小高い丘は意外に堅固
片倉城
かたくらじょう Katakura-Jo
別名:
|
|
東京都八王子市片倉町
(片倉城址公園)
|
城の種別 |
平山城(丘城)
|
築城時期
|
不明(鎌倉時代?)
|
築城者
|
横山氏? |
主要城主
|
横山氏?長井氏?
|
遺構
|
曲輪、堀切 |
横矢が明瞭な主郭付近の堀<<2001年11月17日>> |
|
歴史 |
「新編武蔵国風土記稿」によれば応永年間には大江備中守師親が在城していたとされるが、これは誤伝であると言われる。はじめは武蔵横山党の横山氏の居城であったものが、建保元(1213)年に横山時兼は和田義盛の乱に加担して討ち死に、この地は大江広元に与えられた。大江広元の次男時広を祖とする長井氏が居城とし、戦国前期には扇谷上杉氏の配下となった。永正元(1504)年九月の武蔵立河原合戦において、山内・扇谷の両上杉氏が戦った際に、扇谷上杉氏方の長井八郎が山内上杉氏に捕縛されているが、この時捕らえられた「椚田塁」を片倉城と比定する見方もある(初沢城であるという説もある)。その後の片倉城については記録がないが、おそらく滝山城・八王子城の支城として、繋ぎの城・烽火中継点として北条氏により接収されたものと思われる。 |
歴史的には不明な点が多い城。当時の情勢から考えて、在地土豪の居城だったものが、北条氏の支城ネットワークの傘下に組み入れられて、おそらく滝山・八王子の支城として相模方面への繋ぎの役割を持っていたものと勝手に推定します。
小高い丘ですが、周囲は予想以上に急崖、しかもいまでも城の周囲には湿地の面影を残しているので、意外に堅固だったと思われます。直接の戦闘があったかどうかはわかりません。
主郭、二郭は芝生公園、三郭と比定される場所は畑になっていますが、とくに二郭、三郭は不釣合いなほど広々していて、実はひとつの曲輪じゃないんじゃない?なんて思ったりもします。主郭を隔てる堀は埋もれて浅くなっていますが、横矢の折れはよくわかります。全体的に古臭い間取りの城で、深大寺城と雰囲気が似ています。北条氏侵出以前の扇谷上杉氏あたりの色彩が濃い印象でした。
|
|
城西側の畑は三郭だという説もありますが否定的な見方もあります。写真は二郭と推定三郭の間の堀。
|
夕照が翳る広大な二郭。あまりに広すぎて、城の曲輪という感じがしません。在地小土豪の城としては不釣り合いな気がします。やはり北条氏の大軍移動拠点、「繋ぎの城」であったと見るべきでしょうか。
|
|
|
主郭の堀切は半ば埋もれていますが、しっかりと横矢が確認できるところが高得点です。堀は天然の急崖に繋がって、その下には今も湿地が横たわっています。 |
決して狭くはないのに、あまりに広い二郭に霞んで小さく見えてしまう主郭。台地先端に位置し、この斜面下の住吉神社は腰曲輪だったと思われます。 |
|
ご覧の通り、短い秋の日の日没間近の見学になってしまったため、詳しくは見ていません。虎口遺構などもあるらしく、機会があればいずれまた見てみたい場所です。 |