有賀峠の要衝を押さえる

有賀城

あるがじょう Aruga-Jo

別名:天狗山城

長野県諏訪市豊田

城の種別

山城

築城時期

不明

築城者

有賀氏

主要城主

有賀氏、原氏、千野氏

遺構

曲輪、土塁、堀切、竪堀、横堀、石積み

主郭背後の巨大堀切<<2005年04月29日>>

歴史

築城時期は不明だが、諏訪氏の一族である有賀氏が築き、代々居城としたという。

天文十一(1542)年、有賀氏ら諏訪西方衆は諏訪頼重の近習衆と争いとなり合戦寸前となったが、このときは福与城主・藤沢頼親の取成しで調停された。天文十一(1542)年に武田晴信(信玄)が諏訪郡に侵攻した際には有賀備前守昌武は武田氏に味方したが、天文十七(1548)年七月十日、小笠原長時に呼応して武田に叛乱を起こして鎮圧され、追放された。

武田氏は有賀城に原美濃守虎胤を置き、さらに天文十八(1549)年には千野靭負尉に与えられ、千野氏が居城とした。慶長六(1601)年、諏訪頼水が高島城に入ると、その重臣であった千野丹波守房清が屋敷を構えたという。

有賀城は諏訪湖の南西岸の高台にあり、江音寺の背後の尾根先端附近を使ったお城です。ここは諏訪湖沿岸から高遠を経て伊那谷へと抜ける有賀峠の入り口にもあたり、交通の要衝でもあります。「高白斎記」天文十三(1544)年十月二十八日の項にも「在(有)賀へ酉刻御着陣」と記されています。このときは高遠頼継との諏訪をめぐる抗争の最中であり、諏訪から高遠へ到る道筋として、本道の杖突峠とともに有賀峠も重視されていたものと思われます。

もともとここは諏訪氏の一族、有賀氏の居城でした。この有賀氏ら「諏訪西方衆」は天文十七(1548)年に武田氏に対する叛乱に加担して没落、代わりにここに入ったのが「鬼美濃」原虎胤でした。のちに虎胤は小笠原氏の残党への押さえとして、平瀬城将に任じられますので、比較的短期間でここを離れたでしょう。

その後ここに入ったのが千野氏でした。千野氏もまた諏訪氏の一族でありその家臣でしたが、この一族は武田に与する者と反武田に与するものに分裂したらしく、千野山城入道などは反武田に身を投じて没落、逆に千野靭負尉は武田に与して諏訪の安定化に腐心、先方衆としても第一次川中島合戦における八幡の合戦では自身が負傷するほどの働きをしています。また第三次川中島合戦の際には、上杉軍の裏をついて北安曇郡へ電撃侵攻した際にも従軍しています。のちにこの千野氏は、近世大名として復活した高島城主・諏訪氏の重臣となって有賀城を与えられますが、おそらく山城としての有賀城はこの頃にはすでに機能停止していたことでしょう。この有賀城の麓の江音寺は千野頼房の建立といい、お寺の裏手には千野家の墓所があります。またこの墓地脇の畑のあたりには「丹波屋敷」の地名が残り、千野丹波守屋敷跡と伝えられています。

有賀城は尾根が先端附近で二俣に分かれる分岐点に主郭を置き、二方向の尾根と背後の主尾根に遺構を残しています。主郭背後の堀切1は10mはあろうかというダイナミックなもので、一番の見所です。主郭からの眺めはよく、諏訪湖の湖面を眼前に見下ろすことが出来ます。ここから東の支尾根には堀切6や斜めに延びる竪堀5、小曲輪などの遺構がありますが、伐採された木がゴロゴロ放置されていて歩きづらく、遺構もあまり大きくはありません。逆に北東に伸びる主尾根は比較的広い削平地が続き、U曲輪などは主郭と見紛うばかりの大土塁があります。この尾根には横堀8、9、10も見られ、ちょっと新しさを感じるところです。この横堀は通路のようでもありますが、交通の要所である有賀峠への街道に面しており、この方面の防備を特に意識したものと捕えることもできます。全体に遺構もよく残っており、諏訪郡域では突出して攻撃的な縄張りを持っている、見ごたえのあるお城です。

見学に際しては江音寺に車を停めさせてもらい、南側の模擬冠木門から谷戸の中を登ると良いでしょう。この登り口あたりが近世諏訪氏の家老であった千野丹波守の館跡(丹波屋敷)といい、その前を走る農道がかつての鎌倉街道だったといいます。谷戸のダラダラ坂(結構きつい)を10分ほど登り、あとは道なりにつづら折の急坂をゴイっと上がると、巨大な堀切がザックリ山を断ち切っているのに歓喜するでしょう。諏訪の隠れた名城です。

有賀城平面図(左)、鳥瞰図(右)

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[2007.06.23]

有賀峠に面した有賀城、江音寺の赤い屋根が目印。尾根続きよりかなり低いのが気になりますが、このあたりの地形条件では致し方ないことなのでしょう。 江音寺墓所脇の畑のあたりは「丹波屋敷」といわれ、千野氏の屋敷があったといいます。写真の何の変哲も無い農道もかつての鎌倉街道だったという。
尾根の東側、模擬冠木門から谷津の中を登ります。ダラダラしていて結構きつい坂道です。 最後のつづら折を登りきると目の前に巨大な空堀1が現れ、ビックリ&歓喜します。
先に尾根続きをチェック。堀3は小規模なものですが、これによってY曲輪が独立し尾根続き方面への馬出しのようなカタチになっています。 さらに堀4。尾根続きが弱点のこのお城ですが、堀切は堀1以外、意外なほどささやかなものです。
尾根続きの鉄塔附近から見下ろす。Y曲輪はいかにも防御の要のようですが、ちょっと心もとない気がします。 主郭の大土塁東側が虎口らしいです。Y曲輪の直下に小さな削平地があり、そこと曳き橋で繋がっていたのではないかと想像。
主郭は小奇麗に整備され、とても気持ちが良い。尾根続き方向を守る土塁も迫力満点。 その土塁には石積みが、城郭遺構というよりも後世の神社、祭壇などに伴うもののようですが、神氏につながる有賀氏と関連があるのかも・・・?
ちょっとガスっていますが、主郭からの諏訪湖の眺めは最高です。 主郭北東に伸びる支尾根には数段の削平地があり、堀切なども設けられています。
支尾根の堀5、6。このあたりは伐採された木だらけで実に歩きにくい。堀6は大きな竪堀7と繋がっています。 主郭北側のU曲輪との間を分断する堀7も素晴らしい。長い竪堀となり、山の両側に繋がっています。
主尾根上にはまとまった広さの曲輪が連続します。写真はU曲輪。 U曲輪には堀7に面して主郭と見まごうばかりの大きな土塁があります。
V曲輪は西側のみに土塁があります。 有賀峠に面した西側には2、3段の横堀状通路(堀8〜10)があります。単なる通路というよりも、街道を意識した防御の一環と考えたい。
倒木などで判然としませんが、西側には数本の竪堀が落とされています。木々の間に有賀峠へと繋がる街道が見えています。 この堀8〜10に繋がる帯曲輪は竪堀11〜13で分断されています。このあたりの技法は武田氏の改修が入っていることを想像させます。
再び江音寺へと戻ります。江音寺は千野氏ゆかりのお寺です。 その江音寺にある千野家墓所。別家の御櫓脇千野家の墓所もすぐ近くにあります。

 

 

交通アクセス

中央自動車道「諏訪」ICより車15分。

JR中央本線「上諏訪」駅徒歩60分。

周辺地情報

近隣では干沢城、花岡城などがあります。諏訪周辺では上原城桑原城と近世高島城は必見。

関連サイト

 

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「信州の山城」(信濃史学会編/信毎書籍出版センター)

現地解説板

参考サイト

 

 

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