金刺氏

主要城主

金刺氏

遺構

曲輪、堀切

桜城主郭<<2005年06月26日>>

歴史

築城時期は不明。諏訪大社下社の大祝であった金刺氏が当初、下社秋宮脇に霞ヶ城を築き、後年その要害として桜城が築かれたとされる。

南北朝期には金刺氏は諏訪氏とともに南朝勢力に与し、北条高時の遺児・時行を奉じて北朝方の小笠原貞宗らと闘うが失敗に終わった。

観応元(正平五・1350)年、足利尊氏と直義兄弟が対立(観応の擾乱)した際には直義を支援し、直義の死後は南朝方の宗良親王と結んで北朝方と対立したが、文和四(正平十・1355)年に桔梗ヶ原の合戦で小笠原長基に敗れ、金刺氏は北朝に帰順し、この頃から上社諏訪氏と対立するようになった。文安六(1449)年には金刺氏と諏訪氏が内戦状態となり、これに守護・小笠原政康が金刺氏を支援して介入、小笠原氏と諏訪氏の対立も激化した。

その後、諏訪氏は勢力を拡大し金刺氏を圧迫したが、諏訪氏内部で惣領家と大祝家の内訌が激化、文明十五(1483)年正月八日、上社大祝・諏訪継満は惣領・諏訪政満とその子宮若丸らを神殿で饗応して酔いつぶれたところを謀殺した。しかし継満の行為は諏訪大社の社家衆の反発を招き、継満を干沢城に追い詰め、のちに高遠へ追放した。この上社の内訌に際し金刺興春は上社勢に攻撃を仕掛けたが反対に撃退されて興春は戦死、下社周辺も焼き払われたという。

永正十五(1518)年十二月、諏訪碧雲斎頼満は金刺昌春を攻め、昌春は萩倉要害(山吹城か)に立て籠もったが自落して逃れ、隣国甲斐の武田信虎を頼った。信虎は享禄元(1528)年八月に金刺昌春を擁して諏訪に侵攻を開始、これに対して諏訪碧雲斎頼満、頼隆父子は「シラサレ山」に陣場を据えて武田軍と対峙した。武田信虎は、笹尾塁を取り立て金刺一族や下社牢人衆に立て籠もらせたが、諏訪軍の侵攻により笹尾塁は闘わずして自落した。この一連の騒乱により金刺氏は没落し桜城も廃城となったとされる。

天文十二(1543)年、武田晴信は板垣信方を諏訪郡代に任じて上原城を修築させた。その後下諏訪防衛を強化すべく七月十五日に「下宮ノ城」の城普請を開始させているが、この城が桜城に比定されている。

諏訪大社の上社にはNHK大河ドラマ「風林火山」でも重要な位置づけを演じる名族・諏訪氏がいたこともあり、諏訪氏そのものやその居城である上原城桑原城などが比較的有名ですが、下社大祝の金刺氏系となると知名度もイマイチ、その城郭も地味でほとんど知られていません。ここで紹介する桜城はこの金刺氏の詰めの城にあたる山城なのですが、非常に地味な存在です。

金刺氏は本来、諏訪氏よりもさらに古い時代の名族とされます。平安末期頃から武士団としての活躍も見られるようになり、鎌倉時代には金刺盛澄のように弓の名手として名を馳せる者も輩出します。しかし室町期に上社大祝の諏訪氏との間が険悪化し、たびたび衝突を繰り返すようになります。 さらにその後、上社諏訪氏で惣領家と大祝家が争うようになり、ついには大祝・諏訪継満による惣領・諏訪政満の斬殺事件が発生、上社は内訌状態に陥ります。そのとき下社金刺興春は漁夫の利とばかりに上社に侵攻しますが、逆に撃退された挙句に下社にも放火され、当の本人の興春も戦死するという大打撃を蒙ります。

クライマックスは永正年間の上・下の対立で、下社金刺氏は荻倉要害(山吹城とされる)に立て籠もるのですがそれも敵わず、結局は甲斐の武田信虎を頼って亡命します。金刺氏は武田氏の庇護のもと、旧領回復を狙いますがそれも敵わなかったようで、結局歴史の表舞台から姿を消してゆきます。

桜城はこの金刺氏衰亡の過程の中でその名が出てきませんが、おそらくはこの滅亡劇のあった永正年間頃までには金刺氏の中心的城郭として成立していたものの、結局ほとんど実戦に寄与することもなく歴史の中に埋没していったものと思われます。その後、諏訪が武田氏の支配下に入ってから、下諏訪の押さえとして桜城を改修した、ともされていますが、遺構面からは直接的に武田氏が手を入れているようには見えませんでした。

 

桜城概念図

※クリックすると拡大します

桜城は下社秋宮北側背後の山の突端に築かれており、麓からの比高差はおおよそ80mほどです。ちなみにこの下社秋宮附近には平時の居城である霞ヶ城があったとされます。桜城は基本的には単郭に近い構造のお城で、50m×30mほどの比較的広い曲輪が主郭、その他の曲輪は居住性のほとんどない腰曲輪ばかりです。主郭背後の尾根続き方面は三重の堀切がありますが、主郭に建つ鉄塔建設の際の改変か、かなり埋められているようです。また北西山腹に長い竪堀のようなものがありますが、これも城郭遺構ではなく、木材や石材の搬出路であったように見えます。総じて遺構面ではピリッとしません。ただ同じ下社系とされる山吹城や上の城・下の城あたりの山奥の城砦に比べると立地的には一歩進んでいるようにも思えます。

見学にあたっては周辺の道路が狭く駐車スペースもありませんので、下社秋宮の駐車場に置かせてもらい歩くことをオススメします。なお霞ヶ城の看板は下社駐車場から「長生橋」を渡った場所にあります。

[2007.06.12]

下社秋宮北側に突き出た尾根の先端が桜城。比高は80mほど。「鎌倉街道ロマンの道」に沿って尾根続き側から登ってみます。 尾根上まで上がったら西側の先端部へ。いきなり広い主郭に出ます。主郭には簡単な看板と鉄塔が建っています。
簡単な看板ですが、しっかり桜城ここにあり!と主張していました。それにしても下草が伸び放題だね・・・。 主郭からの眺めは絶景、といいたいところなのですが、この日は猛暑で空気も霞んでしまっていました。
鉄塔あたりから西側先端部を降りてゆくと沢山の腰曲輪があります。一応道はしっかりありますが曲輪内はヤブでした。。。 ちょっと広めの腰曲輪には秋葉社とともに、金刺盛澄にちなんだ「一念石」が鎮座していました。
北西斜面の竪堀状地形。しかし城郭遺構としては少々不自然。木材搬出路か、はたまた鉄塔用の資材搬入用の軌条跡か、そんなところかと想像。 主郭背後の堀切1。土橋状地形もありますがこれもどうやら後世に埋めた跡っぽい。
こちらは堀切2。深さは2mほど。クモの巣が酷いっす。。。 堀2は北側が竪堀となり、隠し曲輪のような平場に繋がっています。この竪堀も妙な段差があり後世に改変されているかもしれません。
こちらは堀3。せっかく三重堀なのにどうも規模は小さいし鋭さもない。ピリッとしませんな。 竪堀1は大手道(?)に繋がる通路としても使われていたようです。途中、クランク状に折れ曲がり、小さな竪堀と連結しています。
南側斜面は一面の畑。たくさん段々がありますがどこまで城郭遺構なのか判断に苦しみます。 春宮とならぶ下諏訪観光と信仰の中心地、下社秋宮。ご神体は春・秋それぞれの宮で半年ずつ祭られているそうです。
この秋宮の駐車場附近が平時の居館、霞ヶ城だったそうな。駐車場脇のコンモリも土塁の名残でしょうか。 遺構などなさそうな霞ヶ城ですが、この道路はいかにも堀痕っぽいです。橋の向こうに霞ヶ城の解説板もあります。お忘れなく。
こちらが霞ヶ城の主郭?駐車場の中央にはカッコイイ金刺盛澄像があります。 木曽義仲の郎党だったという金刺盛澄は流鏑馬の名手で、かの頼朝がその名手ぶりに罪を赦したという。

 

 

交通アクセス

中央自動車道「岡谷」ICより車10分。

JR中央本線「下諏訪」駅から徒歩20分。。  

周辺地情報

附近には金刺氏関連の山吹城や上の城・下の城がありますが、いずれも山深い上に山が荒れておりお勧めしかねます。まずは上社系の上原城桑原城と近世高島城は確実に押さえておきましょう。

関連サイト

 

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「中部の名族興亡史」(新人物往来社)

「信州の山城」(信州史学会編/信毎書籍出版センター)

参考サイト

家紋World 信玄を捜す旅

 

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