石と古墳のコラボレーション

鷲尾城

わしおじょう Washio-Jo

別名:

長野県千曲市倉科〜生萱

城の種別

山城

築城時期

不明(戦国期?)

築城者

倉科氏

主要城主

倉科氏

遺構

曲輪、堀切、竪堀、土塁、石塁

主郭周囲の石積み<<2004年11月21日>>

歴史

築城時期は明らかではないが、この地の在地土豪である倉科氏の居城とされる。倉科氏は応永十四(1407)年の「市河文書」に唯一その名が見え、幕府の御料所であった舟山郷の上納が思うように行かないので、市河越中守・倉科帯刀にその管理を委託した、とあるという。天文年間の武田氏の侵攻によって、倉科氏は安曇に追われたというが詳細は不明である。鷲尾城についての記録も無いが、清野氏の鞍骨城の属城として存続していたと思われる。

ソレガシは正直なところ、鷲尾城というお城の存在を知りませんでした。「日本城郭大系」第八巻をめくってみると・・・確かにそんなお城が載ってるね、という程度の認識しかありませんでした。ここを訪れたキッカケは、この背後の奥深い山に聳える鞍骨城に行くための取り付き口だった、という、それだけの理由によります。この日、案内を引き受けていただいたA殿が事前にルートを検討してくれて、「ついでに途中のこの鷲尾城ってところも通るから、寄っていこう」というノリで、鷲尾城そのものにはお互いあまり関心を持っていませんでした。

ところが!岩場が続く急峻な山道をおよそ20分も登り、尾根筋が近づいてきたころ、目の前の木々の合間から、なんとも形容しがたい見事な石積みが見えてきました。「ホウ、こりゃなかなかですね!」、近づくにつれ、その声は驚嘆の声へと変わります。

鷲尾城は急峻な山の端にいきなり主郭が置かれ、その周囲を見事な石積みが取り巻いています。その高さは高いところで3mを超え、まるで「武者返し」とでも言いたくなるような反りまでついています。その石積みは信濃に多い、平べったい割石による布積みですが、高く反り返るような石積み遺構はまるで真田の松尾古城を彷彿とさせます。この石積みに囲まれた主郭は想像以上に広く、その背後にはこの地方の特色の一つである大土塁が控えているのですが、この土塁も崩落はしているものの石積みで覆われています。そしてその尾根続きには、お約束の大堀切。こちらは二重の大堀切になっていて、その総幅は20mを超えます。ここまででももう、何の期待もしていなかったことを反省しなくてはいけません。

しかし、さらにありました、見事なモノが。主郭背後の二重大堀切を超えると、長さ30mあまりの、あまり削平されていない平場(U曲輪)がありますが、その背後には今度は三重堀切。こちらはあまり深くはないのですが、長い竪堀に繋がっていて、それらが途中で合流しています。いや、なかなかスゴイではないですか。

しかし、これだけではありませぬ。ここから急坂をグイっと登ると、山の中に「倉科将軍塚古墳」が現れます。こちらは五世紀ごろの前方後円墳で、現地の解説板によれば「長野県内屈指」のものだそうで、なるほどなかなか見事なものです。この地方には山の上にこうした古墳があるのは珍しくはなく、有名なものでは森将軍塚古墳、川柳将軍塚古墳などがあります。尼巌城の中腹にも、古墳とその石室と見られる石積みを伴うものがあちこちに点在していました。この古墳だけでも面白いのですが、さらに驚いたことに、この古墳の背後の尾根が深さ8mほどにバッサリと掘り切られているのです(堀6)。つまり、このお城はこの古墳を縄張の一部として、それも主郭よりも高い場所にある、防御や物見の要として取り入れているのです。この堀切は尾根幅が広いので、非常に長く続いています。堀切は実はさらにその上の尾根にもあり(堀7)、こちらは土橋も明瞭です。

鷲尾城平面図(左)、鳥瞰図(右)

※クリックすると拡大します

古墳を縄張に取り入れている例は結構あることはあるのですが、こうした比高差の大きい山城で、しかも大規模な前方後円墳を用いているのはやはり稀でしょう。それにこの古墳を見ると、ところどころに主郭の石積みと似た石が残っており、どうやらもともとこの倉科将軍塚古墳に使われていた石材を引っぺがして、主郭の石積みに転用したらしいことも伺われます。主郭の北側に石積みが無いのは崩れたのではなく、もしかして石材が足りなくなったのではないか?という気もします。

この鷲尾城についての詳しい歴史は不明で、倉科氏の居城であった、と伝わるのみです。この倉科氏というのは、鞍骨城の清野氏、あるいは屋代氏らと同じ村上氏の支族でしょうか。「城郭大系」によれば、「倉科庄の庄司クラスだったのではないか」とされています。戦国期に清野氏は武田氏の麾下に入りますが、倉科氏は安曇に追われた、とされていますので、武田氏に属さず没落したのかもしれません。この見事な石積み遺構が果たして倉科氏の手によるものなのか、武田氏に属した清野氏によるものなのか、はたまた一時的にでも武田の手が入ったものか、なんともいえないところですが、おそらくは「司令塔」鞍骨城を取り巻く衛星支城のひとつとして、鞍骨城と一体運用されていたものでしょう。

なお、ここから鞍骨城までは長い尾根道をゆっくり歩いて一時間ちょっと、というところです。ここまでの登りはややキツイですが、ここからの尾根筋はそれほどアップダウンもないので体力的には楽です。鞍骨城を攻略したい、と狙っている方は、ぜひこの鷲尾城ルートを歩いてみると良いでしょう。そして、とにかく最低でも倉科将軍塚古墳までは歩いてみましょう。

※ただし、鞍骨城はかなり山奥なので、それなりの準備と計画、覚悟が必要。ソレガシはクマに遭遇しました。注意して歩いて下さい。

[2005.06.16]

山麓から見あげる鷲尾城。比高は150mちょっとですが、なかなか手ごわい山です。 麓の大日堂あたりから登ります。この大日堂は真田氏ゆかりのものだそうです。
岩だらけの急坂が延々と続く登山道。かなり足腰にきますが、それだけの苦労の甲斐があります。 山腹に現れた石積みに励まされ、急坂をもう一息!
おおっ、なんじゃこりゃ〜!木々の合間から見えてくる見事な石積みに疲れが吹っ飛ぶぜ! ちょっと写真はイマイチですが、この崩れかけた虎口がまたたまりません。
この石積み、この石の色、この反り、この高さ!部分的に崩れていますが、そこがまた風雪を感じさせてくれます。これぞ古城。 これだけ大量の石をどこから持ってきたのか、この謎はこの数分後、山の上の古墳を見て解けました。
鷲尾城の城址碑と簡単な解説板。倉科氏についてはサラッと簡単に触れられているだけでした。 主郭は30m×20mほどの変形楕円形。曲輪はもうひとつ背後にありますが、主要な曲輪はほぼこの主郭のみと言ってもいいでしょう。
主郭の背後の土塁、というか石塁。この地方の山城は尾根続きに配慮する必要のある地形である場合が多く、定番ともいえます。 主郭背後の二重堀切、堀1&2。主郭からの深さは7mほどもあり、夥しい石塁の破片が散乱しています。
小さな曲輪Uを超えて、三重の堀切3・4・5へ。写真はイマイチで申し訳ないですが、深さ2〜3m程の堀が連続し、竪堀が山腹で合流しています。 五世紀ごろの前方後円墳という倉科将軍塚。これ自体、史跡として貴重ですが、この古墳もまた縄張の一部を為すものであったのです。
古墳背後の深〜い堀切6。これにより、古墳が曲輪として認識されていたことが分かります。古墳には主郭と同様な石がところどころ残り、主郭の石がこの古墳のものであったことが想像されます。 その堀切6、深さは最大で10m、天幅は20m近く、さらに尾根幅が広いので、非常に長〜く続いています。
堀切7の北端。この堀の両端はどこまでも続く長大な竪堀に繋がっています。 さらに高い場所にあった堀7。こちらは深さ3m程度ですが、ここも尾根幅が広いので長〜く繋がっています。真ん中に土橋があります。

 

 

交通アクセス

上信越自動車道・長野自動車道「更埴」ICより車5分、しなの鉄道「東屋代」駅より徒歩20分で登り口(大日堂附近)。そこから主郭まで徒歩20-30分。古墳までは主郭より5分。

周辺地情報

尾根続きに鞍骨城があります。鷲尾城と向かい合う雨宮方面の尾根には唐崎城があります。

関連サイト

 

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

現地解説板

参考サイト

 

 

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