八溝修験勢力との接点か

月居城

つきおれじょう Tsukiore-Jo

別名:袋田城

茨城県久慈郡大子町袋田

城の種別

山城

築城時期

応永年間(1394-1427)頃

築城者

袋田氏

主要城主

袋田氏、野内氏、佐竹氏在番衆

遺構

曲輪

月居城主郭<<2005年04月10日>>

歴史

築城時期は明らかでないが、佐竹氏の支族である北酒出氏の一族、袋田氏が応永年間(1394-1427)に袋田城を築いたのがはじまりという。しかし袋田氏は小田野氏を嗣ぐこととなり断絶し一時廃城となる。

室町期にこの依上保周辺は山入氏の支配下となるが、「山入一揆の乱」の最中に白川結城氏に横領されていた。永正元(1504)年に山入氏が滅亡すると佐竹義舜は奥州岩城氏の支援を得て依上保を奪還、月居城は再興され、永正十三(1516)年には佐竹義舜が高垣弾正少弼に月居城の十日在番を命じており、また古河公方家の足利政氏・高基の内紛に際して義舜は石井縫殿助、石井三郎兵衛、滑川兵庫助らに那須への出陣と月居城の籠城を賞して官途や恩賞を与えている。

その後は相川館にいた野内氏が在城し、永禄十(1567)年には佐竹義重が野内隼人に対して周辺の袋田、生瀬に所領を宛がっている。また天正四(1576)年の下津原稲荷神社の棟札には「野内肥前守広忠、同息孫太郎(=忠時)」の名がある。また野内大膳亮忠時は天正十七(1589)年、佐竹義宣の命により奥州須賀川の陣に参陣している。

慶長七(1602)年、佐竹氏の秋田移封に伴い廃城となった。野内氏は出羽大館に移封、野内大膳亮は月居斎を名乗った。子孫は文政十一(1828)年、佐竹氏に願い出て月居氏を称した。

なお月居城の廃城後、元治元(1864)年十月二十七日に月居峠にて水戸藩家老・市川三左衛門ら保守派および幕府軍と、尊皇攘夷派の藤田小四郎、武田耕雲斎らが率いる天狗党の一派が月居峠附近で交戦し、天狗党の一名が戦死した(元治甲子の乱・天狗党の乱)。

茨城県の最北部、国道118号線を北上すると、右手の方にふたコブの異様な山と、その鞍部に祀られた観音堂が遠目でもはっきり見えてきます。この山が月居山であり、この二つのピークの南側の頂上一帯に月居城がありました。標高は409m、比高は200mほど、そそり立つ岩山と山麓を流れる滝川によって、見るからに天険の要害という印象を与えます。山の北麓には日本三代瀑布のひとつとして、また冬には凍りつく滝として有名な「袋田の滝」があり、月居山の北側は一大観光地となっています。

月居城の創立ははっきりわかりませんが、もともとは佐竹氏一族の北酒出氏系の袋田氏が居住したといいます。しかしなぜか嫡流にあたる人物が小田野氏を嗣いでしまい、月居城も廃城となります。このあたりの経緯はイマイチよくわかりません。その後依上保は関東をめぐる戦乱と佐竹氏家中の「山入一揆の乱」などにより白川結城氏が横領していましたが、「山入一揆の乱」を鎮定した佐竹義舜が回復、この月居城には附近の地侍と見られる石井氏や滑川氏などが十日ずつの在番を命じられています。佐竹義舜は山入一揆よって十数年も常陸太田城を追われ、権力を回復した直後でしたが、白川結城氏の内紛につけこんで瞬く間に依上保の領土を回復し、月居城を在番制で維持するなど、かなりのやり手であることがこのことからも伺われます。八溝山系を挟んだ西側に隣接する那須氏との戦いにおいても月居城で籠城したことが当時の文書でわかりますが、戦闘が行われたかどうかは不明です。その後、永正の頃から野内氏の活躍が見られるようになります。野内氏はもともと紀州熊野の出身で相川館に居住していましたが、佐竹氏の配下に入り、石井氏と並んで依上保内における中心的人物となったようです。この野内氏は五代続き、佐竹氏の南奥州での作戦などに動員されています。

月居城の存在を考えるとき、依上保の山岳信仰、修験勢力との関係も考慮する必要がありそうに思えます。もともと八溝周辺は山岳信仰の盛んな場であり、月居城の周囲にも男体山、袋田の滝なども山岳信仰のシンボル的な存在があり、月居山にも大同年間創建と伝えられる観音堂があります。「大同年間」というのはこの種の宗教施設の由来としては一種の「はやり文句」であったようなので信頼が置けるかどうかは別としても、古くからこの界隈が信仰の盛んな地であったことは伺われます。野内氏が紀州熊野出身と伝えられることも八溝山系の修験関係者とのパイプを持っていたのではないか、とも思われます。八溝山系では古代より金の産出も盛んで、それが佐竹氏と白川結城氏による陸奥南郷をめぐる戦いの原因にもなっているのですが、この金の産出に関しても八溝の宗教勢力が採掘権(もしくは採掘技術)を持っていたらしく、経済面においても修験勢力を意識しないわけには行かなかったでしょう。そういう意味では月居城の存在というのは、籠城や戦闘を意識したものというだけでなく、山岳宗教界とのつながりを保つための「接点」としても機能していたのではないか、と思います。この依上保をはじめ、隣接する奥州南郷においても八溝山系では八槻神社や近津神社などの勢力が強く、これらの宗教関係者の力は侮れないものだったでしょう。さらに月居城そのものが月居峠という交通の要所を形成している点も見逃せません。

月居城縄張図

※クリックすると拡大します

月居城の遺構そのものは狭い山の上に数段の曲輪とおぼしき削平地があるくらいで、土塁や堀切などの目立った防御施設は見られません。南側の岩盤の裂け目が天然の堀切となっている程度です。天険の要害であったことを考えればこの程度で十分だったのでしょう。ただ、現在月居観音堂が建つ山の鞍部は月居峠が通過する交通の要衝だったこともあり、何らかの関所的な施設は設けられていたことでしょう。北側の天王山も遠目で見ると城っぽいのですが、平坦な面はあるものの明瞭に遺構と呼べるほどのものはありませんでした。

月居城にはもうひとつ、はるか後代に勃発した奇妙な戦闘歴があります。時は元治元(1864)年というからまさに幕末の動乱期。え、なぜこんな近世末期に月居城?という感じなのですが、水戸徳川家における内紛に端を発した天狗党騒乱において、水戸城周辺や那珂湊の戦いで敗れた武田耕雲斎、藤田小四郎らを中心とする過激な尊皇攘夷派集団(とされる)天狗党の一党が京都にいた一橋(徳川)慶喜への嘆願のために西上を画策、月居峠に差し掛かったとき、月居山に布陣した幕府追討軍が銃砲を撃ち掛け大岩を落としてその行軍を妨げた、というもの。幕府軍には我が越後の新発田藩兵も加わっていたとか。しかし幕府軍はここが戦国時代の城跡だったことを知っていたでしょうか。

[2006.10.22]

東側の生瀬集落あたりから見る月居城。いかにも目立つ山です。この角度からだと城域は左の峰の方です。 こちらは西側の袋田側から見る月居城。城域は右手のピークです。写真では見えないでしょうが、鞍部の観音堂が遠目にもはっきり見えます。
登山口はあちこちにあります。ソレガシは旧月居トンネル西側からアプローチ。中には距離が非常に長いルートもあるので注意。滝の近くのルートの場合、駐車場は全部有料ですのでこちらも注意。 あちこちに自然や歴史についての解説があります。幕末の天狗党の乱についての板もあります。市川三左衛門、コイツが実に悪者で個人的にはかなりイイ感じ(!?)です。
20分ほど山道を歩いて観音堂などがある鞍部へ。ここにも関所的な施設があったでしょう。 鞍部の平場は光明寺(跡)になっています。この平場も城の一部として取り込まれていたでしょう。
鞍部から南の峰へ。比高70mほどながら、途中こんな岩場もあってなかなかの険路です。 山頂には野内氏の事蹟を記した城址碑があります。しかし遺構はというと・・・。
この一枚の写真が遺構のほぼ全て、といってもいいでしょう。数段の削平地がある程度。苦労して登る割には遺構はなんだかねぇ、という感じ。 東側の腰曲輪。もうちょっと何か無いのかなあ。
南側に堀切発見!と思ったんだが、これはどうも自然地形っぽい感じです。でもまあ、尾根を分断するっていう意味では十分立派な堀切の役目は果たしています。 南側の岩場から大子の市街地方面を見る。あいにく春霞で視程はイマイチかな・・・。
いったん下って北側の峰へ。途中にある観音堂は一応大同二(807)年創建、とされます。八幡太郎義家が一夜籠って戦勝祈願した、などという伝承も。 北の峰、山王山は上は平らになっているものの、削平下という感じではありません。それにしてもこの山はハイカーが多いな。
これが袋田の滝、冬には凍結することでも有名です。四段になっているのですが近すぎて上のほうは見えません。ちなみに拝観は有料です。 袋田の滝周辺は大観光地でした。ソレガシもつい買い食いに走ってしまいました。美味です。

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「日立南太田」IC車90分。

JR水郡線「袋田」駅より徒歩40分で登山口。

周辺地情報

近隣に大子城や荒蒔城がありますが山登りは相当キツイです。比較的行き易いのは依上城、町付城、池田古館など。

関連サイト

余湖くんのホームページ北緯36度付近の中世城郭

 
参考文献

「常陸太田市史」

「大子町史」

「山入一揆と佐竹氏」(大内政之介/筑波書林)

「月居城」(青山辦/筑波書林)

「茨城の古城」(関谷亀寿/筑波書林)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「図説 茨城の城郭」(茨城城郭研究会/国書刊行会)

参考サイト

余湖くんのホームページ

埋もれた古城 表紙 上へ